原発再稼働推進派は福島に足を運び惨状を見よ -事故から4年の被災地を見る-
- 2015年 3月 6日
- 時代をみる
- 原発岩垂 弘被災地
「原発再稼働を唱える人は一度、ここを訪れてこの惨状を見るべきだ」――東京電力福島第1原子力発電所が東日本大震災で事故を起こしてから、3月11日で4年を迎える。それに先立つ2月9日から10日にかけ、同発電所周辺の被災地を訪ねた。そこで目撃したのは、復興どころか、想像を超えた原発による惨憺たる被害だった。あまりの惨状に私は言葉を失った。
福島第1原発の事故による被災地をこの目でみたいという思いは、事故直後からあった。事故が起きた2011年とその翌年には1人で福島市まで出かけたが、当時は被災地の多くが立ち入り禁止となっていたし、被災地に通ずる鉄道は不通となっていたうえ、車も運転免許も持たない私としては手の施しようがなく、断念せざるをえなかった。
今回の現地見学は、東日本大震災で被災した東北の人たちへの支援活動を続けている「NPO法人大震災義援ウシトラ旅団」(本部・東京都千代田区)が企画した「原発問題肉迫ツアー」に参加することで実現した。
ツアー参加者は市民運動関係者、生協関係者ら12人。初日は上野駅から常磐線の特急に乗り、福島県南端の泉駅(いわき市)で下車、同駅近くに設置されている富岡町・泉玉露応急仮設住宅で、入居している方から被災当時の話を聞いた。
事故を起こした福島第1原発は、福島県の太平洋沿岸の大熊町と双葉町にまたがって立地している。富岡町は大熊町の南に隣接する町で、やはり、原発爆発による放射性物質が降り注いだ。事故当時の町人口は約1万5000人。放射線量が高いために今でも全町民避難という生活を余儀なくされており、町役場も郡山市へ退避したままだ。
避難住民の半数近くは町が近隣市町村に分散して建設した十数カ所の応急仮設住宅で暮らす。その一つが、私たちが案内された、いわき市内の泉玉露応急仮設住宅である。応急仮設住宅にはプレハブ型と町が借り上げた民間住宅や公営住宅などがあるが、ここはプレハブ型だ。
開設当時は200 戸に440人が住んでいたが、その後、自分で家を建てたり、他所に移った人もいて、今年1月現在の入居者は189戸360人という。2月中に13戸が町立の復興公営住宅に移る。「これから、入居者はさらに減ってゆくでしょう。一人暮らしの高齢者のみがここに残ることになります」とウシトラ旅団の関係者。
プレハブの住宅は、夏は暑く、冬は寒いという。各戸を隔てるのが板壁一枚なのと床板が共通のため、隣家の話し声や物音が筒抜けで気になる、とも聞いた。
その夜は、いわき駅前の居酒屋で、福島第1原発で働く労働者の話を聞いた。「写真撮影はしない」との条件で。「第1原発で働くのは約7000人。地元の人が7、8割かな」「作業は廃炉に関する作業だが、作業中、放射線の線量が限度を超えると、線量計が激しく鳴る。最初はびっくりしたが、なれた」「原発の外で除染作業に従事している労働者の被曝が心配だ。なぜなら、原発内で働く労働者は線量の問題では厳しい管理下にあり、そのことで過度の被曝は避けられるが、戸外で除染作業に従事している労働者の中には、放射能に無頓着な人が少なくないから」と語ったのが印象に残った。
2日目の10日は、いわき駅前からマイクロバスで高速道路の常磐自動車道を北上し、常磐富岡インターチエンジから富岡町へ。インターチエンジ周辺は、背丈ほどに延びた、枯れたセイタカアワダチソウ、ネコヤナギ、ススキなどが生い茂る、荒涼たる畑や原野が展開する。人影はない。
マイクロバスはそこから同町の夜の森地区へ向かう。しばらく走ると、道路は桜並木に入った。道の両側に続く見事な桜の木々。ツアーの案内人によれば、ここは「サクラとツツジ」の名所として知られるところだという。桜並木を挟んで住宅街が広がる。商店もある。「夜の森」という名の集落だという。
集落の中央あたりの十字路にバスを止めて下車。十字路で北に向かって立つと、集落は道路を挟んで、コンクリートと鉄でつくられたバリケードで分断されていた。道路の右側部分、つまり海側の集落は「帰還困難区域」、道路の左側部分、すなわち阿武隈高地側の集落は「居住制限区域」であった。「帰還困難区域」とは立ち入り禁止区域、「居住制限区域」とは住民に一日のうち一定の時間のみ立ち入りを許される区域である。
十字路に立って回りの町並みに目をやったが、目に入ってきたその光景に息をのんだ。そこに展開されていたのは、それまで見たこともない異様な光景であった。完全な無人地帯で、人の気配がない。犬一匹、猫一匹見当たらない。空を飛ぶ鳥の姿もなければ、さえづりもない。まさに音のない森閑とした世界。家々は皆、窓や戸、扉を堅く閉ざし、窓には白いカーテンが引かれたまま。庭には褐色の枯れ草が生い茂る。乗用車が放置されたままの庭も。一部の家屋は壁が崩落したり、屋根が朽ち始めている。
集落のいたるところに、黒い袋が寄せ集められている。「フレコンバッグ」というんだそうだ。約1トン。除染作業で集められた、放射能で汚染された土や草などを入れたものという。
集落の近くに枯れ草に覆われて廃墟と化した建物があった。JR常磐線の夜ノ森駅の駅舎だった。東日本大震災に襲われた同線は今なお福島県の竜田駅-原ノ町駅間が不通となっており、その間にある夜ノ森駅は荒れるに任せられていた。夜ノ森駅隣の富岡町駅はすでに駅舎が取り壊され、コンクリートのホームだけになっていた。近くにフレコンバッグの山。
夜の森集落は、事故を起こした福島第1原発から南西へ約7キロ離れたところ。十字路わきの線量計は毎時3マイクロミリシーベルトを示していた。
今なお強い放射能に覆われた無人の町。これを何と表現したらいいのか。私は適切な言葉を思い浮かべられなかった。これまでに使われた言葉から探すと「ゴーストタウン」であろうか。でも、これでは惨状をさらす町の全容を伝えるには何か足りない。
富岡町からマイクロバスで福島県の太平洋沿岸を縦断する国道6号線を北上する。
この国道の富岡町-浪江町14キロは線量の高い「帰還困難区域」の真ん中を通るため、事故以来、通行止めになっていたが、昨年9月15日にそれが解除になり、一般車両も通れるようになった。
バスが大熊町と双葉町の境にさしかかると、右側の遠方に鉄塔や排気塔がみえてきた。クレーンも見える。廃炉に向けて解体中の福島第1原発である。6号線からは4キロくらいか。案内人が叫んだ。「写真を撮るからと窓を開けないでください。このあたりは毎時20マイクロミリシーベルトで、高濃度の放射能を含んだ風が吹き込みますから」
私たちは浪江町でUターンして、いわき市へ戻った。富岡町-浪江町の区間は、道路両側に連なる商店や官民の施設はいずれも閉鎖したままで、開店営業中はコンビニとガソリンスタンドだけだった。6号線を走るドライバー向けに営業しているようだった。
このツアーで私が見たものは、この日本で人の住めない地域が生成されつつあるという事実だった。それも永遠に人が住めないのではないか、と思わせられた地域だ。福島第1原発の事故では、幾多の放射性物質が放出された。その一つ、セシウム137は半減期が30年、ストロンチウム90の半減期は29年である。これらの放射性物質が無害となるには数十年間もかかるのだ。そんなところに人間は住めるのか。
政府は、被災地で除染作業を行っている。今度のツアーでも、被災地のあちこちで、マスクをした白い防護服の作業員が土を黒い袋に詰め込んでいるのをみかけた。地元の人が言った。「除染作業をしても放射能に汚染されたものが完全になくなるわけではない。移動するだけだ」
要するに、原発事故の被災地はこれからも「人が住めない土地」でありつづけるのだ。地元の放送記者によると、原発事故で避難している人たちで元の居住地に帰りたいという人は約2割という。いうなれば、原発事故被災地は「帰りたくても帰れない」地域となってしまったということだろう。
こうした過酷な現実を作り出したもの、それは原発である。原発の再稼働は、こうした惨事を再び起こすリスクを伴う。
そして、ツアーを通じて痛感したことは「百聞一見に如かず」ということだ。原発事故による被災地の現状はさまざまなメディアで伝えられてきた。が、その実態を正しく把握するには、やはり、百聞一見に如かず、である。とりわけ、原発再稼働を熱心に推進する人たちに被災地現地を訪れることをお勧めしたい。
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