(その8)蔓延する厭世観に抗うー問題の核心!?何を継承して全ての人に光を与える運動広報と幼年期の終わり(1)コマーシャリズム文化批判(2)未来史設計図
- 2015年 3月 9日
- 交流の広場
- 武田明
序 (幼年期の終焉)~ちきゅう史最初の心的フロンティアの確立を広報していきましょう!
(日本革命前夜2015宣言に代えて)
日本人は何を求めてきたのか?の最後は手塚治虫氏
http://www.nhk.or.jp/postwar/program/past/
マルクス最前線の問題、民主主義の問題も「知らない」「知らされていない」と言う政治的無関心、歴史的無関心こそが、最大の問題点であり、「近代としての地平」をいかに築くのか?かつての言葉では、「啓蒙」の問題であった事が伺えます。
しかし、「啓蒙」と「教条」は、紙一重であり、知への「信頼」は、何によって築かれているのかの「理性批判」を体系的に展開して来なくてはならなかったはずです。
それが、文部科学省の教育要領=教育商品であったのでしょうか?
しかし、資本主義は、貴族政治、カムイ伝で語られている士農工商エタ非人以上の階級社会である事は知られているはずです。
支配を受け入れたままでは、民主主義としての《利害対立》を基調とした独立と創造の領域は確保できずに来たことが、常に、弊害としてあった事、教育商品化の弊害論をこれまで問題にしてきたのですが、言わんとすることは簡単なことであり、
社会や文化の発展において、真に意味での個人主義の確立が、帝国主義的支配とその教育商品制度の中で、階級支配されている問題構制を復興すること、「資本論」を概念的次元ではなく、より具体的道筋として展開すべきとする立場を繰り返し語って来ているわけです。
資本主義、もしくは、帝国主義。
人間の可能性を楔につなぎ続けてきた古代史の以来にして最大の階級社会である資本主義的帝国主義段階の乗り越え、幼年期の終わりとしての段階、社会主義から共産主義とは何であるのかを記述できる段階に、ちきゅうと人類史は、辿り着いている事の再宣言をしていかねばなりません。
社会と文化と人間の可能性としての「創造性」が、つなぎとめられ牢獄に不当に封じ込められているが故の資本主義段階の支配的ファッショ的不況、あらゆる意味で、幼年期は、終わりを告げている事の合唱を、ベートーベン、モーツアルトを乗り越えて、声を合わせて、伝え、訴えていかねばならない。
当面、2015年から2018年までの経済計画論を会議の主題とすべきと言う提案がこれであると言うわけです。
(一愛読者としての)ちきゅう座拠点はその知の抵抗として、時事から普遍性への整理と体系性を如何に体現しているのかの問題を上記、第一「啓蒙」の場でもある学習会、討論会、シンポジウムを交えて、構築、または、連携されているかの省察がこれであると言う事です。
では、ここより、ピケティ「21世紀の資本」と新「資本論」体系刷新について(その8)を開始します。
(1)今ある資本主義の弊害とは何か?メディアの独占と大企業中心のコマーシャリズム文化から人民文化的転換。
やはり、淡い意味での「民主」と言う意味では、虐げられているちきゅう人民の最下層までを含むことは出来ない故に、今は、再び、「人民」(仮称)と言う言葉を採用せざる負えない事を感じています。
NHKも昨今、会長問題の腐敗もあり、観るも無惨な状態にもある民間企業的なコマーシャリズムからは、一見脱している印象はありますが、もちろん、ちきゅう座読者の皆さんが見抜いている様な限界がここにもあります。
(2)未来史
過去は、学びことは出来ても、変えられない。変えられるのは、近未来であり、未来史である。
SFとして退ける事は出来ない。
機動戦士ガンダムに影響を与えた作品は、『宇宙の戦士』ハインラインと言うアメリカのジュブナイルSF鷹派作家。
しかし、鷹派レッテルからも学ぶものが多いのは、『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』コッポラがある。
問題なのは、今やそのような政治メッセージさえタブーとされている事だ。
未来史、近未来史としての社会主義三ヵ年計画としての体系化、協働を繰り返し呼び掛けています。
「さあ、モンキーども、人間一度は死ぬものだ」
これが、「宇宙の戦士」の出だしであり、急降下、ガンダム的には、「大気圏突入時」の感覚、無重力と死の概念の追体験は、至る所にある。
死と良心、それは、同じ鷹派哲学者ハイデッガー『存在と時間』の出発点でもあった事をちきゅう座知性にとって周知でもあるだろう。
これ以上に、これより、マルクス最前線を仕上げていかねばならないと言うわけです。
(3)何が継承されるべきか?
「何も欲しくはない、欲しいのは平和だけ」
ウクライナの老婆が泣き崩れる。報道特集の始まり。まずは、戦争を乗り越えなくてはならない。平和憲法を守らなくてはならない。
ソビエト期に、モンタージュ「母」と言う傑作もあったはずです。
民衆、人民の力は、「合唱」であり、「声を合わせて、繰り返し」訴える事。デモ、一揆、アート的文化的昇華前哨。
知らされていない、まだ、知らない、教育弊害としてのマルクス最前線問題。
それ以上に、現在、思うのは、プーチン大統領の影もささやかれている野党暗殺事件ジャーナリスト暗殺事件。
だが、日本においても本来、法規で守られ、社会的に守られていなくてはならない川崎少年殺人事件がおこっている。
『酒鬼薔薇聖斗事件』以来の何をなすべきか?何故、人を殺してはいけないのか?の禅問答的純粋な少年少女が大人たちに突きつけている「生きている意味」の不在、問題の方が、実は、深刻なのだと言う事です。
かつて、日本でも愛国右翼少年が、社会党の党首を刺したり事件があり、アメリカでも今だに本当に解明されたとも言えない、ケネディ大統領、ジョンレノン殺害事件もあるのだけれども、帝国主義支配により、日本においては、幼稚化が加速しており、成長できずにいる事、この事の方が、より一層、問題は、深刻である事を知るべきであるのです。
存在理由が不在、生きている意味の不在、「希望格差問題」としての支配、幼稚なるブルジョワ支配の貴族政治の頂点が、金融的帝国支配の実相であり、その指摘が、ピケティ氏来日ブームとしての「合唱」の起点となっていると言う話なのだ。
日本の忍者ブームの継承を想起させられていた。
山田風太郎氏(人間臨終図巻)と白土三平氏(カムイ伝・神話伝説シリーズ)。
手塚治虫氏の次にくるもの、ある意味、大衆文化として、大衆の側の感性の継承であり、「大衆的良心」の所在を示しているとも言えるものです。
暗殺世界、スパイの世界。光ではなく、影として存在している忍者を何故、主人公に据えなくてはならず、そして、それが、大衆にうけいれられたのか?
これこそが、非正規労働者=若者=非‐人(人間ニ非ズ)の場としての合致している提言なのではないでしょうか?
カムイの場は、忍者、影として、能力の高さと可能性の体現としての理想をその成長としていることに、今更ながら震撼させられるものを感じる以上に、まさに、これ以上の表現はなかったのだろうとこれを、継承すべきと具体的に支持せざるをえない。
これこそが人間文化の「最前線」であり、マルクスにも通じるものであると言う事です。
カムイ伝講義
http://revolutio.exblog.jp/21616700/
そして、今の段階は、肩書きを○○教授、所属グループとして書き込みをされている場としてのちきゅう座でもあるのですが、その意味が、伝わっていない以上に、書き込みが、出来ずにいる無数の影、忍びが、ここにもいるであろうと言う事です。
読んでいて、ちきゅう座の意義に到達している忍びであるならまだ良いのですが、
コマーシャリズム文化の支配下にて、到達されていもない知的教育商品支配被害者としての影、忍ぶ人々、虐げられた人々の存在へ、希望を人間の可能性と光を広報するインターネット活用としてのフル活動がちきゅう座拠点に求められて居るのではないか?
その事を明確にしていくべきであるが、まずは、ちきゅう座内にあり、左翼の中にある光と影の分析であり、
そして、再び、『共産党宣言』としての表舞台へと再宣言として、人類を、人民へと立つ勇気を広めていく事にほかならないのです。
(4)インターネット改革~ちきゅう座の光と影、広報視点の拡大について
時間がないので、今回も前半としてここでいったん切り投稿してみます。
《期待されるちきゅう座掲載の学習会再掲載》
3・16公開研究会・シンポジウム 『21世紀の資本』(トマ・ピケティ著)と現代資本主義
― 格差拡大社会の分析と克服の道をさぐる ―(2月24日掲載)
http://chikyuza.net/archives/51076
4・18『労働組合で社会を変える』出版記念討論会(3月4日掲載)
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。