初めてのフライトNYへ―はみ出し駐在記(2)
- 2015年 3月 10日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
七十年代後半、二十代半ばで初めての飛行機だった。出張される方の見送りや出迎えで羽田には何度も行ったがそこまでだった。海外に飛ぶ、まだまだ一部の限られた人たちの話で、まさか自分がその立場になるなど考えたこともなかった。当事者になって高揚感のようなものがなかったかと言えばウソになるが、何につけても鈍感でシラッとして実感がなかった。
当時ニューヨークへはアンカレッジ経由がほとんどだった。おっちょこちょいがアンカレッジでの乗り継ぎをミスるのを心配してケネディ空港直行便を手配してくれた。昔のことで忘れてしまったことが多いが初めて乗ったフライトは忘れない。パンナム007便。上司が一人見送りに来てくれたがいつまでもいてもらうのもわるいので、さっさと手荷物チェックに入ってしまった。そこを抜ければ自分だけ。一人になってほっとした。
とぼとぼ歩いてパンナム007便のゲートに着いたはずなのが、便名は700便。正直慌てた。ここは007便じゃないのか?周りは外国人ばかりが目につく。英語で聞く自信もない。JALじゃない。聞こうにもエアラインの人が見つからない。あちこち探して聞いてみれば、700ではなく007、一文字ごとの付ける文字のピースの順番が間違っていた。乗る前からトラブって、何をしてもこの調子、トラブルという名の持病を抱えているようなものだった。帰国するときにはこの程度の違いには驚かなくなっていたが、当時はこの程度のことでも大事だった。
何も分からずに他の乗客と一緒に動いているうちに気がつけば飛んでいた。十時間以上何をしていたのか記憶にない。スーツを着込んでアタッシュケース持ち込んでそれでなくても狭い座席が本当に狭かった。ビジネスカジュアルなどという言葉などない時代、仕事中はスーツにネクタイがお決まりだった。ただの移動なのだからカジュアルでよかったのだがその考えもなかった。アタッシュケースをもって颯爽としたサラリーマンが、似合うに合わないにかかわらずその頃のこうありたいというイメージだった。ネクタイを外せば、まるで柴又に銅像になっている人と似たような出で立ち、今でも似たような格好の人いないわけでもないがちょっと気が引ける。
当時米国は失業率も高く駐在員はなかなか送れなくなっていた。にもかかわらず、たがが二十代半ばのどうでもいい者を米国に派遣するのに会社はE1ビザ(四年有効)をとっていた。E1ビザに固執したためにビザ取得にかなりの時間と手間がかかったと聞いていた。E1ビザは企業の経営者や特殊技能を持った人材で米国支社の経営にどうしても派遣しなければならない人たち用のもので誰が見ても分不相応。
駐在期間は妻帯者は五年、独身者は三年という不文律があった。駐在は公私ともにきつい。子供の教育のこともあるし、五年も勤め上げれば帰して欲しいというのが妻帯者の本音。独り者は一年も経てば拙い英語でもほっつき歩けるようになる。三年以上置いておくと現地で結婚、帰国不可になりかねないし、そうなった駐在員もいた。後になって振り返ってみればE1ビザ四年はおかしい。会社はこれを期待していたというより目論んでいたふしがある。
一年ほど経った頃か社長から見合い話がなんどか持ちかけられた。Japan Societyからの話だという。ニューヨークの移民社会で娘に日本人をと思っている家庭がいくつもあったのだろう。日本人といっても留学崩れや旅行者では困る。身元のしっかりした一部上場の駐在員がいい。親の立場になってみれば分かるような気がする。気持ちは分かるが、誰に気兼ねすることもなくマンハッタンの危ないところを闊歩し始めて独身生活を謳歌しているところに冗談じゃない。ニューヨークで日本人の彼女、そこまでなら悪い話ではないが、婿養子でちんまり収まるタイプでもなし、取り合わなかった。もし興味半分にでもお見合いを受けていたら、取り込まれて今頃故国を離れてになりかねなかった。
機中で隣にいたアメリカ人から話しかけられた。お互い何もすることがないからできれば世間話でもと思ったのだろう。情けないことに話しかけかれても自己紹介すらまともにできない。しょうがないからパスポートに添付された自己紹介のような書面を見せた。入国審査でトラブらないようにと会社が用意してくれた自己紹介のような会社のレター。エアメール用の薄い紙にタイプ打ちされていた。そこには、これこれこういう技能を持った人材で社として米国支社の事業推進にどうしても派遣しなければならない。。。が書かれていた。紋付羽織袴を着込んだような固い文語で書かれた読みづらい文面だった。本人がいったい誰のことだと思う内容で完全に詐称だった。二十代半ばでどこの誰がそんな能力を持っているのか。フツーではあり得ない。それを見せられたアメリカ人がこっちの顔を何度か見なおしているのが恥ずかしかった。英語が不自由で会話が成り立たないからしょうがない。
何もしなくてもただ乗っていれば着く。ケネディ空港に着いてみんなの後をついていったら入国審査だった。何をさせても要領が悪い。列の一番後ろで最後の一人。前の人が終わって係官がゲートを閉めて立ち去ろうとしたのを見て慌てた。できる限りの英語で、どもりながらここで待ってればいいのかと聞いた。煩いという表情でこっちに来いという身振り。パスポートを出したら、ぱっと開いて何も見ずにドンとスタンプを押して早く行けと。詐称レターを使わずに済んでホッとして、歩いて行ったら馴染みのある顔がいくつも見える。ニューヨーク支社の駐在員全員と出張で来ていた先輩が出迎えに来てくれていた。見送りは一人だったのに、出迎えは全員。なんで?こんな人材にもったいなさすぎると思ったら、二三年新人駐在員がなかったから久しぶりのことで皆が来ただけだと。
社長の車に先輩と一緒に乗せられて会社の近くのモーテルに。金曜日の夜だったので、土日ゆっくり疲れをとって。。。で、先輩とモーテルのダイナーに夕飯に。着いてホッとしたのか無性に何か身のあるものを食べたくなってメニュー(写真)を見たが読むのも面倒、一番分かりやすいステーキを指さして頼んだ。分かりやすいはずなのに焼き方やらサイドオーダーなど聞かれて、聞かれる度に聞き直してやっと食べたステーキは聞いていた通りの歯ごたえのある食いごたえだけはあるものだった。
先輩はオレはもう食べたからとビールとストロー。何、ストロー?と思ったら、気がついて、ビールが虫歯にしみるんだ。でもしみない飲み方を思いついたといいながらストローで飲んでいた。これじゃ美味くないといいながらおかわり。見ているだけでも不味そうな。そんな思いしてまで飲まなくてもいいじゃないかと思ったが、何日もしないうちに先輩駐在員連中のそれこそ豚のように食って牛のように飲んでについて行くはめになった。はめになったところからニューヨーク生活が、仕事ではない生活が始まった。
2014/3/23記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5224:150310〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。