今日しないで明日に延ばせ
- 2015年 3月 18日
- 交流の広場
- 藤澤豊
やってしまえばできることなのだが、緊急度も重要性も高くやらなければならないことが次から次へとでてきて、ついつい手をつけないまま先延ばしになってしまう。
なってしまうことがあるという程度なら、まだ大して精神的な負担にはならない。しかし先延ばしにしていることが溜まっていって、かなりの量を抱えた状態が平常になってくるとフツーの人なら片付けなくちゃというプレッシャーを感じる。
溜まる一方のやらなければならないことからくるプレッシャーとどう付き合ったらいいのか?ちょっと後ろに引いて考えてみるものまんざら無駄でもないだろう。
能力も責任感もあって組織に貢献している人は、先延ばしにしてしまうようなことが少ないと思われるかもしれないが、現実は全く逆のことが多い。能力も責任感もない人には仕事自体が回ってこない。その分ある人には、その人の処理能力を超えた量の仕事が回ってくる。仕事には水と同じように流れやすいとことに流れる性質がある。流れ込んでくる仕事の質や量が人の処理能力を大きく超えてしまうと、いくら能力があって責任感が強くても、その人が本来持っている能力すら発揮し得ない状態に陥る。このような状態が続くと組織として持てる能力を発揮しえないと言うだけでなく、最終的には優秀な人材を失うことにすらなりかねない。
やらなければならないことをやらなければならないこととしているは誰なのか?抱え込んでしまっている当事者なのか、その上のマネージャなのか、企業や組織としての文化のようなものなのか。たとえ独り家業のフリーランサーであっても自分で勝手に決めているケースは希だろう。そこには組織とその組織で生きている人がいる。ここでは組織のありようにまで視点を広げずにマネージャ以下に限定して話をすすめる。
自分が率いる部隊全体の能力と負荷、さらに部隊を構成するそれぞれの構成員の能力と負荷から最大の貢献を引き出すのがマネージャの責務ででしかないのだが、それを期待できるケースがどれほどあるのか甚だ疑わしい。
マネージャの多くは次の二極の間のどこかにいる。二分類の第一のタイプは、当事者あるいは実務担当者として能力が高い、多くは高かったという過去形の人で、部下にも自分が当事者だった頃と似たような能力を求める。プロ野球の監督の多くがこの第一のタイプの典型だろう。第二のタイプは当事者としても実務担当者としても本当の意味での経験と知識のない人たち。調整役としては用を成すかもしれないが、多くは自分が言っていることを実行するのに必須の環境とリソースを理解していない。経営学などという専門分野を学んでこられた人たちがいい例で、格好が先に立つあまり汚れ仕事の実務を敬遠する。
部隊の負荷と能力を把握し、それを規定する環境を調整できるマネージャ-はなかなかいない。部下に対する要求と言う視点でみれば、どちらも似たようなもの-自然に任せて仕事が流れる-流れるところには流れ、流れないところには流れない-だけだろう。
流れる方と流れない方、どっちを善とするかは個人の志向と能力次第だが、流れてこない側に立てば職業人としての主体性、ひいては存在価値を自ら放棄することになる。流れてくる側にたったら?ここでまた二つの選択肢がある。多くのマネージャが望むように燃え尽きるまで、倒れるまで走ってみるか、それとも手をつけられないなかで溜まってゆく仕事を片付けなくちゃというプレッシャーと上手く折合いをつけながらやってゆくか。
人にもよるだろうが誰もマネージャのために生きてる訳じゃない。“うまく折り合いをつけなら”が一般的な選択肢だろう。プレッシャーとの折り合い、要はどうやってプレッシャーからの精神的な負担を軽減するかが課題になる。色々な考えがあるだろうが、次のように考えれば多少はすっきりするだろうし、すっきりすれば次の手も考える余裕も生まれてくる。
まず、第一に「何があったところで地球の最後でも人生の最後でもあるまいし、。。。」くらいに開き直ってしまう。次に、『今日できることは明日まで延ばすな』というのは、のんびりした昔の話ででしかないと、社会背景の違いを自分に都合のいいように考える。どこに行くにも徒歩か駕籠(かご)、馬か船、電気もなければ電話もない、インターネットなどありようがない、たいしてやることのない、しようのない江戸時代あたりまでならいざ知らず、今時そんなことをしたら寝る時間もなくなって死んでしまう。
手をつけられずに放っておいたら、状況が勝手に進んでいって、いつのまにやら、やらなくてよくなってしまったとか、誰かがやってしまって、こっちは手をかける必要がなかったなどということも起きる。遅れてやったところで、焼け落ちた火事場に消火に駆けつけた消防車のようなもの、やったところでどうしようもないことをやっただけ、あるいはたいした効果もないことをやっただけで、時間と労力の無駄でしかない。
そもそも、やらなければならないと思っていること、思わされていることの多くが、よくよく考えてみれば、あるいは後になってみれば、やってもやらなくてもたいした違いのないことも多い。その程度のやらなくてはならないということから生まれるプレッシャーに右往左往する、させられることの方が人生にとっても、組織にとっても無駄でしかない。
あまりにも多くの“しなければならないこと”や“した方がいいこと”から“しなくてもいいだろうこと”という視点で見直してみれば思わぬ景色も見えてくる。変化も早いし忙しい今日日、『今日しなくていいことは、今日しないで明日に延ばせ』くらいに思った方がいい。『今日できることは明日に延ばすな』は、昔とった杵柄を振り回す暇なご隠居さんの、もう隠居した方が皆のためという人たちの入れ歯の隙間から漏れてくるたわごとくらいに思ってしまえばいい。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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