『21世紀の資本』論ー格差再拡大の政治経済学ー(報告要旨)
- 2015年 3月 19日
- スタディルーム
- 伊藤誠
2015年3月
1 格差再拡大の政治経済学ーピケティの話題作ー
トマ・ピケティの『21世紀の資本』が、衝撃的な波紋を広げている。原著の表題は、『21世紀の資本論』とも読める。そのことも本書の魅力のひとつとなっている。
ピケティも、マルクス経済学者ではないものの、あきらかに『資本論』を強く意識し、何度かそれに言及しつつ、本書を広義の政治経済学的観点にたって執筆している。その主題は、現代世界に広がる富と所得の顕著な格差再拡大におかれている。
本報告は、それを歓迎しつつ、その分析の意義と限界を、とくに『資本論』による経済学からみて検討し、補完すべき問題点を提示する試みをすすめておきたい。
『21世紀の資本』は「序論」に続き四部に分けられている。第一部は「所得と資本」、第二部は「資本/所得比率の動態」と題され、先進主要諸国について、主として国民所得と資産としての資本との比率の長期マクロ経済統計による推移を確認し、分析する。第三部は、その推移から生ずる経済的「不平等の構造」をあきらかにし、最後に第四部で再拡大しつつある格差に対処する「21世紀における資本の統御」策を提示している。
その考察のなかで、国民所得に対置される国民資本とは、ある国の住民や政府の所有している取引可能な各種資産の市場価値総額とされる。土地、建物、商品在庫、機械設備、特許権などの非金融資産と、預金、投資信託、債権、株式、保険、年金基金など各種の金融資産との総計から金融上の債務を控除したものとされている(Piketty[2014].邦訳、51-2ページ。以下本書の参照箇所は邦訳ページのみを記す)。国民経済計算におけるストック編の統計に計上されている正味資産(国富)に内容上ほぼあたるものと考えてよい。
ピケティによれば、フランスとイギリスについては、17世紀から税制の基礎として、国民資産と所得の統計を集める作業がすすめられていた。他の先進主要諸国についてもA・マディソン(2007)の世界経済史統計のような国民所得の全世界にわたる長期推計の研究もすすめられつつある。ピケティは、とくに国民資産としての「資本」と国民所得の比率、およびそこから算定される資本所得と労働所得の長期動態の分析に、独自の考察を展開。
そのさい、一貫して重視されているのは、国民資本が国民所得の何倍かという比率(β)の推移である。というのは、その比率は、ピケティのいう、つぎのような「資本主義の第一基本法則」において、国民所得に占める資本からの所得の割合(α)の動態をあきらかにするうえで、(国民)資本収益率(r)とあわせて決定的に重要な要因をなしているからである。その基本法則は、α=r×βと定式化される(56ページ)。
こうした準備的考察を前提に、第二部で示されているところでは、イギリスとフランスで、18世紀と19世紀をつうじ第1次世界大戦前までは、国民資本の総額は国民所得の6、7年分であった。その構成において、19世紀になると農地以外の比率が、農地より大きくなる傾向があったが、その総額の対国民所得の水準は維持されていた。
国民資本の平均収益率(r)は、長期的にほぼ4ー5%の水準にあった。そこで、国民所得の3割をこえる部分が資産による所得であった年が多かった。その傍証として、しばしば引き合いに出されているのがJ・オースティンの『高慢と偏見』やバルザックの『ゴリオ爺さん』で、作者も読者も、当時平均年収が30ポンド、あるいは400~500フランだったなかで、上流生活を家族に保障できる年収500-1000、あるいは1-2万フランを確保するには、1,2万ポンド、あるいは20-40万フランの資産が土地か国債で所有されている必要があると前提していたとされる(邦訳112-13ページ)。
しかし、第1次世界大戦以降、国民資本の対国民所得比率(β)は急落して、1950年頃には国民所得の2、3年分になっていた。その後、この比率は回復に転じ、とくに1980年代から増勢を強め、2010年までに6倍を超え、第一次大戦直前の水準に達しつつある。
20世紀を特徴づけているこの比率(β)の例外的な低落と回復のUカーブは、他の先進諸国にも多かれ少なかれみられる。アメリカはヨーロッパ諸国より振幅が小さかったが、それでもその国民資本の総額は、1930年には国民所得の5倍近くであったのに、1970年には3.5倍以下となり、2010年までには4倍以上に回復している。日本は、その比率が1910ー30年に6ー7倍であったのが、1950年代、60年代には2ー3倍に落ち込み、ついで1980年代に再上昇して、1990年代以降6ー7倍に回帰し、典型的なUカーブを示している(邦訳202ページ)。
国民資本は基本的には国民所得のなかから貯蓄されて蓄積されるので、長期的にはその総額の対国民所得比率(β)は、ある期間をつうじ貯蓄率(s)が高いほど大きくなりやすく、逆に国民所得の成長率(すなわち経済成長率:g)が高いなら、それによってその効果が相殺されて低くなる。そこから、「資本主義の第二基本法則」としてβ=s/g が導かれる(邦訳173ページ)。日本の高貯蓄率は、高度成長期には資本/所得比率を高める効果を発揮しなかったが、低成長期に入ってやや低下はしても、なお15%程度の貯蓄率が維持され、平均成長率が2%あまりに落ちていることから、その比率が6、7倍になるのはおどろくに値しない(邦訳185ページ)。
各種の国民資本は、その種別によりまた時期により収益率が異なりはするが、古代以来、長期的にみて平均4ー5%前後で推移している。その総合平均収益率(r)は、歴史をつうじつねに経済成長率(g)より高かった(r>g)(邦訳368-69ページ)。そのかぎりで、その収益からの資本の増加速度が国民所得の増加を上回る傾向が生じやすい。
それらを総合すると、資産としての資本を所有することによりえられる収益が、国民所得に占める比率(α)が、先進諸国の多くで、第1次大戦から第2次大戦直後にかけて大きく低下し、高度成長期にその回復が抑制されていた時期を経て、1980年代以降の新自由主義のもとでの低成長の時期に、大きく回復しつつあることがわかる。
S・クズネッツ(1953)の所得配分の不平等化についてのベル・カーブ論に反する20世紀に生じたUカーブ。
しかも、第三部で強調されているように、この資本所有はあきらかに不平等な構造で分布しており、トップ10%さらには1%の富裕者層に集中してゆく傾向があり、それ以下の中産層が没落しつつある。たとえば、スカンジナヴィア諸国でもトップ10%が50%かそれ以上の資本を所有し、その他のヨーロッパ諸国では60%、アメリカでは72%の資本を所有している。逆に下位50%の人びとの資本のシェアは、ヨーロッパ諸国では10%以下、たいていは5以下にとどまり、アメリカではわずか2%にすぎない。貧困克服を目指す国際協力組織オックスファムの報告(2015年1月)によれば、世界の富裕層上位1%の所有する資産は2014年に全世界の48%に達し、2016年には50%をこえるとみられる。
この資本所有の構造的不平等は、相続によって再生産され、強化される。アメリカでは1970ー80年に相続資本は民間資本の50ー60%におよんでいるが、ヨーロッパではそれより高い。日本をふくむ高齢化社会になっている諸国では、21世紀前半に死亡率が高まり、相続資産のフローは相対的に増大する趨勢にある。
他方、労働所得の不平等も、大企業経営者の高報酬などの形でアメリカから他の先進諸国に広がりつつある。
そこで資本所得と総合すると、富裕層の上位10%が国民所得に占める割合は、平等社会といわれるスカンジナヴィア諸国でも197,80年代に25%に達していたが、独仏では、現在では35%になっている。不平等社会のアメリカでは、その比率が50%におよび、とくに最上位1%の富裕層に20%が帰属している。アメリカは一般にメリットクラシー(能力主義)の競争社会とみなされてきたが、いまやその認識は疑わしい。エリート大学の授業料などの負担が急騰し、ハーヴァード大学の学生の両親の平均所得は、アメリカの所得階層のトップ2%の平均年収にあたるほぼ45万ドルに達している(邦訳505ページ)。
第四部では、これをうけて、格差是正のために、教育、保健医療、年金についての「基本的社会権」を保障しつつ所得再配分をおこなう「社会国家」を現代化する主張が提示される。そこでは、累進所得税や相続税の再考、再強化とあわせて、国際協力の下で、新たに資産としての資本への課税制度が提案されている。その例として、「ヨーロッパ資産課税」の青写真。たとえば、所有資産が100万ユーロ(ほぼ1億4500万円)以下なら0%、100ー500万ユーロには1%、500万ユーロ以上には2%の年率で資産課税を課す。人口の2.5%からヨーロッパのGDPのほぼ2%の収入が生じ、社会的国家に資する(邦訳553-54ページ)。
それは、多くの国が陥っている公的債務の累積を解決するには十分な対策とはいえない。たとえば、GDPの年額に近くなっている公債を一気に解消するには、ほぼ15%の臨時資産課税が必要となる(邦訳569ページ)。日本については少なくとも2年分は必要とされる。これにくらべインフレによる公債負担解消の方策は、富の再配分を正しく導くとはかぎらない粗雑な方策とみなされている。
2 補完すべき論点ー『資本論』との対比からー
このような『21世紀の資本』論の分析と提言について、『資本論』の経済学にもとづいて、どのように評価すべきか、そこに補完しておきたいどのような問題が残されているか。
まず、ピケティが、最近の経済学があまりに専門化され、断片化された理論と分析に陥り、扱いにくくなっていた資本主義経済の動態における富と所得の不平等化の進展を、憂慮すべき政治経済問題として明示し、広く関心を惹きつけていることは、学派を問わず歓迎されてよい。それは経済学の古典派以来の伝統的主題の再考、現代化の有力な試み。
フローとしての所得格差の再拡大傾向の分析は、おこなわれてはきたが、橘木(2014)も指摘しているように、ピケティは国民資本としての富のストックの所有格差の動態とあわせ、総合的な社会経済構造の不平等化をくくりだしてみせている。
ピケティの強調する「無限の蓄積原理」とそれにもとづく資本の集積・集中の傾向が、社会の富と所得とを不平等化し、経済格差を拡大する強い作用を有しているという認識は、ハーヴェイ(2014)も指摘しているように、すでに『資本論』において理論化されていた。ピケティもそのことは認めて、マルクスの洞察は「19世紀と同じく21世紀にも有効」であると説いている(邦訳12ページ)。
そのような考察をピケティが、長期的な歴史的視点で分析しているところも、マルクスの接近方法にある程度類似。ただし、ピケティが国民資産と国民所得の分布の推移に関する長期統計資料を集め、とくに税務関係の資料までふくめ、その収集に多くの労力を費やしている。それはマルクス学派からみても評価されてよい。
とはいえ、ピケティの考察はいくつかの点でマルクスとは異なっており、そこにマルクス学派としては補っておきたい問題点が残る。さしあたりつぎの5点をあげておこう。
第1に、『資本論』は労働価値説を古典派経済学から批判的に継承して、理論的分析の基礎としているが、新古典派経済学の理論に依拠するピケティはこれを回避。そのため、資本による剰余価値としての所得の社会的基礎が、基本的には賃金労働者の剰余労働にあることも無視。
それと関連し、現代社会に富と所得の富裕上層部への再集中が進展している事実を指摘しながら、ピケティは、それが広範な賃金労働者階級の労働条件の抑圧、労働力の価値の実体をなす必要労働時間の削減、安価低廉な非正規雇用の増大、それを促す海外途上諸国での安価な雇用の利用拡大などによる搾取の強化と表裏をなしているかには、考察をおよぼしていない。国際的経済格差拡大の分析はぜひ補完されなければならない。もっぱら社会の富と所得の中流層から上層部ないし最富裕層への再配分に主要関心が注がれている。『資本論』の経済学にもとづく分析では、その推移が同時に、多くの労働者に生じている雇用条件の劣化、搾取関係の強化といかに関連しているかを補完して理解しなければならない。
そのさい、国民資本の総合収益率rが、国民所得の成長率gより通例大きいというピケティの歴史統計による基本認識は、労働価値説からみても、再生産の技術的諸条件が一定で、価値実現の困難がない場合、不変資本(C)と可変資本(V)から成る総資本の価値実体と、労働力の価値(V)と剰余価値(M)の総額を実体とする国民所得との増加率は同じとなるので、剰余価値の総資本にたいする比率rは、剰余価値の一部の資本への転化により生ずる国民所得の成長率gより通例大きいはずであることはひとまず理解できる。とはいえ、r>gが成りたつのはさらに一般的にはどのような諸条件を要するかは、理論的にもさらに確かめられてよいところとなろう。
別稿(伊藤(2004)))でも検討したように、国民経済計算と労働価値説とをつなぐ理論構成も試みられつつあり、マルクス派としても富と所得の格差再拡大の傾向を、国民経済計算の統計と労働価値説の関連をどのように読み解いて分析するか、補足的研究を要する。
労働価値説との関連を離れてみても、労働所得の内部に拡大している格差構造が、クルーグマン(2014)も指摘しているように、アメリカから広がりつつある超高額報酬の問題をふくめ、資産としての資本所有の集中傾向とどのように関連しているかも、さらに具体的に検討を要するところである。
第2に、ピケティは、市場で取引できる各種資産をすべて国民資本とみなしている。そしてその平均収益率は、古代以来4―5%であったとしている。その「資本」の規定は、ハーヴェイ(2014)も伊藤光晴(2015)も言及しているように、マルクス学派からみればいくつかの意味で不備があり、補足を要する。
たとえば、資本は商人的ないし金貸し的な形式において、古代以来、貨幣の自己増殖運動として局部的に姿をあらわしてはいた。しかし共同体的諸社会の内部では、農地などの土地も建物も部分的に取引されることはあっても、大部分は価値増殖を目的に資本として所有されていたとはいえない。近代資本主義の形成過程で、中世までの土地の複雑な共同体的支配、占有関係が解体されて土地の(暴力的囲い込みをともなう)私有財産化がすすめられる。その反面で、多くの農民が土地の伝統的利用権を奪われて、無産の労働者として、労働力を商品化し資本による雇用関係に組み込まれるようになって、社会的規模での資本による生産過程の組織化が可能となり、資本主義社会が成立する。そこでは、資本主義企業が賃金労働者の雇用関係をつうじ、剰余労働を剰余価値として取得する社会関係が経済生活の中軸となり、そこから利潤、地代、利子などが体系的に獲得される社会関係が形成される。
それにともない、土地、建物などの不動産も、産業企業の資本も、金融債権も、すべて市場でその収益が平均的なりまわりで資本還元されて、一様に資本として観念されるいわば物神化された資本観が普及する。マルクスの「資本」の理論的分析には、こうした資本主義社会の構造の歴史的特性が、解明される内容があった。
これと対比してみれば、ピケティの「資本」の取扱いは、資本主義市場経済の内部に形成される物神的資本観を自然視する新古典派経済学の通弊をまぬがれていない。歴史的関心が資本主義の形成発展の質的変化の洞察に深められず、物神化されたストックとして純資産をすべて資本とみなし、フローとしての国民所得に対するその比率の量的動態めぐり、経済格差のU字型再拡大の変化に関心を集中させている。
その取扱いのなかでは、生業的な小農の所有する耕地や家族的小規模経営の家産も、さらには労働者の取得した住宅も、あるいは国家などの公有地や公的施設もすべて資本とみなされることになるので、自己増殖する価値の運動体としての私的資本の蓄積がもたらす富と所得の国民所得に占める集中と格差拡大の意義が多少とも不明確となる。マルクス学派は、この点に留意して、本来の資本の価値増殖にもとづく富と所得の集積と労働者階級および生業的小経営などの得ている富と所得のいわば階級的格差構造の動態、国富のうちの私的資本の比率の確定に補足的検討を加えることが望ましいであろう。
そのさい、現代資本主義における格差再拡大が、企業の収益も、不動産の収益も、公的債務の利払いも、年金基金も保険基金も、すべて利回りを比較されて、市場で取引される金融商品に組み込まれ、膨張する金融資産としての擬制的資本として評価され、その動態が富と所得の帰属関係に大きく影響する傾向が顕著になり、金融化資本主義といわれている変化とも深く関わっている側面について、ピケティの考察では意外に軽視されている。それは、国民経済計算の国民資産(国富)の総額では、膨張する金融資産の多くが、膨張する金融負債に相殺される構造になることにも関連している。
間宮陽介(2015)も指摘しているように、主要諸国の金融資産の総額の対国民所得比率は、1970年代前半の4、5倍から、2010年には10―15倍に膨張し、イギリスでは20倍に達している。それはほぼ同額の負債の増大により純資産としては相殺されるにせよ、その内部でたとえば公的債務の累積が、消費税の増額を招く場合のように、公債の多くを直接間接所有している富裕層に、一般大衆からの富と所得の移転をもたらしているような偏りをともなう再配分効果をともなっていることに注意を要する。アメリカでは下位五〇パーセントの人びとの資本所有率がわずか二パーセントにすぎないとされているのは、住宅やクルマのローンによる購入をせまられている、労働力の金融化現象から純資産が圧縮されている側面はないかとも考えられる。
第3に、『資本論』の経済学では、資本の無限の蓄積原理が、その内部に労働力の商品化に根ざす内的矛盾をふくんで展開され、それが貨幣・金融システムの不安定性とあいまって周期的恐慌における資本の自己破壊として発現する不安定な経済危機を反復する論理に体系的考察がおよぼされていた。そこでの恐慌論としての資本蓄積の動態についての豊かな考察に匹敵する分析は、ピケティの資本蓄積論にはみられない。
そこでは、富と所得の格差の現代的な再拡大傾向をめぐり、一方で、同時代的に顕著に反復されるようになっている、サブプライム恐慌のような金融危機は「格差の構造的拡大に影響を与えてこなかった」(邦訳308ページ)とされている。それとともに他方で、格差再拡大が下層、中流世帯の実質購買力を低迷させて、金融の規制緩和により富裕層の資金がそれら世帯に債務を膨張させ、それが金融危機の一因となったことはいちおう指摘されている。しかし同時に、現代のグローバル金融システムの慢性的不安定性のより重要な主要因は、国際資産総額のすさまじい増大と、資本/所得比率の構造的上昇にあるとも述べられている(邦訳309ページ)。
しかしこのような一連のピケティの見解にたいしては、もともと資本の無限の蓄積に矛盾と不安定性が内在している原理が、19世紀中葉の古典的な周期的恐慌とは異なる歴史的様相のもとに現代世界にもあらためて顕著に姿をあらわすようになり、それもまた富と所得の現代的な格差再拡大傾向と直接間接に密接に関連していることに、さらに立ち入った分析をすすめなければならないといえよう。
第4に、マルクスは、労働価値説にもとづき、年々の生きた労働の生みだす所得総額(V+M)に対する過去の労働としての不変資本(C)の比率が無限の蓄積原理により増大してゆくので、利潤率(M/(C+V))は長期的には低下してゆくと規定していた。
ピケティも、的場(2014)が指摘しているように、利潤率の低下論を示してはいるが、その論拠はマルクスとはかなり異なっている。すなわち、国民所得にくらべての資本の比率(β)が、増大してゆき、資本の収益率(r)が下がらなければ、国民所得に占める資本収益の比率(α)も、ますます高まり、βが現在回復している水準をさらに超えてゆくなら、資本による所得があまりに大きくなって社会的に不満が高まらざるをえなくなる。たとえば、収益率が4ー5%のまま、βが10倍となれば、資本からの所得は国民所得の40ー50%にも達し、社会的に耐えがたくなるので、収益率が下がるような調整が必然化されるとするピケティの認識は、所得配分の不平等化への社会的不満の増大に対処せざるをえないという抽象的必要性論にとどまるとも読める。
いずれにせよ国民所得の平均収益率は現実にどのような諸要因により決定されるのか。ピケティの分析では、さきにふれたように剰余価値の源泉が明確でなく、資本の規定にも不備があるので、理論的に十分正確な資本収益率の動態論が提示されているとはいえない。そのこととも関連して、平均収益率を長期的に4―5%とみなしたり、経験則的に経済成長率より高いと想定したり、そのかぎりで成長率の低下にともなう、平均収益率のあるていどの低下を見通したり、その分析には不整合や、論拠が不明確な動揺もみられる。
国民経済計算において、年々の社会の付加価値にあたる国内純生産(NNP)から雇用者所得を差し引いた営業余剰・混合所得をその年の国富のもたらす収益とみなして資本収益率を便宜的に算定してみることもできるであろうが、『資本論』における利潤率の傾向的低下の法則からみれば、資本係数にあたる(β)が上昇しても、剰余価値率(M/V)、したがってまたαは上がらない可能性もありうる。伊藤光晴(2015)の指摘するように、国民所得には入る企業の内部留保を資産家にその資産からえられる収入とみなしうるか、あるいは重役報酬を労働報酬内の格差問題としてとらえてよいかも再考を要する。
こうした諸論点を念頭におきつつ、現代資本主義のもとでの資産ないし資本収益率を、グローバル化した収益、多分に操作される金利水準、社会内部の剰余労働の搾取構造の多様化、生産性向上による各種生産手段の減価の作用、さらには金融化資本主義のもとでの為替差益(差損)や各種キャピタルゲインやキャピタルロスなどをも考慮におさめつつ、どのように分析しうるか。マルクスの利潤率の傾向低下の法則をめぐり、置塩信雄(1976)の論評も考慮しつつ、現実の統計資料と関連させた分析も世界的に試みられてきているので、それらを参照しつつ、各種資産の異なる収益率の決定関係の分析やそれをふまえた平均収益率の動態を理論と現実にわたり解明する作業は、ピケティの提起している格差再拡大の構造的問題を補完するために、今後とも興味ある研究課題をなしている。
第5に、ピケティの検出しているU字型の経済格差の変動がなぜ生じているのかについても、資本主義の世界史的発展の段階的推移にそくし、さらに具体的にその原因を検討してみたいところがある。
たとえば第1次大戦までの先進諸国の資本/所得比率(β)がその平均収益率(r)とともに18世紀以降比較的安定的な水準を維持し続け、収益率(r)はあきらかに経済成長率(g)より高位にありながら、資本の対国民所得の規模がほとんど増大しなかったのはなぜか。重商主義的な戦争や国王・貴族の奢侈的消費、市民革命と産業革命、自由主義段階の周期的恐慌による資本の価値破壊、帝国主義段階に移行する時期からの労働組合の成長と実質賃金の上昇、あるいはその間の税制の変遷などが、その問題にどう関わっているか。国民所得の6~7倍程度に一見安定的に推移している国民資本の総額の規模は、その内部構成もかなり変化もしているので、その総額の相対的安定性は、諸要因の総合作用としてたまたま維持されたのかどうか。さらに検討が求められる問題点をなしている。
同様に、20世紀に生じたU字型変動についても、たとえば「1913年と1950年のあいだにおける資本/所得の比率の低落は、結局のところ、ヨーロッパの自殺、とりわけヨーロッパの資本家たちの安楽死の歴史である」(邦訳156ページ)と総括されるのでは不十分であろう。
現実には、その変化は、資本主義の帝国主義的発展から生じた第1次大戦、その打撃と戦後処理の歪みの影響をうけて発生した世界大恐慌、その混乱がもたらしたファシズムとニューディール、さらに両者の対立から生じた第2次大戦の災厄による一連の破壊的自壊過程によるところが大きかった。さらに戦後、高度成長期にかけて資本主義先進諸国に定着するニューディール型の労資協調的社会民主主義体制は、第1次大戦の危機から産まれたソ連型社会主義が、大恐慌の過程でも雇用を拡大し、第2次大戦を契機に東欧などに広がり、さらに植民地体制の変革をつうじ、世界にあいついで誕生する傾向に対抗する要請をひとつの有力な支持要因としていた。
ピケティも指摘しているように、この間、アメリカで、富裕者への累進所得税の最高税率は1932~80年の約半世紀にわたり平均81%であり、相続税の最高税率もこの間70~80%とされていた。ヨーロッパ諸国や日本ではそれらの水準は、そこまで高められはしなかったが、こうした税制も、高度成長期までの労資協調的社会民主主義的体制のもとで、資産と所得の格差を低位に抑制する効果を有していた。
これにくらべ、1980年代以降の経済格差のU字型回復過程は、そのような戦後の資本主義世界における相対的に安定的な高度成長がゆきづまり、スタグフレーションを経て、ケインズ主義と社会民主主義の政策基調が新自由主義に転換するなかで生じている。新自由主義への資本主義世界の政治経済体制の変革は、またあきらかにソ連型社会主義のゆきづまりと崩壊によって助長されている。ピケティの提起している格差再拡大の傾向も、その意味では新自由主義の歴史的意義の批判的考察と統合され、その一環におさめられてよい。
3 格差再拡大への対策の選択肢
ピケティは、教育、保健医療、年金についての「基本的社会権」を保障しつつ所得再配分をおこなう「社会国家」を現代化して、格差再拡大を抑制するために、富裕者への累進所得税、相続税を再強化し、これに国際資本課税を新たに加える対策を提唱している。
ピケティは一種のユートピアンではないか、とする論評もある。ピケティ自身の分析にも、新古典派理論にもとづき、無限の蓄積原理にもとづく資本の運動に由来する経済的不平等化をいわば資本主義の一般的で自然的傾向として、20世紀の特異な戦争や国家の介入などによる例外的時期を経て、現代的にその傾向が再現されつつあるとみる側面も読みとれる。その観点からすれば、社会的国家による再配分政策は、むしろ不合理で非効率なユートピアン的方策とみなされうる。マルクス学派の一部からも、社会民主主義はすでに過去のものとなり、グローバル資本主義においては、社会的国家を再生しうる現実的基盤も権力構造も失われているのではないか、ともみなされうる。
しかし、そのような論評は、逆に、新自由主義のもとでの市場原理主義による政治経済秩序の再編を現代世界の動かせない現実のように狭く理解しすぎることにならないか。
実際、戦後の高度成長期には、フランス・レギュラシオン学派のいう労資協調的なフォード的蓄積体制が、生産性上昇に対応する実質賃金の引き上げをともない、有効需要を内部から増大しつつ、福祉政策の拡充とあいまって、「資本主義の黄金時代」とされる高成長への好循環を生じていた。その歴史的経験も、たんなる例外として軽視されてはならない。その後の時期についても、ピケティ自身の分析でも、政策や制度を異にする、北欧、中欧、アメリカでは経済格差再拡大にかなりの程度の差異が認められる。2009年の米日両国での民主党への政権交代も、ニュー・ニューディールといわれた現代的社会民主主義政策により、翌年にかけてかなりの幅での経済回復をもたらし、グローバル化された現代世界にもその政策がかなり有効であることを例証していた。
こうした経験的事実を念頭におけば、新自由主義のもとで生じてきた経済格差再拡大を是正し、平等化を図る21世紀型の社会民主主義に可能な対案にも、多様な選択肢を幅広く構想し、民意を問う過程がくりかえされることが望ましい。
ピケティの提唱する累進的な相続税や所得税の再強化とあわせての、国際的資本課税もその有力な一環に位置づけることができる。その見解は、不労所得としての資本や土地による収益にたいし、労働所得の尊重と平等化を求める社会民主主義の伝統をつぐ発想でもある。多国籍化した企業のグローバルな活動が顕著になっている現代世界では、資本課税も国際協力なしには、十分な効果をあげえないと考えられているのであり、EU統合を推進してきたフランス社会党のブレイン役としても、EU規模ではその現実的基盤と可能性がすでにある程度存在しているとみなしている。
とはいえ、新自由主義に対抗して、経済生活の平等化、安定化を図る社会民主主義的対案は、そうした課税改革案にかぎられるべきではない。そのほかにも、たとえば、ベーシックインカムの構想、グリーン・リカバリー戦略、地域通貨の実践、ワーカーズ・コープなどの協同組合企業の育成、労働組合運動の再建、など社会的経済の成長に期待する、21世紀型社会民主主義の進路がより広い可能性や構想を選択肢として浮上させつつある。
そのなかで、20世紀型の社会民主主義が概して国家の再配分や雇用政策にもっぱら期待していたのにたいし、21世紀には、経済のグローバリゼーションに対応して、一方でピケティの提唱する資本課税やトービン・タックス案などにも国際協力の必要が強調されるようになっている。と同時に、他方で、地方自治体の役割もふくめ、ローカルな地域社会からの地産地消的なグラス・ルーツの協同・連帯経済の可能性を重視する諸構想も重要視されつつある。この後者の戦略路線はピケティには欠けているが、重要性を増すであろう。
ピケティは、資本の引き起こす格差拡大の問題に、マルクスの示唆していた生産手段の公有化による社会主義ないし共産主義による解決が、より徹底的で論理整合的であることは認めながら、ソ連型の集権的計画化が例証したその人間的災厄にてらし、市場経済の調整機能はこれからの社会にも欠かせないとみている(邦訳557-8ページ)。たしかにソ連型社会の失敗は重大な問題を人類史に残す悲劇ではあったが、それにともない資本主義をこえる社会主義の可能性がすべて失われたとみる見解も性急で狭すぎる。かりに市場経済の調整機能は少なくとも当面欠かせないにしても、資本主義をこえる生産手段の公有化にもとづく、市場社会主義の多様なモデルは、論理整合的に構想可能である。ピケティの提示している格差再拡大傾向への徹底した解決は、持続可能な自然環境の保全ともあわせて、やはり資本主義をこえる社会主義の課題とみなさなければならないし、その展望はピケティの依拠する新古典派経済学からは、きわめて提起しにくいところであった。
ピケティの提起した問題の意義とそれへの対案をめぐっては、こうした一連の観点から、あらためて21世紀型の社会民主主義の諸構想と、それらをも戦略的に糾合しうる社会主義の現代的な思想と理論の再建の試みを大切に、広い視野にたって学問的にその論拠と意義とを探究する試みをさらにすすめてゆくべきではないかと考えている。
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(本稿は伊藤誠(2014)「『二一世紀の資本』論と『資本論』」『現代思想』四七巻一七号、に加筆し補整を加えたものである。)
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〔study636:150319]
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