『スラッファ』に関する岩田氏と〈ブルマン〉氏の議論に寄せて
- 2010年 12月 17日
- スタディルーム
- スラッファ片桐幸雄
「生産手段の交換から貨幣形態を考える」ということ
「評論・紹介・意見」で12月11日に岩田昌征氏が片桐幸雄『スラッファの謎を楽しむ』(社会評論社、2007)の「読書感想」を寄せられ、その最後で、「価値形態論を交換比率が不安定な最終消費財関係から始めるより、交換比率が生産技術的に規定されている生産財関係から始めたらどうか」という著者の着想を紹介された。このことに対して、〈ブルマン!だよね〉氏が12月13日に「スラッファ体系と価値形態論」を書かれ、「使用価値の内容(生産手段か消費財か)によって何か価値形態論の説き方に差異が出てくるのだろうか」と疑問を呈された。
以下に、『スラッファの謎を楽しむ』のなかから、議論の対象となった部分を紹介する。
Ⅲ 謎のいくつかについて考えてみる
5.説かれなかった貨幣形態論を巡って
(1)森嶋の酷評……略
(2)必要がないから説かれなかったといえるか……略
(3)価値形態論を巡るアリストテレスの限界は何に起因するのか
更に問題がある。スラッファはもっとも単純なモデルを鉄と小麦という生産手段同士の交換から始める。通常の貨幣形態論は最終消費財(たとえば上着とリンネル)の交換から始められるから、もし生産手段同士の交換から貨幣形態論を展開していたら、貨幣形態論に新たな成果が得られたかもしれない。しかし均衡状態を前提とし、商品があたかも貨幣の媒介抜きで交換されるかのように擬制したことによって、この可能性はなくなった。
マルクスは、『資本論』でアリストテレスが貨幣形態論、価値形態論を解き得なかった理由を古代ギリシャが奴隷労働に基づく社会であったことに求めた。このことに対して伊藤は、「マルクスに特有な価値の形態規定の展開による貨幣の謎の定式化と解明は、価値の実体としての労働の量的関係の究明とは相対的に独立に、したがってすでに古代ギリシャにもある程度発達していた市場経済の基本形態として、アリストテレスにおいても可能であったはずであるとはいえないであろうか。いえないとすれば、それはなぜなのか」と問う(伊藤[2006]54頁)。
伊藤のこの問いは、自由で平等な労働者の存在と貨幣形態論の展開の可能性の関係にかかる疑問から由来するように思われる。伊藤は「近代資本主義社会を基礎として労働価値説を解いていた古典派経済学も、価値形態論によって貨幣の謎を解くにはいたならかった」(同上、53頁)とする。このことは貨幣形態論の展開の根拠を自由で同等な労働の存在に求めることはできないということを示唆する。マルクスの貨幣形態論が、商品の背後に同等な労働を置くことによってむしろ混乱していることも、貨幣形態論を自由で同等な労働の存在に結び付けることの妥当性に疑問を投げることになる。
伊藤自身はこの設問に対して答を記していないが、この問いは放置しておくにはあまりに惜しい設問である。アリストテレスは「交換は同等性なしにはありえないが、同等性は通約性なしにはありえない」とし、「諸商品の価値形態の背後の実体的通約性に分析をすすめようとしていた」(伊藤、前掲、53頁)。この実体的通約性を求めることはアリストテレスにはできなかった。これに対してマルクスは、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性は通約性なしにはありえない」というアリストテレスの考え自体は認めたうえで、それができなかった原因を「自由で平等な労働者」の不在に求めた。しかし伊藤がいうように、「自由で平等な労働者」の存在は、貨幣の謎を解く鍵とはいえなかった。そうであれば、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性は通約性なしにはありえない」としたアリストテレスの考え自体を問題にする必要がある。
(4)『商品の生産』をヒントに生産手段の交換から貨幣形態を考える
スラッファが生産手段同士の交換を『商品の生産』の冒頭に置いたことはこの問題に対するヒントを与える。『商品の生産』の冒頭の商品(鉄と小麦)はいずれもそれぞれの商品の再生産のために交換されるのであって、消費のために交換されるのではない。したがってここでは鉄の所有者も小麦の所有者も交換の相手方の商品の使用価値そのものに着目して交換価値を評価するのではない。他人が所有する商品が自分の商品生産に不可欠だから、自分が生産し所有する商品との交換を求めるのである。
この場合、交換比率は2つの商品の同等性や価値実体の通約性を背景にして決まるわけではない。ここでの交換比率の決定にはそういうものは不要である。それは2つの商品が生産手段であるからだ。つまり生産手段の交換比率は、買い手が交換によって入手しようとしている商品の使用価値に与える評価といった主観的なものではなく、その背後に擬制される共通の価値実体としての体現労働でもなく、「再生産を可能にする比率」という2つの商品の間の純粋な関係として現れる。
いささか冗長になるが、確認しておけばこういうことである。仮にマルクスのように、2つの商品の同等性や価値実態の通約性を体現労働量に求めたとしても、[大掴み]13°で見たように、2商品の相対的価格関係は通常はそれぞれの商品に対する体現労働量に比例することはない。商品の価格は同等性や通約性ではなく、あくまでも商品間の関係として現れるのであり、その関係は再生産を維持するための関係に他ならない。価格がこのような関係によって規定されるということは、交換される商品が生産手段である場合に明瞭に確認される。
次いで、スラッファは鉄と小麦と豚の3つの商品からなる体系を提示する。ここでも交換比率は再生産を維持する比率として決定されるが、現実にはこの比率はもはや直接の交換によって決めることは出来ない(第2節を参照)。どのような交換比率が再生産を維持する比率になるかは市場での反復する取引のなかで決めるしかない。そしてこの反復する取引は交換手段及び度量標準としての貨幣を媒介にする以外にはないであろう。ここに貨幣の必然性が生じる。
ハインリッヒは、「商品の価値はそれ自身では決定できない。他の商品との関係においてのみ決定できる。そしてこれは、貨幣を媒介にすることによってのみ可能になる。それ故、マルクスの価値理論は本質的に『貨幣的価値理論』である」とする。そして、スラッファらのネオ・リカーディアンの仕事によって、貨幣によらない価値理論は貨幣によらない生産価格の決定に対しては余計なものであることが示されたとした上で、「貨幣的価値理論の本来的な対象は、価値量ではなく、価値形態およびそれが発展したものとしての貨幣形態である」とする(Heinrich[1988]S.32およびS.34)。
価値の確定は貨幣を媒介にした交換を通じて始めて可能になるという考えは理解できる。商品の価値はあくまで他の商品との「関係」によって決まるのであり、この「関係」は貨幣を媒介にした市場での交換によって確定するしかないからだ。上に見た生産手段としての鉄と小麦の交換はそのことを如実に示している。ただこの事例からもわかるように、貨幣的価値理論の本来的な対象が価値形態、貨幣形態であるとしても、価値形態論、貨幣形態論の出発点としての商品交換がいかなる商品を巡っての交換なのかを考えないわけには行かない。
ハインリッヒがどのような商品の交換を想定していたかは明らかでないが、貨幣を媒介とした他の商品との交換を考える場合も、それが最終消費財であるとすると、買い手の個人的欲望からは他の商品との「関係」を安定的なものとして特定できず、交換の対象となる商品に共通に含まれるものとして体現労働を持ち出すという、古典派やマルクスら抱え込んだのと同じ問題を避けられないからだ。そしてそのことから、「商品の価値をそれ自身で決定する」ことになる危険性が出てくる。
生産手段の交換にあっては、再生産可能な交換比率という他の商品との客観的「関係」が特定できるからこの問題はクリアされている。しかも、売り手にとっても交換によって受け取る商品の使用価値が問題となる可能性がある最終消費財の交換とは異なって、売り手にとっては交換は再生産のための販売にすぎない。あらゆる商品が直接すべての生産過程に入るわけではないことを考えれば、直接の交換によって再生産に必要なすべての生産手段を入手できる保証はないから、この交換を媒介するのはそれでもって何でも買えるものとしての貨幣以外にはありえない。これが生産手段の交換に着目した貨幣の必然性である注。
注 なお、ここで必要なのは価値物としての貨幣ではないことに注意する必要がある。価値物という概念には貨幣自体が一定の使用価値を持っていることが含意されるが、交換手段・度量標準としての貨幣はそれ自身が使用価値を持つ必要はない。
貨幣は歴史的には金あるいは銀という貴金属としての使用価値をもつ生産物があてられたが、それは「商品による商品の生産」が確立するはるか以前から、存在したものである。そうした前資本主義的貨幣が資本主義社会でも貨幣として使われたのは歴史的事実であるが、その歴史的事実は、貨幣は貴金属でなければならないという論理的必然性を与えるものではない。「商品による商品の生産」が確立している社会で貨幣に求められるものは、「それによって何でも買うことができる」ということだけである。そして金銀といった貴金属がその要件を満たしていたというだけのことである。
貨幣自体のなかに価値を認めたならば、結局は、「商品の価値をそれ自身で決定する」危険性に陥ることを忘れてはならない。
最後の契機は利潤の発生である。生産体系が補填に必要な分を超える量を生産するようになると、個々の商品生産には剰余が発生する。生産体系を(中・長期的に)安定的に維持するためには、この剰余が各商品生産に均等な利潤率を実現するものとして分配される必要がある。剰余は(単一生産物体系にあっては、各商品の生産過程ではただ1種類の商品からなるとしても)社会的には多様な商品で構成される。そのなかで、利潤率が均等になるためには、すべての商品を共通の度量標準としての貨幣で計測する必要がある。こうして貨幣はあらゆる商品の価格(交換価値)を規定するものとなる。このことが、貨幣が全社会を支配し、貨幣が物神化する根拠を与える。
上記のことをまとめれば次のようになろう。最終消費財の交換にあっては、消費者の主観的な評価(使用価値)を客観的な交換価値に変換するために価値実体として労働(最終消費財に体現された労働時間)が持ち込まれなければならない。それに対して生産手段の交換にあっては、交換価値は最初から「再生産を維持する比率」として客観的に与えられる。価値実体として労働時間を持ち込む必要はない(もちろん、消費者の主観的評価はまったく問題にならない)。さらに、「再生産を維持する比率」の確定のための市場における取引を介した貨幣の必然性と、一般利潤率の形成を通じた貨幣の物神化は容易に理解できる。したがって貨幣形態論は価値の実体としての労働とは無関係に展開される。伊藤のいう「貨幣の謎の定式化と解明[を]、価値の実体としての労働の量的関係の究明とは相対的に独立に」行なうことになる。
しかしアリストテレスにはこの方法は使えなかった。それは、古代ギリシャ社会の市場が基本的には最終消費財に限定されたものであって、「商品による商品の生産」が貫徹した社会ではなかったからだ。そのような社会では、生産手段の交換から貨幣の謎を解くことは不可能である。マルクスは、アリストテレスが貨幣論を展開できなかったのは古代ギリシャ社会が奴隷制の社会だったからだとしたが、伊藤が指摘するようにそれが理由だとはいえないのである。
そのことは、「商品による商品の生産」が貫徹した社会にいた古典派が(古典派流の)労働価値論から貨幣形態論を展開できなかったことを見れば、より明解に理解できる。自由で平等な労働者の存在が貨幣形態論を可能にするのであれば、古典派の失敗の理由は説明できない。古典派が貨幣の謎を解くことに失敗したのは、最終消費財の交換から始めたことにある。最終消費財の使用価値は消費者の主観的評価によって決まるから、これを客観的なものにするためには、価値の実体としての労働を想定する以外にはない。しかしこれでは、商品の価値を他の商品との「関係」から決めるのではなく、「商品の価値をそれ自身で決定する」ことになってしまう。この方法では貨幣が必然化する根拠は解けない。マルクスもまたこの失敗の一部を引き継いだ。
スラッファが『商品の生産』の冒頭に示した生産手段としての鉄と小麦の交換はこの隘路を突破するヒントを与えるものであった。繰り返すことになるが、この生産手段の交換からは、商品の交換価値を他の商品との関係のなかで「再生産を維持する比率」として捉え、市場での複数の商品の取引からこの比率を客観的に確定するときの、取引手段・度量標準として貨幣の必然性を解くということが考えられたはずなのである。しかしスラッファは貨幣形態論を素通りした。
(5)主体の存在しない世界で最終消費財から貨幣形態論が展開できるか……略
文中、[大掴み13°]とあるのは『スラッファの謎を楽しむ』の「Ⅱ 大掴みにしてみる」の13°のことで、『商品による商品の生産』の、第13節「国民所得の割合としての賃金」と第14節「国民所得全体が賃金にあてられるばあいの価値」を概説したものである。また、引用した伊藤とHeinrichの出典は下記のとおりである。
Michael Heinrich[1988], Was ist die Werttheorie noch wert ? Zur neueren Debatte um das Transformationsproblem und die Marxsche Werttheorie : in PROKLA 72, 18. Jg., Nr. 3
伊藤誠[2006]『「資本論」を読む』、講談社(講談社学術文庫)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study364:101217〕
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