歴然たるものがある
- 2015年 3月 30日
- 交流の広場
- 狩野隼人
僕って何とか言うのがあって、三田誠広にせよ栗原彬にせよ、彼らの主体からはなれて、それを知りたい人は今の彼らを見に行くといいかもしれない。
だいたい、僕は東名高速で親から殺されたアイデンティティを持っていて、アイデンティティなどという言葉を三浪もして東大に入り異様な東大主義を固めた男などに繰り返しては欲しくなかった。
地元の大学には田舎の後進性に満ちたナショナリズムがあって結局僕は排除されたのだが、内部ではまだ僕とともに闘いたいとかいうのがいて作戦を練ってくれているが、難しい。しかし同時に、世界中の反動文化全盛時代に僕たちは生き延びる道を探しているだけでは難しくなった。反動の時代には、生きててもらってたまるかという圧力が、こちらの食欲に勝っているのだ。太田昌秀などが地方で知識人とかいう動物の結集を図っているそうだが、かっこいいことはかっこいい。
組織は、パンを求める人たちに、人はパンのみにて生きるものにあらず、と教えて、パンを授ける。
その時代に生きている日本人たちは、その組織の神にひれ伏して、組織の命運が未来永劫まで続くことを祈っているので、たとえばISO9001のような組織改善にまで変化におびえ防波堤を気づき、「何で変えなくてはならないのかね、君の魂胆は何かね」とISOという国際標準の担当者に「個人的な魂胆」を見つけ出そうとする。
組織は永続を求めているので、昔のベータビデオなど内部で昔のテクノスタルジアに三日以上こだわったやつは敵である。反省書を書かせて、本当は殺したいところだが排除する。
しかし、組織は昔の政治家の子供たちが能無しであることは百も承知であるので利用できると踏んでいる。
だから、安倍が終わっても次のバカ殿が登場する。
問題は、組織からは組織の手に負えない確実なアイデンティティの思想が誕生してこなかったことなのだ。
つまり、キリスト教団のはじめの段階でイエスが演じたのはそれだった。しかし、政治の前で、これを見殺したのも教団とその教義であったと読める事例も繰り返された。
幸い、繰り返されてはいけない土地を日本人は持っている。広島・長崎と、福島と沖縄だ。そこに、本質的な現代日本人のアイデンティティを確実とする契機が、あまりにも歴然として存在している。
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