ベトナム人民がドルの威信を傷つけ、世界を変えた -サイゴン解放40年(上)-
- 2015年 4月 30日
- 評論・紹介・意見
- ベトナム戦争伊藤力司
きょう4月30日はサイゴン解放40周年に当たる。40年経つと、サイゴンと言っても分からない人が多くなった。若い人たちにはホーチミン市と言ったほうが通じる。1960年代に世界を揺るがせたあのベトナム戦争は、1975年4月30日べトナム解放軍(北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線勢力)のサイゴン入城によって最終的に終結、世界一の軍事大国アメリカの敗北が確定したのだった。
アメリカは1965年に北爆を開始、南ベトナムに最大54万人の兵力を送り込み、第2次世界大戦中全世界で使われた総量以上の爆弾と枯葉剤を狭いベトナム国土に浴びせたが、勝てなかった。アメリカは膨大な軍事費を浪費した末、当時のニクソン大統領は1971年8月15日、ドルと金の兌換停止を発表せざるを得えなくなった。これがニクソン・ショックである。米国の通貨ドルは金の裏打ちがあってこそ、世界最強の国際通貨として通用していたのだった。1ドル=360円の固定相場はその後変動相場に移行、現在では1ドル=120円とドルの値打ちは1/3に減価している。
アメリカはソ連崩壊後唯一の超大国として世界に君臨してはいるが、アジア太平洋の覇権をめぐって中国が急追する時代を迎え、その威信は年々衰えつつある。そのきっかけをつくったのは、他ならぬベトナム人民の不屈の戦いであった。あの貧乏な小国ベトナムが、世界一の強大帝国アメリカを敗退させ、それが今日の多極化しつつある世界を生み出す原動力になったことを忘れることはできない。
ここでベトナム戦争の歴史をかいつまんで振り返っておこう。第2次世界大戦中に植民地インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)を失ったフランスは1946年、独立直後のベトナム民主共和国への再侵略を試みたが、独立の英雄ホー・チ・ミン主席に率いられたベトミン軍(共産系の労働党と民族主義系の混成軍)の粘り強い抵抗に逢い苦戦した。これが第1次インドシナ戦争である。有名なディエンビエンフーの戦いに敗れたフランスは1954年7月にジュネーブ和平協定を結んで撤退した。
これより先フランスは1949年、サイゴンにバオダイ旧国王を復権させて南ベトナム傀儡政権を立てた。ジュネーブ協定では北緯17度線で南北ベトナムを暫定的に分割するが、2年後の1956年に統一を問う国民投票を行うこととした。当時の米アイゼンハワー政権のダレス国務長官はジェネーブ協定に調印を拒否。このジュネーブ会議には1949年の中国革命で登場した中国共産党政権から周恩来外相が登場して、新中国が国際外交にデビューを果たした。
フランスの撤退後南ベトナムに肩入れを始めたアメリカの意向を受けたサイゴン政府は1956年の統一選挙をボイコット、しかも南部メコンデルタ地帯に根を張った旧ベトミン系勢力の殲滅作戦を続けた。これに抵抗した勢力が1960年12月、南ベトナム解放民族戦線を結成してサイゴン軍との本格戦闘を開始して急速に根拠地を広げた。ここから第2次インドシナ戦争とも言われたベトナム戦が本格化したのである。解放戦線はやがて、非共産系の民族主義者も交えた臨時革命政府を結成、二つの政府が南ベトナムで争うことになった。
当時のアメリカは共産中国の出現に怯え、統一ベトナムがホー・チ・ミンの下で共産国家になると、東南アジア全体がドミノ倒しのように赤化すると恐れた。アイゼンハワー政権はサイゴンに軍事顧問団を派遣するとともに、サイゴン政権に対する軍事援助を注ぎ込んで、ベトコン(Vietnamese communstsを略した蔑称)と呼んだ解放戦線との内戦を懸命に支援した。1961年に登場したケネディ大統領は暫定的に前政権のやり方を踏襲したが、本格的なベトナム政策を策定する前の1963年11月に暗殺に倒れた。その結果、副大統領から昇格したジョンソン大統領がベトナム戦争を本格化していった。
ケネディ政権を引き継いだマクナマラ国防長官らのジョンソン政権は、近代兵器を装備した米軍を本格的にベトナムに投入すればベトコンを殲滅するのは簡単だと想定していた。そのためにはベトコンとベトコンを支援する北ベトナムを正面からたたかなけれならない。そこで「トンキン湾事件」という謀略をでっち上げた。1964年8月4日トンキン湾の公海上で米海軍の駆逐艦が北ベトナム海軍から魚雷攻撃を受けたと、大々的に宣伝した。これを受けて米連邦議会は大統領にすべての措置を取る権限を与えることを議決した。
議決を受けてジョンソン政権は、1965年から陸空海軍・海兵隊の実戦部隊をベトナムに続々と派遣、北爆(北ベトナム爆撃)も連日行われ、完全にアメリカの戦争であることが公然化した。しかし「トンキン湾事件」が完全なでっち上げの謀略であることは、1971年6月に米有力紙ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストに掲載されたペンタゴン・ペイパーで大々的に暴露された。ペンタゴンつまり国防総省に勤務する専門家のD・エルズバーグ博士が両紙に内部告発したものだった。
「トンキン湾事件」が根も葉もないでっち上げの謀略であることは、1964年当時から北ベトナム政府は声を大にして対外アピールしていたが、当時は味方の共産圏しか信じられていなかった。ペンタゴン・ペイパーが暴露された1971年となると、米国国内を含めて全世界にベトナム反戦運動が展開されていた時代である。この反戦運動は、1968年1月31日から南ベトナム全土で展開された解放勢力のテト攻勢で、ジョンソン政権の宣伝に反して米軍が苦戦してことが明白になったからである。
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