「特別の教科 道徳」の意味するもの ― 中教審答申を読む ―
- 2015年 5月 2日
- 時代をみる
- 青木茂雄
1.中教審答申と「特別の教科 道徳」の「目標」
第2次安倍内閣の肝入り「教育再生実行会議」の「第一次提言」は、道徳の教科化な
どを含む道徳教育の強化を打ち出していたが、文部科学省内に設置した「道徳教育の充
実に関する懇談会」が2013年末にまとめた「報告」は、現在行われている道徳の「
問題点」を列挙し、①道徳の教科化②検定教科書の導入③教員の研修及び教員養成課程
の改善の必要等を結論づけた。これを承けて2014年2月17日に文部科学大臣下村
博文は、中央教育審議会(中教審)に「道徳に係る教育課程の改善等について」を諮問
した。
「道徳教育専門部会」での10回にわたる審議の後に、2014年10月21日に中
教審による文科大臣への「答申」が行われた。
「答申」は第一に、「道徳の時間を『特別の教科 道徳』(仮称)として位置付ける
」とした。
その上で、第二に、「目標を明確で理解しやすいものに改善する」としている。
学習指導要領の「各教科」は「目標」と「内容」により構成されている。「目標」に
は教科全体の包括的な「目標」と各分野別又は各学年別のより具体的な「目標」とがあ
り、後者を承けて「内容」が具体的に列挙されるという仕組みになっている。
現行の学習指導要領(小中学校は2008年、高校は2009年告示)における「道
徳」の「目標」は各教科のそれに比べるとかなり包括的である。まず、「総則」には小
中高に共通した「目標」が次のように記載されている。
「道徳教育は、教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき、人
間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活
の中に生かし、豊かな心をもち、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国
と郷土を愛し、個性豊かな文化の創造を図るとともに、公共の精神を尊び、民主的な社
会及び国家の発展に努め、他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し
未来を拓く主体性のある日本人を育成するため、その基盤としての道徳性を養うことを
目標とする。」 小学校・中学校については、総則で示された「目標」を承けて、「第
3章 道徳」の項目に、「道徳的な心情、判断力、実践意欲と態度などの道徳性を養う
こととする。」「計画的発展的な指導によってこれを補充、深化、統合し、道徳的価値
の自覚及び自己の生き方についての考え(中学校は「自覚」)を深め、道徳的実践力を
育成するものとする。」などと特設道徳の「目標」が記載されている。
ところで、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し」の
文言は言うまでもなく2006年の改定教育基本法を承けて付加されたものである。教
基法改定時に各方面から反対や懸念の声がおこったこのいわゆる「愛国心条項」は、教
基法2条の「教育の目標」のほかに、学校教育法21条、さらにこの学習指導要領の「
総則」にほぼ同様の表現で「道徳教育」の目標として記載されている。このことはあま
り注目されていない。
学習指導要領における「愛国心」の記載は、すでに指摘されている通り、教基法改定
以前にもすでに早くからあった。小学校においては1958年「特設道徳」の開始とと
もに「道徳」の「内容」として記載されていた(1)。
“道徳教育導入の目的が愛国心教育にある”とは、当時から指摘され、教職員組合の
強力な反対運動の理由もそこにあったのであるが、この指摘は概ね当たっている。ただ、
強力な反対運動の結果、実際におこなわれた「道徳」の時間の展開は現実には多種多
様のものとなって、すぐれた実践も少なからずつくりだされてきたのも事実である。し
かし、だからと言って道徳教育導入の国側のねらいはいささかなりとも変更されていな
い。
「愛国心」については、これまでにも学習指導要領の「内容」に記載され、「学習指
導要領解説」では更に詳細な説明が施されてきたが、2006年の教基法改定により法
規上の文言となり、2008年、2009年の学習指導要領改訂により、先に述べたよ
うに「総則」の「目標」として明記されるようになっている。「愛国心」は、このよう
にして、学習指導要領の「内容」・「解説」→「法規」→学習指導要領総則における「
目標」というルートをたどりながら一歩一歩現実化してきた。
教基法改定後に、学習指導要領の「総則」として道徳教育の「目標」に「愛国心条項
」を滑り込ませたことは国側の悲願の達成にほかならない。しかし、これは彼らにとっ
てまだ道半ばである。なぜなら、「目標」はまだ包括的であり、「内容」はまだ恣意的
であり強制力に乏しい。残りの道程は、「内容」を一部具体化して「目標」に滑り込ま
せ、「目標」と「内容」とに有機的な一貫性を持たせることである。これが「目標を明
確で理解しやすいものに改善する」ことの意味である。つまり、包括的な「目標」を具
体的な「道徳的習慣や道徳的行為」として徳目化することである。もっと直截に言えば、
戦前の「修身」におけるように、終局的には「愛国心」に収斂していくような「徳目
」の羅列に、「目標」を限りなく近づけることである。
それでは、なぜそれまでして「目標」にこだわるのか。その第一の理由は、「目標」
には法令上強制力が伴うように制度改定が行われたからである。改定教基法を承けて2
007年に改定された学校教育法において「教育の目標」をそれまでの「目標の達成に
努めなければならない」の努力規定から「目標を達成するよう行われるものとする」と
いう文言に改定して目標の達成に強制力を持たせた(30条)のである。2008年、
2009年改訂の学習指導要領ではこれを承けて、教育課程全体に対しても強制力を持
たせた。「総則」の「1」に「これらの目標を達成するよう教育を行うものとする」と
の文言が付加されたことがそれである。
私達は1989年以来の学習指導要領における「国旗・国歌条項」の「ものとする」
の文言がどれだけ猛威を振るったのかということを痛感している。努力規定と違って、
「ものとする」には例外が存在しないのである。今東京都では、「教育課程の適正実施
」を名目に教育行政による教育内容への介入が無際限に行われるようになっている。そ
の根拠になっているのが、学校教育法30条の「目標達成」条項であり、学習指導要領
の「目標達成」規定である。
2.体系化としての道徳の教科化と検定教科書
「答申」は第三に、「道徳の内容をより発達の段階を踏まえた体系的なものに改善す
る」としている。現行の「内容」は小中学校では各学年とも、①「主として自分自身に
関すること」②「主として他の人とのかかわりに関すること」③「主として自然や崇高
なものとのかかわりに関すること」④「主として集団や社会とのかかわりに関すること
」の4つの視点を軸に、指導のねらいを各学年別に具体的に列挙している。
「体系的なもの」にするとは、上記の4つの視点とねらいを立体的かつ構造的にする
ことであり、「道徳的価値」の優劣の分別であり、序列化である。言い換えれば道徳の
《教学》化である。
戦前に猛威を振るった「教育勅語」に盛られた内容は道徳的価値のひとつの体系化で
あり、序列化である。家庭から始まって地域社会から国家に至るまで序列化された道徳
的価値が「修身」の授業を要としつつ、学校儀式など様々な手段で注入されるように学
校教育のすべてのシステムが仕組まれたのであった。このような体系化・序列化は、当
時のアカデミズムにおける「国民道徳」論や「倫理学」にも基調として通底していたの
である(和辻哲郎の『倫理学』はそのひとつの達成である)。また、上層部の「教学」
のレベルでは「勅語」の解釈権を巡って重箱の隅をつつくような逆立ちした空疎な議論
が、明治末年から昭和の敗戦に至るまで連綿として続けられてきたのである(2)。この
ような愚を再び繰り返そうというのか。
今後の学習指導要領改訂にあたってどのような体系化が行われるかはさらに紆余曲折
があるであろうが(3)、体系化にあたって範型になるのは先にあげた「総則」に盛られ
た「目標」であることは間違いない。彼らは「国家」や「愛国心」に収斂する体系化・
序列化を強力に主張してくることは必至である。
どのような体系化が行われようと、それぞれの生徒の具体的な経験から遊離したもの
となることは間違いない。このような《教学》の体系化は学校現場に混乱をもたらすだ
けだ。 さらに第四に、「多様で効果的な道徳教育の指導方法へと改善する」とある。
ここでは一見すると「指導の多様化」を強調しているように見えるが(多様な指導はも
うすでに現場では十分に行われてきている)、しかし力点は校長のリーダーシップのも
とにおける学校全体としての「指導計画」にもとづいた一貫した「指導体制の充実」で
ある。当然のことながら、現場の教師の創意工夫に基づいた「多様で効果的な」指導が
存在する余地はほとんどなくなる。さらに「学校と家庭や地域との連携の強化」も謳っ
ている。東京都では、2012年から都立高校における「防災訓練」が「地域との連携
の強化」を名目に“道徳教育”として行われており、自衛隊との連携もその一環である
(4)。
第五に、「『特別の教科 道徳』(仮称)に検定教科書を導入する」。前項で「多様
で効果的な指導」を謳いながら、ここでは「全ての児童生徒に無償で給与される検定教
科書を導入することが適当である」ことを唐突に結論づけている。これは教科書を使わ
せるために「道徳」を教科化するという、まるで逆立ちした議論である。
検定道徳教科書の導入を前提として、先に見た「目標の明確化」と「内容の体系化」
が目指され、さらにここでは①「国や地方公共団体には、道徳教科書の教材・活用のた
め、引き続き支援の充実に努めることが求められる」、つまり国や地方公共団体は民
間の検定教科書のパイロット版の開発に努めよということである。これでは民間の創意
工夫どころか、パイロット版への横並び、つまり事実上の国定教科書化である(5)。②
「家庭や地域との連携」も教科書の条件のひとつとして(「私たちの道徳」を例にあげ
)言及していること、にも注意しておかなければならない。
3.道徳教育の「要」としての「特別の教科 道徳」の意味
重要なことをもう一点付け加えなければならない。「学習指導要領・総則」の「道徳
教育」全体の目標を述べた項目「2」の冒頭の部分には「学校における道徳教育は、道
徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行うものであり、道徳の時間はもとよ
り、各教科、総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて、生徒の発達
の段階を考慮して、適切な指導を行わなければならない。」(中学校)とある。この「
要(かなめ)」の文言が重要である。
この箇所は改訂前は「学校における道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うも
のであり、道徳の時間をはじめとして各教科、総合的な学習の時間及び特別活動のそれ
ぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。」であった。「要」の語を挿
入し、「はじめとして」を「もとより」として、「各教科、総合的な学習の時間及び特
別活動」でも道徳的な内容を取り込むように求めている。学習指導要領改訂後に発行さ
れた教科書の検定に向けて、各教科書会社は、各教科例えば数学の教科書の中にどのよ
うに「道徳的」内容を取り入れるかに苦心した、ということである。
そもそも「総則」に「道徳教育」の項目を入れた理由はどこにあるのかと言うならば
、「道徳」の時間を特設する必要はないという根強い反対意見に配慮して、道徳教育は
学校教育全体として行うべきであるとして設けられた項目である。つまり、学校教育全
体で「巧まずして」おこなわれる自然な道徳教育が主であって、特設道徳の時間はあく
までもその一部である、という認識のもとに設けられたものである、と考えられる。古
い映画であるが、石川達三原作、山本薩夫監督の1959年公開の『人間の壁』の中に登
場する教師(宇野重吉扮する)が学級の保護者会で父母に「道徳教育は道徳という時間
の中ではなく、学校生活全体でおこなうものだ」と説明するシーンがあったが、これが
「道徳の時間」の特設に反対する当時の日教組の公式の見解であった。したがって、「
特設の道徳」には「特別に例外的に」設けられた時間という意味合いで受け止められて
きた。実際、学級で様々に生じる問題に対して具体的に対処し、解決する(これこそが
生きた道徳だ)ためには「道徳」という時間の枠にとらわれることはまったく無用であ
ったのである。
しかし、2008年の改訂学習指導要領の「道徳教育の『要』として」の「道徳」の
時間は、その意味を逆転させた。つまり、特設の「道徳」の内容が他の教科等にまで影
響を及ぼし、それらを主導していくべきものというふうに変えられたのである。言い換
えたならば、学校教育全体の道徳教育化つまり《教学》化である。
さらに、2008年版「第3章道徳」の「第3指導計画の作成と内容の取り扱い」に
は、「1.各学校においては、校長の方針の下に、道徳教育の推進を主に担当する教師
(以下「道徳教育推進教師」という。)を中心に、全教師が協力して道徳教育を展開す
るため、次に示すところにより、道徳教育の全体計画と道徳の時間の年間指導計画を作
成するものとする。」とある。極端な話、校長の方針の下に全校をあげて、すべての時
間で何らかの点で道徳教育をやれというのだ。
そしてこの「要」としての道徳教育における《教学》の内容を形成するであろうものが
改定教基法を承けた、先にあげた「総則」に記載された「目標」である。私は、この箇
所は戦前の「教育勅語」の第二段の徳目部分に相当する内容のものであると考えている。
早晩、この箇所だけを独自に取り出して新たな「勅語」化する動きもあるいは生じる
のではないかと危惧している。もとよりこれは、現行憲法の下では不可能であるが。
これらのことを確定させ固定化させるための最初の試みが「特別の教科 道徳」であ
る。「特別の」というのは、戦前で言えば「筆頭(首位)」の意味である。「修身」は
「筆頭(首位)教科」と呼ばれ、特別の扱いを受けた。「修身」は、教科の内容が「教
育勅語」を直接に承けたものとなっており、その試みが1903年の教科書の国定化に
よって完成された。戦前の学校教育は「勅語」に「此レ我ガ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵
源實ニ此ニ存ス」とあるように「國體」つまり天皇が教育の根拠であり、「筆頭(首位
)教科」の意味は「修身」が教育の根拠である天皇の言葉つまり「勅語」を直接に承け
ているからであった。戦前においては、「勅語」はしばらくの間は、法的位置付けもあ
いまいなこともあって精神的な訓示規定に止まってもいたが、昭和期に至り、教科の内
容を規定することまで求められた。日米開戦の年、昭和16年に制定された勅令「国民
学校令」においてはそのもとの文部省令である同「施行規則」の「教則」の項目では、
各教科の目標が「修身」と同様に、「勅語」を承けたものとされたのである。
私は、2008年の学習指導要領における「要」としての「道徳」、そして全教科に
よる「道徳教育」の取り組みは、その形式的側面だけから見るならば「国民学校令」と
その「施行規則」の再現である。そして内容が(幸いなことに)未だ完成していないと
いう点においてあくまでもまだ形式的模倣である。しかし、教育行政担当者の間に未だ
に《教学》的思考法が払拭できずにあることに今更ながら驚いている。
4.今後への展望
さて「答申」に戻るが、教科化に伴って第六に「一人一人のよさを伸ばし、成長を促
すための評価を考える」となっている。評価の方法については、指導要録様式作成の任
に当たる地教委などの「学校設置者」に委ねられるが、「答申」は「数値などによる評
価は導入すべきではない」としつつ、今後の検討課題として、一例として「行動の記録
」の活用・改善をあげている。しかし、数値を使わないにせよ、教師による「評価」と
いう行為によって、「道徳的価値判断」という個人の内面に立ち入るということには変
わりがない。言葉や文章その他さまざまな形での「観点別」の「評価」はかえって、個
人の内面に対する「検閲」になるのである。「評価」の当不当以前に、教師はそのこと
に耐えられるであろうか。また、教育行政はその任に堪えられるであろうか。
「答申」は最後に今後の検討課題として、①「教員の指導力の向上」、②「教員免許
や大学の教員養成課程の改善」、③「幼稚園、高等学校、特別支援校における道徳教育
の充実」、をあげている。一言で言うなら、公教育全体の《教学》化である。
このどれひとつ取ってみても問題点のないものはない。とくに、「教員免許や大学の
教員養成課程の改善」は、開放制の教員養成制度の根幹にかかわる問題であると同時に、
大学のカリキュラム編成権の問題である。また、教員の「道徳教育推進リーダー教師
」はあたかも戦前における「訓導」のような役割を担うか、あるいは全教員の「訓導」
化が結果するであろう。
さて最後に、一見して戦前教育の形式的模倣・再現である道徳の教科化で進められよ
うとしている学校教育の《教学》化は、「六・三・三・四」制の解体再編や教育特区に
よる学校の民営化などに象徴される安倍「教育再生」の新自由主義的側面と両立し得る
のかという問題である。戦前教育においては、義務教育の修業年限の延長などの学校教
育の普及・拡大・充実と平行して学校教育の《教学》化が進行したのであるが、今はま
ったくそれと正反対のことがもう一方で進められている。この問題をどう解するかはな
かなかの難問であり、私にはそれを説明する術は未だない。ただ、《教学》化と新自由
主義の矛盾・衝突から安倍「教育再生」の破綻を説くほど、ことは単純ではないのは確
かである。
(注)
(1)1958年版「小学校学習指導要領」の「道徳」編の「内容」には、「主として『
国家・社会の成員としての道徳的態度と実践的意欲』に関する内容」として「35.日本
人としての自覚を持って国を愛し、国際社会の一環としての国家の発展に尽す。」とあ
る。
(2)森川照紀『国民道徳論の道』(2003年、三元社)第2章、第3章を参照された
い。(3)2015年2月4日文科省は「特別の教科 道徳」についての学習指導要領改
訂案を発表し、2018年(小学校)2019年(中学校)からの本格実施を前に、2
015年4月から先行実施ができる内容とした。
(4)2013年には都立田無工業高等学校、2014年には都立大島高校が自衛隊駐屯
地での「訓練」を実施した。
(5)戦前の修身科は国定化以前は民間発行の検定教科書が使われたが、そのモデルとな
る教科書は国が率先して作成した。検定教科書はそれにならわざるをえなかった。今度
も同じことが繰り返されようとしている。あるいは「特別の」と銘打っていることから、
早期の国定化を狙っているのかもしれない。
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