天皇夫妻のペリリュー慰霊訪問(2) ―日米両軍の死闘を読む―
- 2015年 5月 9日
- 評論・紹介・意見
- ペリリュー島半澤健市天皇
作家中島敦は大東亜戦争緒戦の勝利を喜んだ。そして、「パラオの方は、フィリピンに近いので、幾分の危険があることは確かだが、それも大したことはあるまい。そりゃ戦争のことだから、多少の危険があることは覚悟しているさ」と、41年12月に、妻たか宛に書いた。それから3年足らず後に、パラオ諸島で日米両軍の激しい戦闘が行われた。その主戦場はペリリュー島であった。日本から真南3000㎞・東西3㎞・南北9㎞の小島である。
《4倍の兵力プラス空爆・艦砲射撃》
米軍は、太平洋での飛び石反攻作戦にあたり、通常は日本軍守備隊の3倍の兵力を投入したが、ペリリュー戦においては4倍以上の兵力を投入した。空爆と艦砲射撃も行われた。投入された両軍兵力と損害は次の通りである。
投入された兵力
日本軍 9,838名
米 軍 42,000名
日本軍の主力は歩兵と少数の砲兵、米軍の主力は海兵隊であったが、航空機と艦砲は日本軍が戦闘機がわずか4~8機に対して、航空機延1,800機(620トンの爆弾)、艦砲(戦艦4、重巡3、軽巡1、駆逐艦9以上)、射撃2,200トン以上、という大差の戦力であった。日本軍は、水際での迎撃やバンザイ突撃を避け、周到に構築された洞窟の陣地で持久戦に持ち込んだ。米軍は、3日で占領する予定が、その執拗な抵抗に遭って占領に2ヶ月を要した。米軍は通常火器の他、ナパーム弾と火炎放射器を使用し、戦闘は凄惨を極めた。
両軍の損害
・戦死者
日本軍 10,022名(軍属を含む)
米 軍 1,684
・戦傷者
日本軍 446
米 軍 7,160
11月24日頃に組織的戦闘は終わったが、日本兵は生存の34名が47年4月に投降するまで、ゲリラ戦を続けた。ペリリュー島以外でも戦闘は行われ、6332名の日本軍が戦病死している。45年9月に降伏調印した時点で生存て日本軍将兵、兵以外の日本人、現地島民は合計4万名強であった。
バラオ諸島の戦闘は、米海兵隊史上最悪の戦闘の一つとされている。フィリピンへの反攻への先導と補完という目的とその必要性について米軍内に議論が起こったという。
《米海兵隊兵士の体験記にみる戦場》
1981年になって参戦米兵による一つの戦記が刊行された。インテリ海兵隊員ユージン・B・スレッジによる『ペリリュー・沖縄戦記』“With the Old Bread”である(「講談社学術文庫」に邦訳あり)。著者の記憶と記録、さらには公的な戦記が混然一体となった作品である。昭和史研究家保阪正康は同書の解説に、「私は幾つかのこうした体験記にふれてきたが、本書はそのなかでもきわめてレベルの高い記録だと思う。著者は、戦後は大学教授で生きてきたとあるが、その心中には自らの戦争体験が根を下ろしていて、いつかその心情を書きのこさなければならないとの使命感があったようだ。戦争体験を経てから三十年も過ぎて本書を著したところに、著者なりの苦悩があったと私には思える」と書いている。衝撃的な記述が多いが、戦場の兵士がが如何に人間性を失うかの具体的な描写を数編引用する。
■その日本兵の口元には大きな金歯が光っていた。問題の海兵隊員は、なんとしてもその金歯が欲しかったらしい。ダイバー・ナイフの切っ先を歯茎に当てて、ナイフの柄を平手で叩いた。日本兵が足をばたつかせて暴れたので、切っ先が歯に沿って滑り口中深く突き刺さった。海兵隊員は罵声を浴びせ、左右の頬を耳元まで切り裂いた。日本兵の下顎を片足で押さえ、もう一度金歯を外そうとする。日本兵の口から血が溢れ、喉にからんでうめき声をあげて、のたうちまわる。私は、「そいつを楽にしてやれよ」と叫んだ。が、返事の代わりに罵声が飛んできただけだった。別の海兵隊員が駆け寄ってきて、敵兵の頭に一発撃ち込み、とどめをさした。最初の海兵隊員は何かつぶやいて、平然と戦利品外しの作業を続けた。
■相棒が「なんてことだ」と叫んだ。私は窪みに目をやり、次の瞬間、激しい嫌悪感と憐憫に襲われて立ちすくんだ。(米兵の)遺体は腐敗が進み、雨風にさらされて黒ずんでいた。それは熱帯では当然のことだ。しかし、このとき目にした遺体は敵の手で切り刻まれていた。一人は首が切られ、頭部が胸に載せられていた。両手も手首から切られて、頭部のそば、顎の近くに置かれている。信じられない遺体の顔を見つめて気がついた。日本兵は遺体の男根を切り離して、口に押し込んでいたのだ。隣の遺体も同様の扱いを受けていた。三人目は全身が切り刻まれ、肉食獣に引き裂かれた死体のような姿になっていた。
■歩兵にとっての戦争はむごたらしい死と恐怖、緊張、疲労、不潔さの連続だ。そんな野蛮な状況で生き延びるために戦っていれば、良識ある人間も信じられないほど残忍な行動がとれるようになる。われわれの敵に対する行動規範は、後方の師団司令部で良しとされるものと雲泥の差があった。生き延びるための戦いは緊張と恐怖のなか、昼も夜も途切れることなく続いていく。(略)非戦闘員や戦闘の周辺にいる者にとっては、戦争とはひたすら退屈なもの、あるいはときに気分の高揚するものにすぎない。しかし、人肉粉砕器に放り込まれた者にとって戦争は恐怖の地獄であり、死傷者が増え、戦いが延々と長引くにつれて、二度とここからは逃れられないという思いが募る。時間は意味を持たない。命は意味を持たない。ペリリュー島という薄皮が朽ち果てて、誰もが野蛮人になる。われわれは、後方にいる人々―非戦闘部隊や民間人―にはまったく理解できない状況に生きていた。
《将兵一同聖寿ノ万歳ヲ三唱皇運ノ弥栄ヲ祈念シ奉ル》
日本軍の戦闘部隊主力がパラオ集団参謀長に最期の打電をしたのは1944年11月24日午前10時30分であった。その電文は次の通りである。
歩二電大一八一号
一 敵ハ二十二日来我主陣地中枢ニ侵入 昨二十三日各陣地ニ於テ戦闘シツツアリ 本二十四日以降特ニ状況切迫陣地保持ハ困難ニ至ル
二 地区隊現有兵力 健在者約五〇名、重傷者七〇名総計約一二〇名 兵器小銃ノミ同弾薬二〇発 手榴弾残数糧秣概ネ二十日ヲ以テ欠乏シツツアリ
三 地区隊は本二十四日以降統一アル戦闘ヲ打切リ残ル健在者約五〇名ヲ以テ遊撃戦闘ニ移行 飽ク迄持久ニ徹シ米奴撃滅ニ邁進セム 重軽傷者中戦闘行動不能ナルモノハ自決セシム 戦闘行動不能者約四〇名(歩行できない重傷者)ハ目下戦闘中ニシテ依然主陣地ノ一部ヲ死守セシム
四 将兵一同聖寿ノ万歳ヲ三唱皇運ノ弥栄ヲ祈念シ奉ル 集団ノ益々発展ヲ祈ル
五 歩二電一七一号中御嘉尚ヲ十一回ト訂正サレ度
防衛庁作成の戦記は、「右の電報発信後、同日十六時ペリリュー隊守備隊は「サクラ、サクラ」を連走し、村井少将、中川地区隊長は夜に入ると共に従容として自決を遂げた」と書いている。「サクラ、サクラ」は送信断絶の通告のことであった。
南方軍総司令官寺内寿一大将は11月29日付でペリリュー守備隊に「感状」を授与し全軍に布告した。感状とは、軍司令官など天皇に直属する独立指揮官が、戦功大の個人または部隊などに与えたもので「上聞に達する(天皇に知らせる)」ことを伴っており軍人にとり最高の名誉であった。大東亜戦争において上聞に達した感状は陸軍486件、海軍59件である。電文第五項の「御嘉尚(ごかしょう)」とは、天皇からの口頭によるお褒めの言葉のことである。
《皇太子誕生日紙面に「ペリリュー皇軍なほ奮戦」》
同時点ではメディアはペリリュー島玉砕と報じていない。同年12月23日の皇太子(現明仁天皇)誕生日の『朝日新聞』は一面トップに「皇太子殿下第十一回の御誕生」記事を、白馬に跨がった写真とともに載せている。記事は「殿下には戦局多端なるとともに御見聞もいよいよ多きを加へさせられ、大東亜戦争の戦況には御関心ことのほか深くあらせられる由に承る」として、諸工場、浦賀船渠造船所、海軍航空隊などを見学したことを報じている。同記事の下には「ペリリュー皇軍なほ奮戦」(21日発「同盟」)の見出し記事がある。
以上は、私が読みとったペリリュー島での1944年秋の戦いである。
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