平野久美子著 『テレサ・テンが見た夢』 筑摩書房
- 2015年 5月 13日
- カルチャー
- 『テレサ・テンが見た夢』平野久美子書評雨宮由希夫
平野久美子著 『テレサ・テンが見た夢』 筑摩書房
発行年月日 2015年4月10日; 定価 ¥1000E
テレサ・テン(鄧麗君)がタイのチェンマイで急死したのは、平成7年(1995)5月8日のことであった。衝撃の急逝から20年。今年2015年は節目の年である。
本書の単行本(便宜上「原書」と呼ぶ)は鄧麗君が亡くなった翌年の1996年5月に、晶文社より刊行された。今回、文庫化あたり大幅に増補改訂されている。原書から20年の歳月が流れている。全くの別の本として読むべきであろうか、迷いながらページを括った。
本書はもともと書名にある通り、テレサ・テンが夢見た夢とは何であったかを探し求めたものである。原書では、逝去後1年に、著者がこれぞテレサの夢と見なしたものと、20年後の今日、考えられるテレサの夢と同じものであるか?
もし彼女が生きていたら、母国台湾や父祖の国中国の変わりようをどのように眺めていただろうか? 著者の問いかけは的確かつ親身で、生涯、二つの中国の間で「祖国」を歌い、問いつづけた鄧麗君の「最後の祈りにも似た“夢”」に迫っている。
著者の平野久美子はテレサとは3歳年上。早くから、テレサに注目し、テレサとの交流もあったノンフィクション作家である。平野は1983年12月、香港コロシアムで開かれた「デビュー15周年コンサートツァー」の生のステージを観、また、1991年5月にはパリでロングインタビューをしている。これらの体験は著者にとって、かけがえのない「若き日の思い出」であろうが、鄧麗君の評伝の書き手として彼女に勝る作家はいない。
よく知っているつもりの“テレサ・テン”ではなく、国境を越えて華人社会に浸している“鄧麗君”を思い知り、香港、台湾、中国の戦後史に、全世界に散らばった華人たちの“尋根”意識(ルーツ探し)を重ね合わせていくことによって、もうひとりの“テレサ・テン”に出逢えるのではないか、と著者が考えるきっかけになったのは香港での15周年記念コンサートであり、これを著者は「鄧麗君の歌手生活の頂点ともいえる記念碑的な公演」と位置付けている。
また、著者がテレサ・テンの日本での活動を、前半期(1973年~1979年)と後半期(1984年~1990年)の2期に分けているのは極めて重要な意味を持つ。前後期の間にはパスポート事件と財閥御曹司との婚約破棄、そして15周年記念コンサートがある。
テレサの初来日は昭和48年(1973)、「日中国交正常化」の一年後の晩秋であり、彼女は20歳であった。
悲願であった紅白歌合戦に初出場して「愛人」を歌ったのは昭和60年(1985)12月で、すでに「後半期」に入っていることをまず読者として押さえたい。
80年代前半の中国は改革開放の扉が開き始めた時期で、「白天聴老鄧、晩上聴小鄧」(「昼間は鄧小平の政治講話を聞き、夜は鄧麗君の歌を聴く」)のジョークが流行している。「何日君再来」をはじめとするテレサの歌声は文革で傷ついた大陸の人びとの心を癒すかのように中国全土に広まった。
昭和61年(1986)、ポップス系演歌歌手として紅白に出場し、「時の流れに身をまかせ」を唄う。そしてテレサがこの後、紅白歌合戦に出場するのは5年後の平成3年(1991)であり、再度、「時の流れに身をまかせ」を唄っている。これが紅白におけるテレサの見納めになろうとは誰が予想しえたであろうか。それとともに、3回目の紅白はすでに「後半期」の範囲外であることに注目すべきであろう。
この2回目と3回目の紅白の中間に位置するのが、平成元年(1889)6月4日の天安門事件である。誇り高いチャイニーズで、父母の祖国である中国の将来に心を痛めていたテレサは大陸で唄う日を心待ちにしていたが、天安門事件がそうしたテレサの夢を無残にも打ち砕く。
天安門事件に先立つ5月27日、テレサは香港のハッピーヴァレー競技場における天安門の学生を支援するチャリティーコンサートに参加。自らの胸に自分で「反対軍管」「我愛民主」と書いた色紙を掲げ、「我的家在山的那一邊」(わたしの家は山の向こう)を唄うテレサ・テンの姿に、日本人が驚いた。
天安門事件が起き、台湾の民主化が加速して、台湾海峡の危機が叫ばれ、香港の返還がカウントダウンされるという政治的現実の厳しさの渦中に身を晒したテレサは華人社会における偉大な存在ゆえに単に歌手として生きることは許されなかったし、テレサもそのことは十分認識していたと思われる。
天安門事件によってテレサが思い知ったことは、共産党支配下の中国とは民主主義を戦車の力で踏みにじり、「最高指導者」が通常の学生運動を「動乱」ときめつけて恬として恥じない国であるということであり、その後も(そして、テレサがすでにこの世にいない今日にいたるまで)、中国は天安門の武力弾圧を正当化し続け、事件そのものを改めて見直そうとする気配すら見せなかった。このことにテレサがどれほど悲しみ傷つき絶望したことか、想像するに難くない。
天安門事件の勃発した年の11月、テレサ・テンは大好きな香港を離れ、天安門事件で亡命した活動家を多く受け入れたフランスのパリへ移住している。
「民主化されていない今の中国には帰りたくない」と静かな語り口ながらもきっぱり言い切った鄧麗君の真摯な表情を、今も忘れることができないと著者は語り、「彼女の夢を打ち砕き、歌うことへの意欲まで奪い去ってしまったのが天安門事件であり、彼女の“夢”であった民主的な“祖国”の喪失は、そのまま、彼女自身の歌手人生の喪失につながっていった」としている。
「わたしは世界のどこにいてもチャイニーズ」といい、「わたしは国際難民。わたしには帰るところがないの」とも言っていたテレサ。父祖の国と陸続きで中国との淡い一体感のようなものが感じ取れる香港も、外省人二世として生まれ育ち現に家族が住んでいる台湾も、彼女にとってはあくまでも仮の住まいにすぎなかったのである。
二つの祖国の間で揺れ続けたテレサ・テン。著者は「彼女が思い描いていた祖国は、共産党政権が倒れて後、何らかの方法で統一された中国を意味していたようだ。そこには民主主義があり、平和な暮らしがある。そんな日が来ることを彼女は夢見ていた」と断じている。
中国、台湾、日本をとりまく国際環境はこの20年に大きく様変わりした。著者の表現を借りれば、「時代が動いた」。テレサが「父祖の国」と意識していた中国は世界第二の経済大国となり、万博やオリンピックを開催したが、共産党による一党独裁は相変わらずで、社会や政治の民主化は進んでいない。仮に北京五輪の開会式に招請されたら、果たしてテレサは歌ったであろうか。中国大陸の経済に完全に呑み込まれてしまった香港では、「京人治港」がじわじわと進み、1国2制度が形骸化し、香港社会には喪失感がみなぎっている。「中華文化の正統的継承者」としての自負と品格を持ちながら、国際社会から国家の扱いを受けられない中華民国(台湾)では、民主化とともに台湾人意識が浸透している。もしも今も生きているとしたら、テレサは「台湾生まれのチャイニーズ」ではなく「私はタイワニーズ」というであろうか。
日本でよく知られた台湾出身の歌手テレサ・テンを、華人社会のスター“鄧麗君”に置き直して評伝を書いたのは、日本の近隣諸国の近現代史がその人生に投影されていると思うから、とするのが執筆の動機であり、平成生まれの若者たちに、華人社会に興味を持ってほしい、鄧麗君という歌手の、日本ではあまり知られていなかった魅力、その感情生活を知ってほしいとの著者のメッセージは読者に大いに伝わってくる。
蛇足ながら、1985年5月、台北のタクシーの運転手が流す「淡淡幽情」を聴いて、“テレサ・テン”ではなく“鄧麗君”という歌手を知ったのが、私にとってのテレサ・テン(鄧麗君)との出会いであった。日本語の歌詞と歌い方では味わえないある種の名状しがたい中国的な官能とノスタルジアのような情感世界を堪能した。
「アジアの歌姫」としてゆるぎないスターの座を保ちつつ一生をまっとうできたはずのテレサがなぜその人生の最期にみずから放棄するかのような生きざまをしたのかということが私にとっての疑問であったが、著者の導きでほぼ了解できた。
鄧麗君を知ることにより、彼女が関わった華人社会、近隣諸国がみえてくる。鄧麗君理解において日本は異端であることを知った著者は、日本よ、アジアの孤児になってはいけない、とのメッセージをも発信している。20代の頃より、アジアの社会と歴史を追いかけてきた著者・平野久美子による本書は未来に向けた日本のあるべき姿の一端をも示した好著である。
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