映画『ルンタ』について
- 2015年 5月 18日
- カルチャー
- 映画『ルンタ』阿部治平
―八ヶ岳山麓から(145)―
『ルンタ』という亡命チベット人を描いたドキュメンタリー映画を見る機会があった。「ルンタ」はチベット語で「風の馬」という意味である。手のひらサイズの粗末な紙のカードに馬や仏典、仏像が印刷してあって、チベット人はこれを山の頂上や峠などでばらまいて幸運を祈るのである。
もともと私は芸術的価値というものがわからない人間である。映画は「寅さん」どまり、小説は「坊ちゃん」「宝島」までである。息子は、監督の池谷薫という人は優れた映画人で、氏の「延安の娘」はよい映画だったといった。私は氏の『蟻の兵隊』(新潮社)という本は読んだことがあるが、その映画は全然知らなかった。
以前からヒマラヤを越えてインド・ネパール方面に亡命したチベット人社会のありかたに強い関心があったから、重い腰を上げて東京へ出かけた。というのは、チベット人居留地では亡命チベット人のうち高僧は比較的豊かで、一般僧侶がこれに次ぎ、俗人はその下、現地インド人が最貧だ。デカン高原南部のチベット人社会にはインド人を小作にした地主もいると聞いていたからである。
事前に渡されたリーフレットによれば、池谷氏は、チベットでの焼身自殺による中国政府への抗議が2015年3月までにすでに141人に及んでいること、またそれが「利他」や「慈悲」を尊ぶチベット人の高潔さから出ているものであることなどを世界に訴えたかったらしい。
見終わった印象をひとくちでいえば、映画はいたましくも美しいものだった。だが亡命チベット人の生活に気をとられていたものだから、私には少しもの足りなさが残った。同映画のオフィシャルサイトの「いいね!」ボタンを押した人が758人もいるところを見ると(本稿執筆時)、大勢の人に感動を与えているのに違いない。
テーマはチベット人の焼身自殺である。映画前半の舞台はインド・ヒマチャルプラデシュ州ダラムサラである。話はチベット人支援をしている中原一博という人を中心に展開する。
前半は、焼身自殺をした人を追悼し、その理由を我々に伝えようとするものであった。彼らの主張はおもにはダライ・ラマのチベット帰還要求、中国政府の民族と宗教に対する圧政への抗議である。もちろん自殺にいたる経過も主張も人によって少しずつ違う。共通するのは「人々の幸せを祈って死んでいきます」ということばだ。またすべてが政治的ではないが、その行為そのものが強烈な政治的メッセージである。
自殺した人の写真がずらりと並ぶ画面がある。足に障害を持つ僧侶は手だけでヒマラヤを越えてインドに亡命した。そして焼身自殺したのだ。燃え上がるほのおに包まれた青年男女の映像を見ると、仏教でいう「捨身飼虎」いう言葉がチベット人社会に生きていることをあらためて感じる。
画面には、インドで生きるチベット人も出てきた。なかでも20数年という長年の投獄にも屈服しない老僧。さらに2008年3月14日のチベット人地域一斉蜂起のあと、外国人ジャーナリストの前で中国政府の仏教と民族の抑圧を必死で訴えた、甘粛省夏河ラブラン大僧院の、あの少年僧がダラムサラで生きていることがわかった。
後半は中国チベット人地域、私が数年前まで働いていた懐かしいアムドの牧野であった。画面は、甘粛省南部のマチ(瑪曲)の町やラブラン大僧院など、僧俗のチベット人男女が焼身自殺をした場所をめぐる。競馬や食料品市場など至るところに武装警察がいる場面がある。とくに3月はダライ・ラマのインド亡命記念日もあり、2008年の蜂起(チベット人地域では三一四といった)もあったから、いまでも県庁所在地には警察・武警・解放軍が厳戒態勢を敷く。思えば悲しい光景である。
ここにも中原氏の姿があった。これには驚いた。中国当局が彼の正体を承知であえてチベット人地域に入れたのか、警戒の網の目をくぐることができたのか。
ところが中原氏と牧民青年との対話がなにかちぐはぐである。チベット人地域にはラサ・シガツェ方面とアムドとカムの三つの地方があり、それぞれの方言はほとんど通じない。中原氏はダラムサラのチベット語だから、通訳を通したので画面の会話はとんちんかんになったのであろう。
困ったのは、映画を見ているうちに、テーマが中原一博氏の業績や生き方の紹介なのか、それともチベット人の焼身自殺の実態とその背景を訴えるものなのかわからなくなったことだ。中原氏の広島呉市の実家が出てくる。氏が建てたチベット人のための学校、縫製工場が出てくる。アムドでは中原氏が牧畜についてちょっと事実と違ったことをいうが、さらに山に向かって「チベットに勝利を」と叫ぶ姿が出てくる。
あえていえば、ここに中国政府を代表する人物が画面に登場して、「チベット人の焼身自殺はなぜ悪いか」とか、「ダライ・ラマはなぜ悪党か」とか、「高度自治要求はなぜ中国を分裂させるものであるか」といったことを語ったら、映画はまた別な展開をしたかもしれない。
さて、映画を見てからタクブンジャ(1966~)というチベット人作家の小説集『ハバ犬を育てる話』(東京外国語大学出版会2015)を読む機会があった。原作者は中国青海省海南蔵族自治州の中学(日本の中・高校)教師。訳者はいずれもチベット専門家の海老原志穂・大川謙作・星泉・三浦順子の4氏である。
ここには9篇がおさめられているが、書名になった作品「ハバ犬を育てる話」は、狆に似た「ハバ犬種」の小型愛玩犬が人語をしゃべり、下級の役所に勤める主人の地位を踏み台にして周囲の人に取り入り、ついには県長のお気に入りにのし上がる。その間の権力をめぐる人と人の関係が哀れにも滑稽に描かれる。
中編「村長」は、チベット人村の良心的な村長が水路修理のために、上級の郷政府と借金の交渉をする話を軸にしている。村長は苦心惨憺、ようやく面会できた漢人郷長に陳情書を提出する。ところがチベット語の陳情書を見た郷長は色をなして怒る。村長はあらためて漢訳の陳情書を提出しなければならない。
民族自治地域では公文書は少数民族語でもよいはずであるが、そんなものはとうに反故になったのだ。このように、小説集『ハバ犬を育てる話』にはチベット人のやられっぱなしの状態がひとりごとのように描かれている。
ここには2008年の抵抗運動も、「信仰の自由を!」と叫ぶ場面もないが、あと一皮むけば、これが焼身自殺の背景にあることがわかる。『ルンタ』はせっかくのドキュメンタリー映画だから、そこまで分け入ってほしかったと思うが、これはむりな願いか。
チベット人も、新疆のチュルク系民族も、内モンゴル人も独立・自治などの自決権がある。だが現実にはチベット人の運命は中国政府と亡命政府の交渉でしか決められない。ところが現在の「中華民族主義」の盛んなありさまでは、チベット人地域の閉塞状況は長くつづき、交渉までは程遠いとみなければならない。
南北アメリカ・オーストラリア・北海道などの先住民族の運命からすれば、せっかく民族自決の機会をかちとったとしても、その文化と言語を維持する社会がなくなっていればどうにもならない。チベット人は自殺するほどの決意があるならば現状に耐えてほしい。その魂がどのように尊いとしても、いま焼身自殺をするなといいたい。シャカもダライ・ラマも自殺を禁じている。むしろ生きぬいて文化と言語とを守るために努力するほうが仏教と民族のためになると思うのである。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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