異論なマルクス 資本の外部性、部分性、特異性
- 2015年 5月 24日
- スタディルーム
- ブルマン!だよね
資本論の「資本」
資本論初版序文に当たってみると、マルクスは自分の考察の対象を物理学の実験室的な環境に準えて、それが典型的に発展しているイギリス社会に定めている上に、そうしたイギリス社会の純粋な資本主義の発展がドイツなどの後進国の近未来の姿で、それは鉄の必然性、自然法則だとしている。何でそういうことが言えるのかというと、第1巻で資本の内的な価値構成を生きた労働の対象化部分である可変資本と剰余価値部分、死んだ労働で価値の大きさを変えない生産手段からなる不変資本部分というように、規定していてそれに基づいて資本主義的蓄積の一般法則を締めくくりとして説いていた。そこでは固定資本の資本蓄積に対する制約も顧慮されることなく、絶えず資本構成の高度化が蓄積に伴って進行するとしていて、その結果として労働者階級の過剰と絶対的窮乏化が現出、資本家が今度は労働者に収奪されて資本主義の終末が訪れると予言していたのは周知の通り。このように資本を固定資本の制約や使用価値的な特異性などを無視して規定していれば、世界中どこにおいても同じ運命を資本主義はたどることになるから、確かに鉄の必然性をもって貫徹する自然法則となるわけだ。
資本を絶えず価値増殖を追求する価値の自己増殖運動体というようにおさえるというのは一面鋭い把握であることは言うまでもないが、それだけに留まってしまうと、世界中どこにあっても資本は同質で同一の自己破壊的運命をたどるのだという帰結になってしまうのだが、それが決定的に間違っていたことはその後の歴史が直截に物語っている。そのなかにあっても頑迷なカウツキーのような教条主義者は、現実は表皮的にして一過的なもので歴史の本質、最終帰結は資本論の説く通りの労働者階級の絶対的窮乏化とプロレタリアート革命にあると独善的に主張し続けたが、現実の方はそんな呑気な想定を遥かに通り越して、帝国主義国家間の総力戦。第1次世界大戦へと雪崩れ込んで行く。マルクスの故国であるドイツの社会民主党の理論的バックグラウンドであるマルクス=エンゲルス主義は決定的に権威を喪失し、史上初の社会主義革命を成し遂げたロシア社会民主党多数派=ボルシェビキ流のマルクス=レーニン主義が圧倒的な支持を世界的に獲得することとなる。
資本主義の帝国主義などという時代、その先進国間の非妥協的な対立、後進資本主義国ロシアにおける社会主義革命の成功、歴史とはかくもダイナミックで、毎日図書館に通っての執筆に半生を捧げた程度のちっぽけな人間の頭の想像をまったく寄せ付けぬ酷薄な道程をたどるものだ。
資本の時空間的多様性と特異性
どうして資本主義はかくも地域的にも時間的にもそれぞれの特異性をもって発展するのか、そのことを理論的にどう把握すべきなのか、それを少し考えてみようというのが本稿のテーマ。
資本の一般的定式G-W-G’は貨幣を流通に投じて商品を購入しそれをより高く販売して差額を利得する形式と取りあえず押さえておこうか。約めて言えば「安く買って高く売る」形式なのだが、ある地点で購入した商品をその場で直ちにより高く販売するというのは、一般的には極めて困難で、そんなことが出来るのなら最初の商品所有者は、より高い価格で自ら販売するだろう。「安く買って高く売る」が可能なのは色々あって、この商品購入者、そうそう商人資本家としておきましょう、が、より高く売れる場所を排他的に知っている、最初の商品所有者が何らかの事情で商品を多少安くてもいいからお金に変えたい、商人資本家の活動で、その商品の使用価値をうまく訴求出来て、それがない場合よりもより大きな需要を引き出してより高く売るなどなど。この様に考えてみると、商人資本も利潤獲得も無暗矢鱈に無根拠に行われるわけではなくてそこに一種の生産活動が介在しているのである。が、いずれにしても、売買差額を獲得するところに、資本の活動性の原像ともいうべきものがあるのであって、その売買活動の過程にいわゆる生産過程を包含する産業資本形式の資本にあってもその原像を内蔵していることは言うまでもない。
である限り、資本から見ると何故その流通運動過程に生産過程を包含するに至るのかというと、資本論の説くように、G-W-G’の価値増殖形式が流通の等価交換の法則と両立しないから、生産過程で価値増殖するG-W…P…W’-G’に転化するのだというのでもなく、宇野の同工異曲の転化論の説くところによるのでもなく、鈴木「原理論」の説くがごとき商品世界の全体を内的に産出する形式でもなく、単に生産過程に投入する商品の価格総額と算出生産物の市場価格の差額(固定資本の流通は複数の回転にわたる)を利得出来るからにほかならない。つまりそういうような投入商品の金額と、生産技術、産出物の市場価格の組み合わせで、その差額を利得出来るものが存在するところに資本が投下されるのであって、そのような条件があらゆる生産部門で成立しているかどうかは、資本にとっては外部的に与えられるほかない環境とでもいうべきものなのである。
しかもこのような条件の分布もまた商品世界全体にわたって均質に与えられているのでは当然なく、空間的にも時間的にも不均等で分裂した様相を呈するのであり、かつまたそれを受け止める主体である資本自身の視界も個別の資本それぞれに別様に現れるものと見るべきだろう。そもそも投下できる資本額それ自体も個別資本ごとにまったく異なった大きさで前提的に与えられているのである。
それゆえ、ある特定の時空間をとった場合、その内部に生息する資本が特定のいくつかの生産部面を捉えるとしても、依然として流通過程に留まる資本も当然傍らに併存することとなるだろうし、商品世界の時空間をつうじて観察してみれば、そこに様々な多様な資本の存立様式が流通過程にある資本との連関様式を含めて見出されることとなる。
そこでは、今触れた個別資本の規模の制約を突破する形式として、様々な共同出資の形態も利得が期待できるかぎりにおいて出来してくる。何も個人資本家の出資範囲に限界をそのまま画する必然性もない。宇野弘蔵には何かこの辺おかしな思い込みがあるようで、資本とはあくまで個人資本家によるものがその間の自由競争含めて「原理」であって、共同出資さらには企業間での何らかの独占体のような組織性は「不純」であるかのように見ているが、それはそもそもの資本の原像に捉え違いがあるからなのである。資本に利潤獲得のために取る手段に原理的に何か制約があるわけではなく、独占体や競争制限のための組織形成や協定締結、果ては国家の政策形成への介入干渉などなど、何でもありではないだろうか。
法則物神崇拝との決別
かつて40年ほど前、大内力が経済セミナーだったかに「マルクス経済学の公準」と題する一文を寄せて物議をかもしたことがあった。「公準」は「公理」にほぼ近い意味で使われ当時は近代経済学で流通するジャーゴンだったので、身内からは「原理論」はそんな論理実証主義とは無縁だ云々、という声が上がったわけ。それはそれとして、大内はそこで、原理論では、綿工業に代表されるようなライトウエイトで個人資本家による経営が想定されていて、そうした個人資本間の無政府的な競争により、利潤率の均等化や商業信用体系、資本主義的生産の総括としての周期的恐慌をつうじての自律的運動が「論証」されるのだ、と説いていた。大内はもちろん当時すでにして重鎮中の重鎮だったのだが、意外とスマートでモダンな知性の持ち主で、こうした整理などでは余人の及ばぬ切れ味を見せていた。この論考でも大内は率直簡明に原理論の漠然とした前提を日の下に曝した意味をもっていて、その通りマルクス経済学では資本主義の法則的解明が絶対的な主題として置かれていることを独白していたのだ。
これまで見て来たような、資本の原像としての多様性・特異性を認めてしまうとそういう利潤率の均等化やら周期的恐慌などが説けなくなってしまうから、それは原理に入れないと言いたいのだろう。それはその通りだが、イギリス綿工業やらドイツ金融資本やら産業化の程度の低い時代の資本主義をモデルにしてそこでの法則やら、典型国のタイプ的解明やらが現代資本主義の分析に一体何の役に立つのやら。大体にして純粋化や生産価格にして定量的な実証など誰一人やったためしのない学派のいうことにまともに耳を傾ける必要はさらさらないだろう。
現代日本資本主義では、資本金で見ての話だが、一億円を境にして大企業と中小企業を分けると、企業数では全体の0.3%が「大企業」残りの99.7%が中小企業ということで、売り上げで行くとさすがに大企業が1/3、中小企業が2/3というというような統計数字をネットでも簡単に確認できる。単純に固定資本の巨大化やら経営の集中やら検証できないだろう。さらに世界に目をやれば、総株価評価でNo.1はあの例の「林檎」という果物の名前の会社で、総時価80兆円という巨額に達しているが、では彼らの固定資本金額はというとファブレスに早くから転じているので、要は事務所ビルと直販店舗位なもので、総時価から見たら微々たるものでしかない。そういう企業が資本主義をリードしているのだからある意味伊藤誠的「逆流仮説」が妥当していなくもないだろう。もちろんその傍らで自動車産業のような巨大製造業も相変わらず大きな比重も占めている。いずれにしても、なにか純粋資本主義やら典型モデルやらで片付かない時代であることは明白であろう。その上に例の金融革命が覆いかぶさっているのである。
実証という検定の網に絶対かからぬような「法則」への物神崇拝の棄却、それがここで見て来た資本の多様性・特異性と認めることの「代償」ではあるが、そうであるなら喜んでそれを支払おうではないか。
2015年5月24日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study641:150524]
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