春が人になった母
- 2015年 5月 27日
- 評論・紹介・意見
- 熊王信之
*今回は、極めて個人的な内容になっております。 ですが、大阪都構想が崩壊した最近の情勢にもなんらかの関連性はある筈と思い、あえて投稿いたします。
都構想が敗れた陰には、こうした個人的な思い出があり、歴史と伝統がそれに重なり下町の人々を動かした、と感じています。
投票日に、ある下町で、反対運動をしていた人々と話した際に、私は、投票権が無いものの反対の旨を述べると、有難うごさいます、と深々と御礼を述べられました。
勿論、大阪市にもお灸をすえる必要もありますが。
私の母は、春がそのまま人になったようであった。
名前からして、春子。 明るく、柔和な顔に微笑みを絶やさず、話しているとついつい此方も笑顔になるような楽しい人であった。
大阪市は、平野の生まれで、生粋の下町育ち。 生家は、戦前から続いた製麺業であったが生活は楽ではなく、それでも二人の弟を差し置いて、地元の小学校から、阿倍野に今でもある大谷学園の高等女学校(戦前の第二大谷高等女学校)へ進み、卒業後は、住友銀行の平野支店を経て本店に勤務した。
因果なことに勤務地近くには、往時、北浜の株屋が多く店舗を構える一角があり、その一角で八九三な商売で一旗揚げるべく躍起となっていた亡父と所帯を持ったことから、夫の商売破綻とともにその両肩に一家の生計を立てる使命が伸し掛かり、ひいてはその一生を短いものにしたのであった。
この夫婦の性格を物語るかのような私の幼児期の出来ごとで、今でも、思い出しては、ついつい大笑いをしてしまう一件がある。 それは、私の幼児期のことであった。
大阪の郊外は、河内の一隅で古びた旧農家を祖父母とともに両親が自宅としていた折のこと。 時代は、昭和20年代であったか。 夕闇が迫る中で、母に訊いたことがある。 「お父ちゃんは、何時、帰って来んの?」と。 すると、母は、にこやかに笑みを浮かべて、こう云ったものであった。 「お父ちゃんは、今日は、帰ってけーへん。 明日も帰ってけーへん。 お父ちゃんは、相場で儲かって、有馬温泉でお友達と一緒に泊ってるから。」
昭和30年代の中頃。 そのお父ちゃんが、一時期、必死になって大阪市内に自宅を構えようとしていたことがある。 家族は、休みの度に、お父ちゃんに連れられて大阪市内に通う破目になり、目ぼしい娯楽の無い時代とて楽しいがしかし迷惑至極であった。 実は、お父ちゃんも大阪市内出身で、市内に帰りたかったらしい。
それはそうだろう。 当時は、河内の田舎から勤め先のある大阪市の北浜まで行くには、路線バスに乗り停留所での駐停車を繰り返しつつ天王寺まで出て、其処から地下鉄に乗り替えて行くしか方法が無かったのだから、時間がかかりしかも満員のバスで立ちっ放しは疲れること間違いなしであった。 残業等をしようものなら自費で何処かに泊るしか方法は無かったのは云うまでも無いことである。
ともあれ、我が家族の大阪市詣での中心地は、母の母校のある阿倍野区であり、母の買い物の利便性を考えて、商店街が身近にある処を物色していたらしいお父ちゃんは、物色地では、街の各店舗を観ながら、何事かを母に尋ねるのが常であった。
お父ちゃん、実は、母に惚れていたのだった。
自宅を買った、とは言え、大阪市から遠い郊外、と云うより、田圃と畑しかない田舎の片隅で、雨が降れば道と云う道は泥濘と化す有様で、都市ガスも水道も下水道も無い生活は不便極まり、都会育ちの母がパーマをあてようにも美容院は無く、その頃、既に平野にはあった今のスーパーのはしりのような商店も当然ながら無く、日用品の一つを買うにも遠路バスに揺られて生家のある平野や百貨店のある阿倍野にまで一日仕事で出掛けねばならず、の惨状で、これでは夫としても都心への回帰には真剣にならざるを得なかったのであろう。
今春になり、その当時の物色地であった大阪市内の各地を何度も訪れる動機になったことがある。 一つには、母の母校(現東大谷高等学校)が阿倍野での使命を終え、堺市に全移転するので、その前に、母の母校をもう一度観たい、と願ったこと。 そして、多くの大阪の下町に住む者に倣い一心寺へ母の遺骨を納骨しようと遅まきながら思い立ち、納骨の前に昔の楽しい思い出がある場所を再訪したい、と願ったこと、である。
大谷学園へは、昭和30年代の始め頃に、何度か、母に連れられて訪れたことがある。 学園は上町台地の高台にあり、歴史と伝統のある学び舎は、今も健在である。
昭和の時代の面影は消え失せ、高層の「はるかす」が聳え立ち、再開発ビルが立ち並ぶ阿倍野から阪堺線のチンチン電車に揺られて南下し、松虫の停留所で下りる。 高台を目指す経路は、色々とあり、母が使っていた私的通学路は、可也、学園の通学指定路とは違いがあった。 出来るだけ車と交差することの無いような細道を歩くのが母のコンセプトであったらしい。 其処を歩くと、昭和30年代に戻り、母の声が聞こえる。 「そっち違うよ、こっち、こっち。」と。
最初の再訪では、五十数年後のことで、記憶が定かではないために道順を間違えてしまい、何と元来た道の阿倍野筋に戻る始末で辺りも構わずに笑ってしまった。 大阪大空襲にも拘わらずに戦火を免れた辺りは戦前のままの小道が多くて迷うらしい。
学園の周囲は、時間が昭和のまま止まったようで、一部の建て替え住家を除き、五十年以上経過した時が嘘のようであった。 母とともにうどんを食べたお店もそのままあったものの、営業はしていなかったので寂しいが、本屋さんは、昭和のそのままあった。 お好み焼き屋さんは、その昔に営業が止まったままで、理由も謎のまま。
当時、母が私と妹を連れて学園を訪問した理由は何だったか。 五十数年後に尋ねようにも尋ねるべき人はいないのに気にかかる。 母の親友が教師をしていたため休暇を取れないので母一人で退職される恩師に有志からの餞別を届けるため(母から聞いたように思えるのでこれが尤も有力)か、或いはクラス会か何かの連絡等の所要なのだろう。 兎も角も、学園を訪れた折、私と妹にお好み焼きをごちそうしようと連れて来たものの閉店している店を見て嘆いた母の声がするようであった。 「あら~。 閉まってるわ。」と。 それで終わりになるのが母の流儀。 すぐさま代わりにうどん屋さんへ行ったものだ。
流石に実家が製麺業。 我が家では、うどんが好きな母のことですき焼きにも、どんどんうどんを入れ肉の代わりに食べた。 それで牛肉を買うのは少量で済むし経済的なことは云うまでも無かった。 ただ反発した私は、一時期、うどんを全く食べなかったことがある。 でもそんなことは無視されるのが常であったのが我が家。 第一、母の料理に文句をつけようものなら、お父ちゃんの癇癪が炸裂した。 しかも、母は、次々とうどんの調理手法を駆使したものだから、辛抱堪らず食べたものであった。 母の実家のうどんは、近隣では有名なほど美味しかったし。
確かに、母が作ってくれたものは、何でも最高に美味しかった。 ずっと幼児期に、夕方近く空腹になった私と妹が、何か欲しい、と強請った際に、母は、「おにぎりを作ろか?」と、竈で炊き上げたばかりの白米で、両手を赤くしながらおにぎりを作ってくれた。 薄塩味で左右の手で交差に持ち替えないと熱いおにぎりを、ふうふう言いながら食べた記憶は絶対に薄れることが無い。
電気釜等が無い時代、我が家には、ガスレンジもガス自体も無かった。 河内の田舎では、米は、藁に火をつけて薪で炊くしか方法が無かったのである。
薪がLPガスに代わるまで、夕食の支度時の竈に火をつけるのは、私の役目であった。 藁や新聞紙に火をつけて火種とし、薪を入れて火を起こす。 段取り良く火がつけば、母が褒めてくれた。 満面の笑みを浮かべて、「うまいね~。 お母ちゃんは助かるわ~。」と喜ぶ母の笑顔を見るのが楽しみであった。
大谷学園のある高台から降り、阿倍野筋を東に渡ると、松虫の商店街がある。 この商店街も健在で、知る人ぞ知る煎餅屋さんでは、浪速言葉を連ねた煎餅を今も売る。 店構えもそのままで、年輪が消えている。 時間とは、ある場所では、止まるものらしい。 お父ちゃんが、広告を眺めながら売値の高さに舌打ちした不動産屋さんもそのまま。
その昔には、一軒一軒のお店を物色しながら歩いたものだ。 此処にはお風呂屋さんがあり、向うには、お鮨屋さんがある。 でも、「お母ちゃん、向うにお鮨屋さんがあるよ。」と云っても、低価格の鮨チェーン店は無い時代のこと。 売値の高そうなお店は無視するのが母で、「へ~。 ほんまやね。」と言いながら遠ざかったものだ。
幼児の折に、そんな敷居の高い鮨屋さんへ一度だけ母に連れられて行ったことがある。 30分も歩く距離の隣町にある老舗の鮨屋さんであったが、お父ちゃんから母に経営を任された小さいアパートの棟上げのお祝い膳を調達するのが目的で、鮨は、大工の棟梁や職人さん向けのものであって、私等が口にするものでは無かった。 ただし、母は、この小さいアパートの経営で私を始め三人の子供を育て上げたのに止まらず、長女から孫を引取り養育し大学まで卒業させ、お父ちゃんの失敗した商売の尻拭いまで済ませた。
更に、この当時の私のお鮨屋さんへ行きたい、との願望を憶えていた母は、余裕が出来た後年になり、私一人を阿倍野にある鮨屋に連れて行き、本物の鮨職人による握り鮨をごちそうしてくれた。 その折の気品のある母の振舞いは忘れることが無い。 聞けば、大谷では、そうした作法も教えていたそうであった。
大谷学園のある一角から学園の西壁を右手に観て北上し、市の墓地を越え、頭上を高速道路(阪神高速)が通る幹線道路を横切り、上町台地の下、左手に、あの飛田新地を観ながら歩くと新開筋商店街出入口に突き当たる。 其処からは、萩の茶屋駅前からの商店街と合流してJR動物園前駅近くの山王商店街出入口までアーケードのある昭和の商店街が続く。 この商店街では、昼でも一杯飲み屋は営業中で、当時から仕事にあぶれた労務者が集まり飲んでいたものであるし、景気が悪くなった今でも賑やかで騒々しい。お上品な人士は嫌うが、下町育ちの母は、好きな商店街であったらしい。 何より、母の第一選択条件である価格の安さがあるから。
因みに、通天閣のある通りには、当時から何度も家族で通い、てっちり(フグのちり鍋)を食した。 今のように串カツ屋が密集してはいない時代である。 大阪の下町に住まう人々には、北や南の繁華街は、縁遠いものであった。 心斎橋や難波、それに梅田の繁華街で買い物等はするものでは無かったのである。
南海天下茶屋駅前から東を向いて歩くと天下茶屋の聖天さんに突き当たる短い商店街も、勿論のことに家族で歩いたものである。 阪堺線の線路を渡る際には、さほど注意喚起をしない母が、商店街のアーケードが切れ、広い道路に差し掛かると、お父ちゃんに注意をしていたのが思い出される。 お父ちゃんは、相当に気短かで短慮。 或る夜に帰宅してワインと間違え醤油を飲んだ程なので、道路に飛び出て轢かれるのを案じたのであろう。
それにしても母はどうして知ったのか、商店街の事情にも通じていて、此処はご夫婦二人が借りている、此処は地主さんが一人きり、等と詳しかった。 私がその理由を訊くと、不動産屋の娘さんが母の友人で調査情報元であった。 これでは、お父ちゃんが簡単に母の同意を得られる筈も無く、大阪市内に我が家を構える道程は遠いと思えた。
ところが、母が「此処、ええね。」と云いそうな絶好の場所が現れた。
阪堺線(上町線)東天下茶屋停留所から直ぐ東に阿倍野筋に向って安倍晴明神社と阿倍王子神社とが並んでいるが、その道路の東側にある王子商店街近辺が良いと我が家族(少なくともお父ちゃんと私)には思われたのである。
その商店街を今歩くと、往時から何の変化も無いように思えた。 ただ、お店には多少の入れ替わりはあるのだろう。 母の喜びそうな当時の平野には既にあったスーパーのはしりに似たお店は、今もあり(現店名はラピスあべの)、お店の北側にあった空き地もそのままであった。 商店街は、その空き地から更に、南側へ延々と続き、反物を売るお店で終る。 往時は、此処で、「あら、これ安いわ。」と母が喜び、物色に時間が経過したが、お父ちゃんは、それを眺めていらいらするものの制止は出来なかった。 商店街の外には、お洒落なカフェーがあり、当時、母は喜んだ。 それに美容院もあったし。
ところで、残念なことに、我が家が大阪市へ引っ越すことは金輪際無かった。 お父ちゃんの商売が破綻したのである。
後年になり、私達子供は知らなかったものの、我が家では大阪市内に居宅を購入していたことが分かった。 流石、お父ちゃん、電光石火の早業で、母の同意を得て天王寺のターミナル近くに家を買っていたのである。 でも、程無く売却したらしい。 場所は、阿倍野区の松崎町。 何故分かったのか。 母が、ある時に、非常に珍しく、家計簿を前に哀しげに呟くのを聞いたのであった。 「松崎町の家も売ってしもたし。」と。
母の渋面と嘆きを見聞きしたことで、我が家の経済的苦境を悟った私は、相当に動揺したが、母に訊いても何も言ってくれないのが分かっている私は、聞こえないかのように装った。 それに気づいたのか、母は、笑顔になり「お味噌汁の具があれへんから、小川でセリを取って来て。」と依頼された。 母が集金したアパートの家賃が、全て、何かの返済に消えていた時代である。
春の或る日、天気予報では、この日曜日がお花見の最後になるらしい、と聴いて、大谷学園の桜を観たい、と思い立ち、またまた阪堺線に乗り松虫の停留所で降り立った。
あの時、此処も彼処も桜が満開であった。 何にも増して桜の花が好きな母は、一日中、にこにこしていたが、大谷学園の学舎を前にした桜の木には、事の他に思い入れがあるようで遠くを観るような眼差しで眺めていた。
停留所から「何べん来ても、五十年前には戻らへんで。」と呟きながら高台に上がる。
大谷学園の学舎のある敷地と運動場のある敷地の間には、周辺の道路より若干広い道があり、東西両側の敷地に植えられた桜の木が大きく育ち、その道の上空を覆うようにアーケードを作っている。 見上げると、満開の桜のために青空が見えず、一面が桜色である。 その満開の桜の梢の間に、お下げ髪で古風な大谷のセーラー服を着た母、春子の少女姿を見た。
(平成27年5月23日記)
追記
我が家にとって、お父ちゃんの商売破綻は、家族のそれぞれの人生に重い影響があった。 此処に記した昭和30年代の思い出も、私の記憶に蓋がされたまま時間が経過していたように思う。 明と暗を対比して、現実を更に惨めにすることを無意識に避けて来たのであろう。
短気ではあったが愛すべきお父ちゃん。 株屋一筋であったお父ちゃんが馴れない会社の経営に手を出した結果は、言い知れない残酷な結果になり、その後は、一切、北浜と関わること無く一生を終えた。
でも、お父ちゃんには、何時も母が寄り添っていたから、何も心配は要らなかった。 母は、お父ちゃんの商売破綻後、アパートの家賃だけでは借金返済に足りない折には、生命保険の外交員もした。 成績が可也のものであったので、母が会社を辞める時には、上司が引きとめに我が家にやって来た程であった。
更に、株屋のお父ちゃんには悪いが、証券投資も母の手法が一理あり、バブル崩壊時にも、僅かばかりではあったが、一足先に現金化しアパートの補修に使った。
もともと、お父ちゃんは、一匹狼で、それで良し、とすべきであった。 加えて、一匹狼にも良妻賢母がついていたのだから、その意見を尊ぶべきであった。 お父ちゃん、今居たら、「分かっとる!」と怒るだろうな。
今、あの昔に戻り、父母に会えれば、こう言いたい。 「お母ちゃん、大好きやで。 お父ちゃんも、その次に、大好きやで。」
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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