「マルクスをどうするのか」の問い(1)明日の事を…(2)輪廻転生、因果応報(3)リンクを考える
- 2015年 5月 31日
- 交流の広場
- 武田明
1時間30分ならアクション映画一本観られる。
3時間なら大作映画。
5時間なら『1900年』。
サブリミナルCM文化、1分、30秒文化から垂れ流しのTVドラマ、大河ドラマに囲まれながら視覚文化批判、演劇断層批判。
「コミック雑誌なんかいらない」(多数ヒットしますが、今回は、2012年版5分16秒)
https://www.youtube.com/watch?v=kh3Onq4dOUE&spfreload=10
(1)明日の事を…
http://kotowaza-allguide.com/a/asunokotooni.html
近未来SFヴィジョンを語る事を許されないから社会主義が語れない。対置する資本主義的未来像とサイバーパンクの行き詰まり。
(2)輪廻転生、因果応報…。
東洋思想からニーチェ「永劫回帰」まで。(永遠に続くプレートについて)
「マルクスをどうするのか」の問いとは、多重の意味を持つ。しかし、最大の興味として、主題化された3時間(2015年5月30日土曜日14時~17時の同時代性としての地平一断層断面)
「格差」をどうするのか?「貧困=人間」をどうするのか?「アカデミズム=テキスト」をどうするのか
今回は、「アカデミズム=テキスト」をどうするのか?が主題化されていたように思える。
「宇野広蔵=岩田弘」をどうするのか?まず、何が、テキスト化されていたのかそれを具体的に説いていこうとする断層。
「資本主義を考えるなら近代経済学を交えて考えるべきであるし、池上彰の「経済学教室」では実際にそうしていた(公共性のテキストとしての意義、広がりを維持している)」
「近代経済学は、対象として面白くなく不満があるから「経済学批判」なのだ」
「株式資本は不純化であるからそこには到達されない」
「純化ネオ純化とは、資本主義そのものとはと言うイデア論を問う事でしかないのではないか」
安保法制は枝葉でなく憲法破壊を徹底糾弾すべし
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-7e26.html
朝まで生テレビ「沖縄基地問題」
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/contents/theme/0061/
現代帝国主義問題が、時事的にも山積する事を歴史的問題から現在進行へ
それを、前回、「天皇財閥」「私物国家」問題としても際立たせて置いたわけですが、
憲法問題を考える上でも「枝葉ではなく」「憲法破壊」と言う柱がなにが何であるのかへ迫るべきであるの問いに賛成せざる負えないのだ。
民主党辻本氏が、安倍晋三首相との論戦にならない現代ソフィスト=ファシズム論戦に戦略的手をこまねいているのは、実際は、
「社会主義協会=宇野広蔵=マルクス経済学」と言う柱を喪失している事をも埋めなくてはならないその会合、
「マルクスをどうするのか」その為の第一会合としても決して、その3時間は、意味を持たないわけではなかったと感じていました。
僕は、敢えて、鬼が笑う、近未来SFを視覚化したい。
『目に見える経済学』としてのテキスト化可能性であり、具体的に問う事が、『ちきゅう座読本』の可能性である。
まずは、それぞれのホームページとリンクの可能性は、「ちきゅう座総会」以来の問題提起でもあるので、
0円商品として、閲覧可能なしかし、「一対多」
人が、一度に、10人の話を聴くことは出来ない。
それは、聖徳太子となる事であり、聖人となる事でしかないその無理難題をネットは、凡人に突きつけている事の問題点を考察しなくてはならない時なのだ。
人の一生は短い。
短い中での研究対象は、何を捨象すべきかの「捨てる技術」=「整理術」となってしまっているわけだ。
宇野広蔵、岩田弘、吉本隆明のテキストの内部に入り込まなくてはならない。
『知の巨人』をとても凡人たる、精々秀才止まりの日本的階層社会で息づくのであるから越え出られないだろうと言うのが、最初の資本主義の奴隷としての道であり、フーコー「監獄の誕生」なのだ。
http://revolutio.exblog.jp/21748785/
僕の考える共産主義社会は、「人間の解放」であり、「誰でもモーツアルトになれる。ましてやマルクスや古賀茂明おいておや」と言う事を明確にしたが為に、連続投稿している。
テキストの内外性を明らかにしなくてはならない。
それが、植草一秀氏の述べる
「安保法制は枝葉でなく憲法破壊を徹底糾弾すべし」の現在進行形たる帝国主義時事へと迫る演繹的帰納法的「そのつど、マルクスに戻りながら、唯物弁証法的具体的現実へと向かい合う」自然哲学的方法論と現状分析の対話である。
「そのつど、現在の問題点、安保法制、辺野古、原発問題に」現代弁証法的唯物論的に向き合う事であるわけでが、
「ミイラ取りがミイラになる」のたとえもあり、宇野広蔵のテキストの中で、終始してしまい、短い人間の一生の中で、学究は、どの様にあるべきかの問題であり、方法論=原理論とは一体、何であるのか?
「そのつど、内外性」としての問いとする、それは、何か?逆説と逆転の論理の中で、再び、弁証法とは何か?唯物論=自然哲学とは何か?
それを、今年一年もまた、来年も連続、不連続的にも、「同時代ゲーム」として問わねばならないわけなのだ。
さて、今回は、最初の0円商品、「ちきゅう座」から、「阿修羅掲示板」までのネットサーフィン=リンクとしての問題提起(ちきゅう座総会提案)について考察を若干して終えておこう。
(3)リンクを考える
変革アソシエ
http://homepage3.nifty.com/associe-for-change/
阿修羅
(阿修羅は玉石混交とならざる負えない。膨大な量の洪水となっても論戦を主とするならこの様になる。論戦は、無視、または、管理人へ通報する?合戦となるかまたは、無視する戦術しかない。自身で、良いコメントや記事を選択するしかない多数決原理、拍手やリツートを競う、ツイッターやニコニコ動画、孫崎享さんの書きっぱなしとされるコメントと同じである。しかし、ニコニコ動画にて「在特会ヘイトスピーチ放送が追放されたとの情報は、良かった。やはり、物事には、限度と言うものがある?限度の基準が永遠と問われ続けている)
佐藤栄佐久元福島県知事「国策捜査に気をつけて!」〈週刊朝日〉
http://www.asyura2.com/15/senkyo185/msg/669.html
(この国策やスノーデン事件など陰謀論の実態は、定かではないが、常に付きまとっている。ちきゅう座集会も学習会も公然と行っているが、マークされているのではないか?そういつも思っていて警戒もしないわけではないが、それでも、ドストエフスキーの『悪霊』善良なステパン氏が、自分の書いているものが、政府からマークされていると考えているが、話者、「私」は、決して、臆する事はないと考えていた事を思い起こす。中国当局が、極度に検閲を行っていると思ったりもするのだが、そうではなかった場合が、あるように。)
衝撃! 貧乏な子どもがいくら勉強しても遊んでる金持ちの子より成績が悪いとの驚愕データが
http://www.asyura2.com/15/hasan97/msg/137.html
<<さらに貧困と格差は子どもたちの学力、そして将来の様々なチャンスさえ奪う
安部を見たら わかるだろう
学力の無い 馬鹿が 総理大臣になるとどうなるか
無法地帯だ
(言いえて妙だったりする)
みずき
「ちきゅう座」の少なくない記事に違和感を持つ ――そのひとつとしての「鳩山発言『…洗脳されている』は正しい指摘である」という記事について
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1209.html
「ちきゅう座」は、まだまだ、過疎であるのだが、落ち着いて、観られる、記事を投稿できたりしている。
しかし、ウクライナ、鳩山元首相の記事は、明らかに、ちきゅう座的には、石ではなく、玉であるのだ。
体制側右派側としての『羅生門』相対性もこの様に、点在していると言う事に他ならないが、
池田信夫氏の様な「資本主義側の広告塔」的地位に甘んじる人もいる事とこれからも「ちきゅう座」は、戦っていかねばならない「連帯」と「同時代言論としての地平」を切り開いていかねばならない使命をどうするかの問題であるのだろう。
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。