周回遅れの読書報告(その11)
- 2010年 12月 23日
- 評論・紹介・意見
- インドの夜脇野町善造記憶の曖昧さ
東京新聞(2010年6月25日夕刊)で辺見庸がタブッキの「インド夜想曲」の映画版を材料にして記憶のいい加減さを巡る興味深いエッセーを書いている。須賀敦子が訳した『インド夜想曲』は私も知っていた。辺見はこの映画版をかつて観たことがあったのかどうか思い出せないとして話を始めるのだが、翻訳された本の方は間違いなく読んだとしている。
私の場合は、この本の方を読んだかどうかの記憶が実に曖昧になっている(映画版のほうは間違いなく見ていない)。しようがないので、もう一度読み返してみた。読み返すといっても160頁ほどの薄い本である。そして須賀の訳文は読みやすい(須賀の翻訳ということで興味を惹かれ、彼女の書いたものは何でも読みたくなって、この本を読んだような記憶がある)。ちょっと時間を工面すればすぐに読み終わる。
読み返し始めてすぐに「この本は読んだことがある」と思った。しかし読み進んでいくうちに、その確信は砂山のように崩れ出し、最後には「どうも読んだことはないかもしれない」というものになり、記憶の曖昧さはなくなるどころか、一層ひどいものになった。
辺見がエッセーの中でタブッキの言葉を紹介している。「記憶はおそるべき贋作者だ」。須賀の訳文では、次の文章がこれに続いている。「その気がなくても時間の汚染は避けられない」。私の経験ではこの汚染は、時間の経過の中で徐々に進んでいくのではなく、ある段階で飛躍的に悪化する。「時」はいつでも若いものに味方するというが(薄田泣菫『茶話』)、同時に時は冷酷非情に若さを奪い去ってもいく。時間に汚染されるのは、決して記憶だけではない。
それにしても『インド夜想曲』は私にとっては不思議な小説である。ヨーロッパから来た「私」が古い友人(ヨーロッパ人)を探して、インドのあちこちを旅するという設定になっている。そして各地で不思議な経験をしながら話が進んで行く。しかし、本当に友人を探していたのかということは最後には曖昧になってしまう。「私」が誰なのかも、である。普通の小説は、どういう結末であれ、鮮明な形で終わるものだが、『インド夜想曲』は逆である。物語が進んでも一向に鮮明にならず、最後は反転してしまう。いつもは明快な須賀敦子の解説もいま一つすっきりしない。
小説のこうした構成が読んだ記憶を曖昧にしてしまうのだろうか。それとも、自分にとって都合の悪いことは記憶から消してしまうか、消し得なかった場合は、それを別のものにすり替えてしまうのか。そういうことがあるのだろうか。そうだとしたら、『インド夜想曲』を読んだことがあるという偽の記憶は、どう理解したらいいのであろうか
小説は記憶に残るものか、そうでないものかの二つしかないとばかり思っていた。『インド夜想曲』はどちらでもないということなのか。この本でのインドの夜は寝苦しさで充満している。この本を再読した(いや、「再読」になるのかどうかは、読み終えたあとも定かではない)日本の夜も、梅雨の鬱陶しい夜であった。その環境が影響しているのか。
アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(須賀敦子訳、白水社、1993年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion260:101223〕
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