Revolution Will Be Televised
- 2015年 6月 18日
- 評論・紹介・意見
- 熊王信之
私の敬愛する醍醐聰東京大学名誉教授のご投稿「テレビは革命を伝えないだろう」に引用されておられるブログに付されたコメント中の引用「『Revolution Will Not Be Televised』(革命はテレビ中継されないだろう)」に関わって、不思議な感慨が湧くのを感じました。 私のみではなくて、多くの同時代人も同様であろうと、思われます。
或は、当該コメント主は、あの時代、「社会主義」の金科玉条を掲げた東欧諸国が、民衆の民主主義を求めるうねりの前に連鎖反応的に敢え無く潰えた一部始終を、まるで実況中継を見るようにテレビの画面で見た経験が無い若者なのか。 それとも、東西ドイツを隔てる壁の前に、テレビ中継を見た両ドイツの民衆が続々と集結し、悪名高きシュタージや国境警備隊の銃口を恐れず、東西ドイツを隔てた壁を一挙に崩し、その後世界の政治家も東西ドイツの政治家も予想出来得ない程に、瞬く間に東西ドイツ統一を成し遂げる快挙をテレビ画面で見た経験が無い人なのでしょうか。
尤も、それらは、日本国外の出来事であり、それらの第一次報道も国外報道機関に依るものでありました。 確かに、日本に於いては、聊か事情が異なるものがあります。 そして私の関心は、日本の報道に関わる疑義にあります。 現政治課題や、原発等のエネルギー問題等に関わる報道は、世界の民主主義諸国における報道とは、聊か、次元が異なるのが事実でしょう。 一言で言えば、「大本営発表」の体質を戦前から引き継いでいるのが実相であろう、と私には思われます。
原因は、報道側にも政治、行政、そして司法にも体質として、また、組織機構として堅固な「記者クラブ」制が挙げられるでしょう。 端的に云って、日本の報道機関は、取材等をしなくても報道出来る制度の上に胡坐をかいているのです。
それは、私が勤務していた地方の行政庁でも、同じでした。 報道機関各社の記者様は、登庁されても記者クラブで優雅に過ごされ、行政各部門等へは、直接に出向くことはなさらずに、広報部門から記事原稿を受け取り、それを支社に流すのみ。 例外的に庁舎よりお出かけになられる折には、社旗を翻した高級車にお乗りになり、後ろの座席に踏ん反り返っておられました(阿保くさ)。
行政側も、こうした阿保を使う術は、心得ていて、時には、酒席で歓待しさえすれば、行政側の用意した記事原稿を紙面に載せるので、都合が良かったのです。 記者様各位は、行政部門各部への興味も関心も無く、ただただ、本社勤務を願うのみでした。 こんな輩に何を願うのでしょうか。 行政庁としては、阿保を使うことは簡単でした。
これが実態でしょう。 従って、何処の新聞もテレビも中央や地方は問わずに、一律の報道になるのです。 新聞は、立法・司法・行政各部門の広報誌化し、テレビも同じ。 従って、反原発や反政府の運動に関わる報道が無い理由は、簡単で、それらに関わる行政庁の報道記事原稿が用意されないからです。 独自取材等は、阿保には不可能ですから。
残念ながら、日本に於いては、ワシントン・ポストのような報道機関は望むべくもなく、また、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインのような記者も現れることはないでしょう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5419:150618〕
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