辺見庸―わたしの気になる人⑥
- 2015年 6月 30日
- カルチャー
- 辺見庸阿部浪子
作家の辺見庸氏は、クリームパンがお好きなようだ。「辺見庸ブログ」からは、そう見えてくる。わたしは毎日、辺見庸のブログは読んでいる。机上のパソコンを開けば、さっと目に飛びこんでくるのが、あざやかな花たちの姿だ。高く伸びた樹木たちも、また背景にひろがる青い空も、気に留めている。さらに、くっきりした陰影に目を移せば、ちょっぴりもの哀しくもなってくる。もともと、わたしは花々や樹々が好きなのだが、辺見庸の写真に触発されて、道を歩きながら立ちどまっては、とりわけ花たちのようすに注目するようになった。チューリップの花びらが外側にのけぞると、花芯の細部までよく見えてくるのである。花弁の色がさまざまなように、細部も色とりどりなのだ。そのかたちは精巧な作品をおもわせる。気高く、けなげに、ゆったりと生きる花たちへの愛着は、従来よりも増している。
辺見庸は、1944(昭和19)年、宮城県石巻市に生まれる。1991(平成3)年、通信社に在職するとき「自動起床装置」で芥川賞を受賞した。小説も書き、また評論も書く。短歌や俳句にも親しんでいる。そして、詩も書いている。いくつかの才能が重奏しつつ魅力ある文体をつくっているのだと思う。説明と描写、理論と情緒を兼ねそなえたもの。ときおり、その文章がわがおつむにストンと落ちてこない難解さもある。しかし、考えさせる、それが辺見庸の文体なのではないか。自他へ「なぜ」と問いかける文章が、このブログの特徴なのかもしれない。わたしの日ごろの「なぜ」にたいして、「辺見庸ブログ」は、よく答えてくれるのである。
2014(平成26)年5月21日付ブログに、辺見庸は、このように書いていた。「保田與重郎の文章をつらぬく天皇制イデオロギーの美化を、平野謙はなぜ軽蔑できなかったのか、なぜなにかしら、こわかったのか、わかるようでわからない」と。わたしはこの一節を、拙著『平野謙のこと、革命と女たち』(社会評論社)を刊行する直前に読んだのだった。しまった。わたしは目にしていない。辺見庸の勉強家ぶりはすごい。多くの文献を動員しながら執筆する。それが、いま「週刊金曜日」に連載中の「1937―『時間』はなぜ消されたのか」の執筆を、可能にしているのであろう。
文芸評論家の平野謙は1978(昭和53)年に死去するまで、内部で「戦争責任」とたたかっていた。外部では共産党のトップ宮本顕治と対峙していた。戦時下、情報局に嘱託として勤務し、文学者をとりしまる立場にあった。他人のイデオロギーを批評することは、自分のその傷に触れることで、したくはなかったはずだ。
いつの日付であったか、辺見庸は、「人間が上等な生き物だとは、残念ながら思わない」と書いていた。ブログには人間の、排泄することも交尾することも、飲食することも睡眠することも書かれていて、なまなましかった。そのぶちまけた文章が、おもしろかった。なんと、そこはカフェの多いまちなのだろう。隣人たちとの交流をとおして、辺見庸の生活的営みは、かいま見えてくる。辺見庸によりそう「コビト」さん。クリームパンのひとかけらにうれしそうなワンちゃん。陽気な「小川さかゑ」さんなど。ひとめ会ってみたくなるような人たちとの交流だが、ある日、小川さんが「グッドファクありがとう」と叫ぶ声には、びっくりした。ふと脳裏に、辺見庸が評論家の吉本隆明との対談集『女と夜と毛沢東』(文藝春秋)のなかで述べていたことばが浮かんだ。女から「セックスが最高だと言われるのが、僕の夢ですね、というより人間的にそうあるべきじゃないかとどこかで思っている」。性を下賤だ、などと排除してはいけない。そのくだりから、辺見庸の性愛論をひきだしつつ読んでいけば、「辺見庸ブログ」は、いっそう愉しみになるのではないか。
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辺見庸の文章は、事実そのままではないと思う。作家の円地文子が、自分はエッセイのなかで天気まで変えてしまうと明かしていた。作家のエッセイとはそのようなものだと承知しているが、辺見庸の「散歩コース」を歩いていて大発見したのだった。わたしはよく、辺見庸が前に住んでいた川越のまちをぶらぶら歩いている。エッセイのなかに書かれている、屋上に観覧車のデパートも、オジギソウの花屋も、ソファの家具屋も、練炭の金物屋も、たしかに存在する。通りを変えれば、うすぐらい洋ランプ屋も、縁日に催しをひらく福禄寿の寺も。歯科医院の塀の下にはムラサキツユクサがひっそり咲いている。だが、辺見庸の住む高層アパートと隣家のさかいの垣根は、「サザンカ」ではない。キンモクセイなのだ。まるい花弁をもち清楚で目に心地よい「サザンカ」と書くからには、そのフィクショナルな記述に、辺見庸の追憶と願望を想わないわけにいかない。辺見庸の身体の底をながれている深層の記憶がよびおこされ、なつかしい「サザンカ」の花とともにあるよろこびを噛みしめたい、そんな願望の現れかもしれない。
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辺見作品のなかで、わたしがいちばん好きなのは、『反逆する風景』(講談社)だ。1995(平成7)年に刊行されている。ひさしく講談社文庫で愛読してきたが、昨年10月に刊行された鉄筆文庫でも読める。辺見庸が大病をわずらう前の8年間に発表されたエッセイ群で、その多才がみごとに開花したものだ。強さと優しさが融合した文章である。さらに、それらの作品からは、辺見庸の姿勢と精神も、はっきり読みとれるのだ。「尊大な視線を殺し、かそけき細部をじっと見つめる」ことの大切さをいう。それは、おおげさな現象の底にしずむ細部にこそ、「見えざる存在」がひそかに宿っているのかもしれないのだから、と。
辺見庸は、芥川賞を受賞した翌1992(平成4)年暮れから、「もの食う人びと」の新聞連載への取材のため、長い世界の旅に出かけている。食うに困っている人たちと会い、彼らとともに同じものを食べながら、彼らの日々のドラマを聴いて歩いた。関心は人間の心の奥底へとむいていく。その成果が『もの食う人びと』(共同通信社)なのだが、しかし、通信社内部の記者としての執筆には、「表現上それなりの抑制と我慢」をよぎなくされ欲求不満が残ったという。それを爆発させたのが、『反逆する風景』にほかならない。
辺見庸は、比喩をじょうずに駆使する作家だ。こんど『反逆する風景』を復習してみて気づいたのは、副詞の多さであった。用言を修飾する副詞の擬態語は、文章に表情をたたえ、ビビッドな動きも感じさせる。書き手は、その多さを意識していないかもしれない。書き手の抱える、行動や体験のちからが、おのずと、それを可能にしているのであろう。
辺見庸は、インド亜大陸、東南アジア、東西欧州を旅して、パリからナイロビに飛び、さらにソマリアの首都に入った。内戦と凶作により餓死寸前に追いこまれた、避難民たちであふれかえる収容施設をたずねる。しゃがみこんでいた娘は、人ではなく「枯れ枝」だ。声をかけても眼前に立っても辺見庸をみようとしない。右手の甲を左の頬にあてたポーズで静止している。3度、彼女のもとに通った。その「どこまでも澄んだ聖なる目」は、辺見庸の「背中の向こうの苦海を凝視していた」。
自分は「人の苦しみをただ傍観し、記述するだけの人でなしであるから、彼女は目をやることすら拒否しているのだ」と、辺見庸は得心するのだ。「ただの傍観者として、その場を無責任にあとにした。彼女の顔を体に埋めこんでしまった」。その「自責は薄れても、いまもつづいている」。このようなことが、収録作品の「飢渇のなかの聖なる顔」に書かれている。じつに印象ふかいところだ。
その執筆から20年あまりがたつ。しかし、この罪深さや恥辱への自覚こそ、辺見作品の核になっていないか。自他に「なぜ」と問うその背後にはこの意識があるのではないか。過去の『反逆する風景』と現在の「辺見庸ブログ」を照らし合わせつつ読めば、作家、辺見庸への理解は深まるはずだ。さらに人間とは、生きるとはどういうことかを、危機的状況にある今、私たちへつよく問いかけていることに気づくにちがいない。(15・6・29)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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