書評 1960年とくらべて
- 2015年 7月 19日
- カルチャー
- 安保宮内広利書評
3.11東日本大震災によって麻痺し壊されたもの、そしてその後の状況をとおしてはっきりわかったことは、現在のすべての言語思想(行為)は、「肉体」をとおしてしか表現できないことである。この場合、「肉体」というのは孤独な「私」という意味のことであり、それはもうひとつの「私」の場所のありかを指している。すでに、子供たちと親世代たちの間には、分厚い層のような隔壁ができてしまっている。その隔壁は、ときおり間欠泉のように、関係の澱を巻き上げるのだが、その意味を表わす言葉は内向しており、決して、隔壁の隙間には届かない仕組みになっている。いわば、お互いに「私」の根拠が希薄なため、親子の対立は、膨大な言葉の連なりやイメージの対立でしかない。
そこで、膨れあがり分節化した言葉の連なりに虚妄をみた中沢新一は「自然」の露岩に回帰しようとした。だが、そこへたどりつく道のりは平坦ではなく、資本主義の「超越的思考」の原型に市場と貨幣を求め、さらにはユダヤの一神教の出自にまで遡ろうとするのだが、いかに科学的な粉飾をこらそうと、その目的である「自然」の手触りは、定かには確証しようのない神話世界でしかない。わたしが想像するに、現在の濃密な、それでいて空疎な関係意識のもつれが、「肉体」をとおしてしか表れないのに気づいたのだが、中沢は、その「肉体」表現を「肉体」そのものと取りちがえたため、媒介された「自然」と無媒介の「文明」の対立図式に滑り込ませたものとおもえる。このような誤解は、新しい貨幣を作るのではなく、貨幣そのものに不信感を募らせることにつらなっている。それとはちがって、わたしたちは、「肉体」という貨幣ではなく、また、「貨幣の貨幣」でもなく、ほんものの新しい貨幣を作りださなければならないとおもう。
このような「肉体」表現としての思想という観点から、わが国の現在をみわたすとはっきりわかることがある。
7月16日集団的自衛権の行使を目的とする安保関連法案が衆議院で強硬採決された。この安保法案のもつ意味は、ふたつあるとおもう。ひとつは日米安保の軍事同盟をより強固なものにするという国家意志である。もうひとつは、日米が世界中どこでもいっしょに軍事行動ができるようにするということである。この法案は人間の生死にかかわることであるから、国家の意志も「肉体」=生命表現になるというばかりではない。国民の意志さえも「肉体」表現として意志表示されていることを意味している。つまり、戦争という生死にかかわるというだけで政府も国民も「肉体」表現になるというばかりでなく、わたしたちの生存の与件が世界から押されて不可避に「肉体」をとおしてよりほかに表現できなくなった事態をうみだしているのである。
強硬採決のあと、政府高官は、今回の反対運動はいままでの運動と比べて高揚していないというようなことを強調していた。この男が比較していたのは、おそらく1960年の安保条約改定反対運動のことを指していたのはまちがいないが、果たして、今回は60年の反対運動とくらべて低調なのか、同じなのかどうか、1960年の安保反対運動のことを書いてみる。
日米安全保障条約(旧条約)は、1951年9月、サンフランシスコにおいて対日講和条約と同時に調印されたもので、米国の対日防衛義務を明記しないままに、日本に米国の軍事基地を許容する内容を含むものであり、米国主導の性質を濃厚に帯びるものであった。この旧条約を改定しようとしたのが、当時のわが国の保守陣営であった。保守陣営はこの旧条約に対して不満をいだいていた。なぜなら、彼らは旧条約を不平等条約とみなして、日米の関係を片務的なものからより双務化し、また、日本の対米従属の性格を払拭して、自主性をより高めようとするところに、主眼がおかれたからである。
そのため、安保改定は、防衛構想において日本の主体性を回復しようとする意図であった。それは、ある意味で、米国の望んでいたことでもある。米国は日本が自由陣営の防衛責任を負担することを、条約改定の条件ととらえていたからである。
これに対し、革新陣営は、旧条約における日本の自主性の欠如に不満をもたなかったが、大戦後の米ソの冷戦状態のなか、米国の対ソ戦略にわが国が組みこまれることによる平和の脅威をいちばんに懸念した。その心配の背景には、ソ連を平和勢力とみなし、米国を戦争勢力とみなすという親社会主義的な信仰があったのである。だから、革新陣営は、この新日米安保条約は、米国の極東軍事戦略へわが国の参画をすすめる策動と映り、実質的な日米軍事同盟であり、それが、戦前、戦中の軍国主義へ回帰する反動的な企てであるとの理由で、反対運動を組織した。
1960年1月19日(昭和35年)、1年3か月におよぶ外交交渉の結果、ワシントンで新日米安全保障条約が調印された。その批准をめぐり、安保特別委員会の場で、政府・与党と野党とのあいだに激しい論戦がたたかわされた。それから6月23日の批准にいたる5か月の間、安保反対の運動は、わが国の政治運動史上稀な広がりと高まりをみせた。その主なものは在日米軍の装備の重要な変更や戦闘作戦行動などについては、事前に協議するという取りきめに関する問題であった。その間、新条約をめぐり、在日米軍の対外行動に関する日米間の事前協議がはたしてどこまで実質的なものか、それは日本の同意を必要とするのかどうか、あるいは「極東条項」について極東の範囲はどこかというような、ある意味ではベールをかぶせたかのような、曖昧なやりとりが国会で、マスコミで、あるいは集会で展開された。
しかし、これらの問題化のいきつくところ、1960年安保改定が、さまざまな意味で、戦後体制の終焉を意味していた点をどう理解すべきであったかにかかっていることは明白であった。その際、安保問題が集中的にあぶりだしていたのは、ひとつには「戦後は終わった」というすでに経済生活の領域で確認されていた事実を、政治の領域でどう認識するかという点にあったからである。「戦後は終わった」というスローガンは、1956年の経済白書を飾った一句であったが、すでに当時の主要な指標で、戦前の水準を上回っており、国民総生産は戦前期のピークさえ突破していた。この事実を政治認識としてどう理解するか、で分岐点があらわれた。もうひとつは、米国という強大国との間の軍事条約という性格からきていたのはまちがいなかった。これらがあわさって、安保反対運動の密度を決定した。
だが、密度を考えるより前に規模のことに触れなければならない。なぜ、安保反対運動が広範な運動の裾野をもち、未曾有の規模に広がったのかということである。
安保反対運動の代表的な主張をみるかぎりにおいて、運動の規模拡大に対して決定的に作用したのは、「民主主義の危機」という叫びであった。1960年5月19日、安保特別委員会で強行採決がおこなわれ、衆院本会議で質疑、討論の過程を省いたまま、新条約の承認が強行された。しかも、院外団を導入してまでして、強引な議事運営がなされたのである。これをきっかけに、安保反対運動の争点は、議会制民主主義の危機の問題に推移したかにみえた。それからの1か月というもの、いわば、安保改定の問題とかさねて、民主主義擁護の波紋がひろがっていったのである。
これをももっともわかりやすい表現であらわしたのが、竹内好の「民主か独裁か」という簡明なスローガンの投げかけであった。いわゆる5.19事件は、民主主義の危機としてとらえられ、とりわけ、戦争経験がある年配者たちは、東条内閣で閣僚をつとめ、戦後はA級戦犯で追放された岸信介首相の経歴とともに、その危険性を過去の強権政治と重ねあわせ、戦前への回帰が出現したととらえたのである。反安保のキャンペーンは、これに鼓舞されて一挙に高みへとのぼりつめた。その過程で、ある意味、安保問題自体が忘れ去られたかのような恰好となった。民主対独裁あるいは進歩対反動という戦後思想の意識下にねむっていた対立軸が一挙に噴出したのである。
以上みてきた経過をみると、今度の安保関連法案をめぐる経緯とよく似ていることがよくわかる。しかし、今回の反対運動は1960年の運動とまったくちがう側面をあわせもっている。ひとつは、1960年の時には、戦前世代が戦争体験をくぐりぬける過程で生じた負い目や、戦後意識のなかに占める米国に対する複雑なコンプレックスが相乗的に作用した。なぜなら、明らかに、革新陣営には、戦後の危機、崩壊の予感をひめていたが、その戦後の出現が、自らの出自にまつわる忌まわしい戦前、戦中の体験と地続きであること、また、それをもたらしたのが、安保反対運動の標的である米国であるというジレンマのなかで、いやがうえにも、それを意識の上にのぼらせることになった。それらが増幅して、必要以上に戦後的なものに防御の姿勢をとらせた。そして、それが安保反対というより、戦後の思想の保守を声高に叫ぶことに作用した。
それは安保反対に参加した個々人の内面においては、確かに、無意識下に抑えられてきた屈折した反米ナショナリズムをめぐる意志表示であったにちがいなかった。彼らにとって、敗戦と戦後とは錯綜した意識の葛藤の期間であり、それゆえに、いわば頭のなかに架空の対立軸を必要としたのである。だが、その心的葛藤が、短期間に大衆の膨大なエネルギーを引き出したのはまちがいない。
もうひとつの相違点は、当時の運動は錯綜した奥行きをともなっていたことだ。反安保運動は戦前世代にけん引されていたとともに、全学連を中心とした戦後に育った戦後世代にけん引された側面をもっていたからである。全学連は、戦後世代によってになわれていたため、戦争を影のように背負ってはいなかった。戦前国家や米国に対して、何のうしろめたさも感じることもなかったのだ。むしろ、彼らには、心的葛藤を背負う膨大な大衆のエネルギーを背景の土壌にして、戦後の思想に何を咲かせ、そこに何をつけくわえるかが課題であった。もちろん、全学連の指導層のなかには、50年代を通じて、共産党の学生党員であったとき、国際派、所感派の分派坑争や、六全協の方向転換に対するショックをせおった過去もあれば、その後、党中央との軋轢の中、学連新党を自前でつくってきたという背景が、目指す社会像、国家像の色合いとともに、行動方針の中にも微妙な屈折をもたらしていたのは事実である。
それにしても、1960年安保反対運動の大衆的な高揚は、この国のふたつの明確な指標や対立をしるすものとなった。当時の学生運動の自意識を支えていたのは、「先駆性論」であった。「先駆性論」とは、いわば学生運動が、先駆的に運動を切り開き、しかるのちにこれに後続する運動が展開されるという理念である。反対運動で全学連が身をもって、たたかいの先駆をなしたのはその典型的な行動であった。
みずからも全学連とともに安保反対運動に参画した吉本隆明は、既成の「前衛神話」の崩壊を次のように書きとめている。
≪15日(6月)夜、その尖端を国会南門の構内において、国会をとりかこんだ渦は、あきらかにあたらしいインターナショナリズムの渦であった。それはなによりもたたかいの主体を人民としてのじぶん自身と、その連帯としての大衆のなかにおき、それを疎外している国家権力の国家意志(安保条約)にたいしてたたかうインターナショナリズムの姿勢につらぬかれていた。首相官邸のまえをとおり坂の下へながれてゆく渦は、社会主義国家圏という奇妙なハンチュウをもうけ、そのようごのためには弱小人民の国家権力にたいするたたかいを勝手に規定し、また人民の利益と無関係にそれを金科玉条として固執する変態的なナショナリズムの亡霊を背負ったものたちに嚮導されていた。それはコミンターン式の窓口革命主義の崩壊する最後のすがたを象徴するものにほかならなかった。かれらはいかなるたたかいにおいても、たたかいを阻止し、ひたすら大衆が自分たちの指導をこえてたたかわないことを望み、ひたすらたたかいの現場から遠ざかろうとする姿勢につらぬかれていたのである。≫『擬制の終焉』 吉本隆明著
革新勢力の枠を公然とやぶって激しく展開された全学連の大衆行動に対する戸惑い、そして、その指導性の喪失があらわになった。彼らをのりこえて前進しようとする人々の凝集されたエネルギーの爆発に対して、ただただ「挑発にのるな」を連呼するにすぎなかった自称「前衛」神話の崩壊が、誰の目にもあきらかになったのである。既成の前衛組織の姿勢は「敵は強大、味方は劣勢」という長期低姿勢論であり、「民族独立民主革命」を夢想し、めざすべきは「民族民主統一戦線」の実現であって、そしてなによりも党勢の拡大であった。反対運動は、この第一義的課題に従属されるものでしかなかったかにみえた。
このため、彼らは徹底したスケジュール闘争主義に徹した。彼らが、唯一、強い闘いを主張したのは、6月10日のハガチー事件であった。米国主敵論を戦略とする彼らにとって、アイゼンハワーの訪日に反対する闘争は、ハガチー報道官来日にむけた排外主義のたたかいに集約された。だが、これら反対運動の期間をつうじて、その只中での闘争形態に関する日和見主義、反米民族主義などの理念をのりこえ、戦闘的な学生、労働者はたたかいの輪を幾重にもひろげた。
このように、戦後史を画する大闘争において、安保反対の主力をになった運動には、三つの力の合力が混淆したところに特徴があった。それは安保改定を推進した保守陣営の力であり、もう一つは革新陣営の力であった。さらに全学連などの新しい運動の力である。そして、これらはそれぞれ政治的戦略をわけていたが、そのなかでも保守陣営も革新陣営も、米国、ソ連の戦後世界支配という枠組みは、絶対的で動かないものであるという認識を共通の基盤にしていた。
これに対して全学連の指導者は、安保改定をつうじて、国民のほとんどの期待を裏切って、日本の独占資本主義が復活するにつれて、帝国主義的な復活をとげるものととらえていた。したがって、安保改定に反対するのは、日本の帝国主義的な復活を阻止することであった。これは、ある意味ではわが国の保守陣営が、米国との関係を改善しながら、体制の強化を図ることを、日本の自立的な志向とみなしていたことと同じといえる。だが、それだけではなく、全学連の理念には、戦後の米国、ソ連の二国支配を、理念的に支える世界観や世界像を否定しようとする意志があった。米国型の世界支配はもちろん、ソ連は社会主義ではない、という否定の認識が核になって、旧左翼が理念の常識にしていた世界観や世界像を批判したのである。いわば、世界が米、ソの支配という絶対枠で成立しているということを否定したのである。
全学連の主張が、そのラジカルな行動によって多くの人々に支持されたのは、米、ソのどちらかに加担するのではなく、どちらの戦争も嫌だという、敗戦国の国民としてのナショナルな意識を、広範な形で、はじめて国民運動の歴史の表面に登場させたからである。だから、60年以降の新しい運動が戦後の既存の世界像を否定し、独自の世界観を求める場所を占めることができたのも、この多くの人々の声が、背景の圧力としてあったからである。
国会周辺は、連日、抗議の渦で埋められた。そして6月19日の「自然承認」をまえにして、東大生の樺美智子が警官隊の暴力によって殺される。こうした激しい反対行動のなかでとうとう岸内閣は退陣し、アイゼンハワー大統領の訪日は中止された。こうして60年安保運動は沈静化していく。運動は参加者のなかに、強い挫折感と敗北感を残したまま、次第に安保はすでに過去のものになりつつあった。
それを追認するかのように、安保後、岸内閣のあとをうけた池田内閣のとった路線は、戦後の経済復興を徹底することであり、経済成長政策と呼ばれた新しい経済再生路線であった。池田内閣は国民所得を10年間で倍増すると「所得倍増計画」を約束し、高度成長計画に裏づけられたものとして宣伝した。これは政治の舞台を、安保、憲法から経済へ転換させることを意味した。だから、この高度成長を軸とする経済政策は、単なる経済政策であることをこえて、戦後日本の基本戦略にさえなった。「所得倍増計画」は、社会資本の充実、産業構造の高度化、貿易と国際経済協力の促進、人的能力の向上と科学技術の振興、二重構造の緩和と社会安定の確保の5つを柱としたものであった。これにより、高度成長経済は、年率7.2%の経済成長を達成し、この高い水準を維持することにほかならなかった。この計画は、民間の設備投資を誘発し、「投資が投資を呼ぶ」空前のブームをひきおこした。実質成長率も、60年13.3%、61年14.5%とはねあがっていった。
やがて、60年代以降をつうじて、日本社会を農村型社会から都市型社会に変え、人々の生活観や価値観は大きく変わることになる。また、戦後の左翼運動が目標としてきた貧困からの解放を、この経済政策は基本的に解決したことを意味した。これは、戦前の左翼運動が目標としてきた農地解放を、占領軍の農地改革が実現したことに匹敵していた。
今度の運動をみて1960年の運動とは質的にはっきりちがうのは、なにより、かつてはあった革新陣営、全学連などの錯綜した党派性をもたないということである。反対運動をになっているのは、どの党派にも属さず、「戦争の時代はおわった」、「非戦の憲法を守れ」という怒りの声だとおもう。それはどんな政治的イデオロギーにもよりかかるものではなく、とにかく戦争にまきこまれるのは嫌だという国民個々人の切実な声が、今度の政治史を画する反対運動のなかから生じていることだ。この力は反対陣営のなかでも、どんな指導層の理念をものりこえる可能性をもっている。これはいままでシステムの中に隠れていた「肉体」が思想として表面にあらわれた証明だとおもえるからだ。もちろん、システムの闇そのものがこのような国民の意志を後押ししているのはまちがいないが、このまったく新しい状況のなかで「肉体」をとおした連帯がどのように可能なのか、わたしたちに試されているとおもえる。
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