第4権力革命(情報革命)論と転向異論《知の論理と創造、実践一歩前》(1)導入と進展(2)酷い安保法制国会にへきへきしている理由「嘔吐2015」(3)転向異論
- 2015年 8月 5日
- 交流の広場
- 武田明
ちきゅう座とは、唯一と言って良い日本左派最前線としての場であり、具体的に見える場であるのだからその誇りと自信を取り戻していかねばならないはずである。
(1)導入と進展
とにかく酷い安保法制国会。
彼らは、何のために、何をしたくて歴史を逆行させようとしているのか?
「光る風」(原注1)よりも滑稽な三文小説のシナリオにみなうんざりしているのではないだろうか?
「無理が通れば理屈引っ込む」強行採決。
「泥棒にも一部の理」とも言うが、それさえ感じられるものがない。
しかし、理由なき「ただ殺したかった」殺人であっても、心理分析が必要でもあり、分析を必要とするだろう。
それは、カミュ不条理「異邦人」以来の人間のそれも真実の姿のひとつとして問う文学的主題、自殺も殺人もそして、ミステリー小説のプロットとして、考察する事には、意義があるのだが、この安保法制の駄々っ子権力を許している日本の悲劇は、分析にも値しないレベルのものである。これを脱するために、「統一戦線党」が必要と思うのだが、あらゆる意味で、「統一戦線党」としての良識の結集を阻む、要素があり、輪をかけて、愚かなる「知性未満」に晒されているのは、植草一秀ブログにても再三指摘されている野党であり、日本共産党も「権力への意志」であり、
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-5b21.html
(しかし、本当は、まだまだオールジャパン「平和と共生」自身も理念的で不満な段階であるのだ。著作テキストとして提出頂きたいが、現代マルクスをやっている暇は誰にもないのだろう。故に、時事史観的に、インターネット有料ページもあると言う事なのだろう。時事に訴え、即物的問題を具体的に解決しながら、歴史的普遍性としての根本の高みまで、宗教的な投げ出しではなく、仕上げていきたい野心があるのだが、それは、積み重ねであり、今日や明日にインスタントラーメン、カップ麺の様に出来るはずもないのは当然である。)
大衆党としての結集を数理的にも論理的にも出来ない故に、長期自民党政治独裁によって、
この2015年度の「戦争法案」国会の危機というがけっぷちに立ちながらも、昭和期以来また、次回の選挙にさえ、猛省に辿り着けず同じ愚かなるシーソーゲームに甘んじるだろう絶望、「懲りない塀の中の面々」よろしく、「プライベート牢獄」を脱しきれず「日本収容所」「民主主義未満」「大衆の悲劇」が続くだろうと言う予感がある。
一気に、全てを動き出せるようにすることは出来ない。
しかし、昨日、佐藤優氏も、唯一とも言える左派の牙城でもある「ちきゅう座」に注目頂いているのか?
埒外ではない到達を理解していただいているのなら嬉しいことこの上ないのだが、
「報道ステーション」(広報・情報)⇔「アエラ」(テキスト)⇔「オール沖縄」(実践・物象化)
共同性、役割的連携性としての推進力を感じる展開が感じられていた。
AERA 2015年8月10日増大号・佐藤優特別編集長「終わらない戦後」
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17253
「週刊現代」安倍晋三あっけない退場
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44455
(2)酷い安保法制国会にへきへきしている理由
礒崎首相補佐官に続き、新たな大物武藤貴也現る
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/880.html
「報道ステーション」でも古舘氏「取り上げたくない程」低次元が止まらない稚拙化自民党チルドレン。
自民・武藤貴也議員 「憲法が日本精神を破壊」の暴言で大炎上
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/905.html
それ以上に、本編の参議院に移行してからの「安保法制」問答は、酷いのだが、いちいち語る気にもなれない。
僕は、彼らの行いたいことは、アダムとイブ王朝的有閑遊戯史観としてのDNAの確保であり、「神を称え、人間は、楽園にて遊んでいる」と良いと言う信仰として、これまで分析を加えてきたのだが、これについては、更に、具体的に、主題化して、一体、何が、根本的な対立点であるのかを「圧倒的に理解しやすいように」提示したいとも考えている。これは、歴史学的問いでもあるのだ、「マルクス学」研究同様に、「ライフワーク」にも属する故に、全身全霊時間が必要ともされているだろうから、体系化には、更なる時間を有するだろう。
今は、「示唆」にとどめておくしかない。
その都度、必要に応じて、言及を広げながら、行きつ戻りつやっていくしかないのは、非才ゆえでもあろうが仕方がない。
(3)転向異論
「蕾は花が咲き出づると、消え失せる。そこでひとは蕾は花によって「論駁」されるともいうことができるであろう。同様に実によって花は植物の偽りの定在であると声明せられるのであり、こうして植物の真理としては実が花にとって代る。」(全集版精神現象学p4)
昨今では、報道ステーションにて養老 孟司氏が、「変態」について語っていた様に、「固定化」されない、「現象学」的次元にて考察されうる「転向」とは何であるのか?
この問いがあるのではないだろうか?
「変態」か「現象」か、「転向」か?
また、ツァラトウストラにも「私の口まねをして演技をして、同じ事を言っていたとしてもそれは違うだろう」的個所があったはずである。
思想は、「心」であるのだが、「暗記」や「教条」、機械主義、官僚主義的にも存在するのであり、天皇主義とマルクス主義その教条信仰としては、「記号論」「象徴論」的にも同じ「崇拝」=わけがわからないが崇拝、崇め奉る意味では同じであり、「盲目の意志」(ショーペンハウアー)「権力の意志」、『自発的従属論』その域を出ないと言う事であり、その本質的根源的問題として一歩でなくてはならないだけである。
しかし、それは、究極の哲理であり、おいそれとたどり着けない険しい「人間の生涯」「道程」「臨終人間図巻」的渇望、「究極の飢え」「貧困の哲学」または、「ちきゅう学」としてもある。
とても個人の手におえるものではない。
故に、「群像哲学」「群像文学」として、共同体として解き明かしていこうと言うだけの事なのである。
ディック「毛が死んだ。しかし、曲がりなりにもこれまで人類はやってきたではないか」
(すべてが、絶望なわけではない。具体的にあるものから始めようではないか!)
書評 『戦時期日本の精神史』 鶴見俊輔著
http://chikyuza.net/archives/55256
転向とは、一般的に、左から右へ(ナショナリズムへ)であるけれども、
ここでは、戦前から戦後へ。天皇主義者から戦後主義者へ。更に、戦後主義者から体制ナショナリズム(会社人間)へ組み込まれる節操も核心もない「時流的生き方」批判としての批判の様に想われる。
「そのうえ、戦後しばらくは多くの若者たちの心を強力に引きつけたかつてのマルクス主義(左翼思想)は崩壊してしまったのである。これらがあいまって、自己意識の瓦解をまねくような思想への忠誠も放棄もなくなったといえる。」
実は、教条としてのマルクス天皇が、崩壊しただけであると言う立場となる。
一度崩れた歴史学、ソビエト論。
いまだ、判然とせずに残る中国、キューバ。
かつてのソビエトが、社会主義としての理想を体現した世界とは、マルクスを考えているものは誰も思っていない。
『北斎漫画』の緒方拳の様に、一点画を追及する生涯としての鬼気として、70歳になっても、80歳になっても経済学を一から始めようと言う歴史や時代に抗う「ファィト!」(吉田拓郎)の魚のように生きる理想に辿り着ける者は、希少価値となってしまう。魚にも劣るファシズム法制、ヘイト法制となっている2015年度現状であるだけと言う事。
しかし、共同性の地平、真の共産主義としての地平として、どの年代からでも、「北斎漫画」の根底にある幸福感は理想や夢ではなく、体現可能である事を伝達し、大アジアコミューンとしての改革、対話、助産術、首都圏革命都市ネットワークたる二段階革命論は、今、開始出来る「成熟」があると言う事なのだ。
左派の壁、「転向異論」がこれとなる。
付録:原注
http://revolutio.exblog.jp/22000301/
続く。
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