根源は歴史の「掟破り」 ―あらためて考える「歴史問題」 1
- 2015年 8月 6日
- スタディルーム
- 歴史田畑光永
八月は歴史の季節である。太平洋戦争が終わったのがたまたま八月だったからであるが、国民が歴史を振り返る季節が毎年あるのは悪いことではない。ただ、それが歴史を振り返る結果、他国の今を批判するところまで行くと、歴史が今の問題となり、現実の国家関係に影響してくることになる。
現在の「歴史問題」は韓国との間では従軍慰安婦に日本がどういう手をさしのべるか、中国との間では過去の中国侵略に日本が真面目に向き合っているか、ということが焦点であるが、それが現在の国民同士の関係にまで影を落としている。
驚きの数字
中国との関係では、お互いの相手に対する見方についての世論調査の結果は衝撃的である。二〇〇五年から毎年、日中両国民がそれぞれ相手にどういう印象を持っているかを調査してきた日本側「言論NPO」、中国側「中国日報社」が二〇一四年年七月~八月に実施した共同世論調査の結果は、日本人のうち、中国に「よくない印象を持っている」と「どちらかといえばよくない印象を持っている」を合わせるとじつに九十三%、日本に同様の印象を持つ中国人も八十六・三%に達した。
逆に相手に「よい印象を持っている」と「どちらかといえばよい印象を持っている」の合計は、日本人では六・八%、中国人では十一・三%に過ぎない。
この調査より二か月ほど後の同年一〇月に行われた、内閣府の日本人男女三〇〇〇人を対象にした「外交に関する世論調査」でも、中国に対して「親しみを感じない」「どちらかというと親しみを感じない」の合計が八十三・一%と過去最高を記録し、「親しみを感じる」、「どちらかというと・・感じる」の合計は十四・八%であった。
日中両国民は一貫してそっぽを向きあってきたわけではない。一九三一年の満州事変から足かけ十五年に及んだ戦争の後、東西対立のあおりを受けて両国間には長らく国交がなかったが、一九七二年に国交を回復してからしばらくは、友好ムードが支配的であった。内閣府の調査では一九八〇年代前半は「どちらかというと」を含めて「親しみを感じる」が七十%台をキープしていたし、一九八九年の天安門事件でその数字は急落したとはいえ、九〇年代から二〇〇〇年代前半までは五十%前後を保っていたのである。ところが、今や「親しみを感じる」は十五%を切り、国別に見た場合、米国の八十二・五%は別格としても、インドの四十七・一%、韓国の三十一・五%、ロシアの二十・一%にも水をあけられている。
近隣国の国民同士が必ずしもよい印象を持たないのは珍しくないであろうが、数ある世界の二国間関係のうちでこれほどにまでそっぽを向きあっている国民同士というのは、戦争でもしている場合を除けば例がないのではなかろうか。それもなにか具体的な利害の大きな対立があるわけでもなく、むしろ貿易、投資、観光といった面では旺盛な交流が展開されている。最近話題の中国人観光客の爆買いにしても、中国人は日本の商品が好き、日本側も買ってくれるのは大歓迎なのだから、その限りではお互いが嫌いになるいわれはない。
互いの印象を悪くさせているのはもっぱら両国の政治的関係である。政治的関係というのは、要するに国民の頭の上で政府どうしが相手をどう言っているか、である。今の日中関係では両国の政府は儀礼的なやり取りを別にすれば、確かに双方とも相手を立てるよりも批判することの方が多い。中国側がかつての戦争を持ち出せば、日本側は中国の軍備増強や強引な資源外交を批判する。それを聞かされている国民は相手を困った国だと思うようになる。その結果が上の数字である。韓国やロシアにも水をあけられているのは、日本政府の批判がこの両国よりも中国に向けられることが多いからであろう。
勿論、過去の歴史を問題にしているのは、中国にしろ、韓国にしろ、政府だけであって、国民はそんなことには関心がないというわけではない。国民の中になお過去の日本の行為によって直接の被害を受けた人々が存在する以上、日本に対する怒り、恨みがあるのは当然であり、政府はそれを政治的に利用するのであって、何もないところで対日批判の火を煽っているわけではない。
それでは普通の中国人や韓国人は、日本(人)が好きなのか、嫌いなのか、はっきりしろと言ってみても、それは無意味である。どちらかにはっきりしている人もいるだろうが、おそらく多数の人は両方の感情を持っていて、時によってどちらかが強くなったり、弱くなったりしているはずだ。
だから国民感情は固まったものとして考えるのではなく、伸び縮みするものと受けとめて、双方のそれが対立に向かわないように互に気をつけなければならないのだ。その意味では、相手を徹頭徹尾、悪意に満ちている存在ときめつける、最近のいわゆる「ヘイト本」は国民感情というものを全く理解しない自国の知的レベルの低さを内外に宣伝するようなものと言わざるを得ない。
ヨーロッパとの違い ―掟破り
ここで反論が聞こえそうである。それにしても戦後七十年ではないか。その間、何人もの日本の首相が謝罪したではないか。いつまで同じ話をむし返せば気がすむのか。昔から何度も大戦争を経験してきたヨーロッパでは、それぞれの国民の胸の底までは分からないにしても、首脳会談で歴史問題が取り上げられて、謝罪が話題になったなどとは聞いたことがない。それどころか、もう戦争は止めようということで、EUを作り、通貨まで共通にして、一つの共同体を目指しているではないか、と。
この議論はもっともである。なぜヨーロッパのように歴史は歴史として収めるべきところに収めて、現在の日常はそれを踏まえつつも、新しい雰囲気の中で進められないのかと嘆きたくなるのは、責められる側の感情としては当然の帰結である。
とはいえ、これは加害者、被害者の感情の動きであるから、あちらでそうだからこちらでもそうあってほしいと言ったところで、加害者側にそれを要求する権利はないし、被害者側にもそれに従わなければならない道理はない。あちらはあちら、こちらはこちらと割り切るしかない。
しかし、なぜそういう違いがユーラシア大陸の東西で生まれたのかは考える価値のある問題であると思う。これにはなかなかすっきりとした回答が出せそうにもないのだが、私なりに答えるとすれば、ヨーロッパと極東アジアにおける戦争の違いではないか、ということになる。
大雑把な議論になるが、ヨーロッパの地図を歴史と重ね合わせると、土地と民族が目まぐるしく移り変わってきたことに気が付く。「ゲルマン民族の大移動」などは教科書にも登場するが、現在、ある国家に住んでいる人たちが昔からそこの住民であったとは限らない。そういう変化をもたらしたものが数ある戦争であった。
一方、極東アジアの中国大陸、朝鮮半島、日本列島では古来、漢民族、朝鮮族、日本民族がそれぞれ定着して、国境線というか、民族の境界線が大きくずれたり入れ替わったりすることはなかった。言うまでもなくここでは大まかな話をしているのであって、中国大陸内部、朝鮮半島内部、日本列島内部ではそれぞれ激しい権力争いがあったが、それを越えて三者のいずれかが残る二者のいずれか、あるいはその内の一者をまるごと支配するような大戦争、たとえて言えば国際戦争はほとんどなかった。
それに数えられるものを歴史の中にさがすと、西暦663年の白村江の戦い、13世紀後半のいわゆる元寇(1274年文永の役・1281年の弘安の役)、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役1592~1596年・慶長の役1597~1598年)が挙げられる。白村江は百済・日本の連合軍と唐・新羅の連合軍の戦いであり、元寇は大陸を制圧したモンゴルが朝鮮半島の高麗とともに北九州に来襲したものであり、秀吉の朝鮮出兵は最終的には中国の明王朝をも征服しようとした軍事行動であった。
いずれも歴史に残る戦いではあったが、しかしヨーロッパの名だたる大戦争が数十年から時には百年戦争と言われるほどの長期間であったのに比べれば、数が少ないだけでなく、規模も小さかった。
しかもこの3つの戦争のうち、元寇は極東アジアの戦争というよりユーラシア大陸の内奥部の平原に発したモンゴル帝国の世界制覇の戦いの東の先端部分であったし、秀吉の朝鮮半島出兵は、16世紀に来訪したイエズス会の宣教師が伝えた当時の世界の流動性に触発された動きであった。ということは、いずれも極東アジア自体から生まれた戦火というより、外部からの刺激による戦火であったといえるだろう。
逆に言えば、極東アジアでは中華文明を中心とする冊封朝貢体制・華夷秩序によって大陸、朝鮮半島、日本列島は共存を前提とした三者鼎立の歴史の中に生きていたのである。そこが各民族の勃興、角逐、衰退によって、相互の境界線が大きく動くのを常としたヨーロッパの歴史とは大きく異なる。
この極東アジアの三者共存関係に西欧が参入してくるのは16世紀である。それが秀吉の朝鮮出兵を生んだのだが、その後、三国はそれぞれ西欧が自国内部に浸透するのを防ぐ措置を講じたために、しばらくはこの地域の安定構造を変えることはなかった。しかし、19世紀に入り、産業革命を経て欧米の国家権力がアジア諸国に強く「開国」を迫るようになると、それへの対応で三国の間には大きな差が生まれることになった。
日本が、明治維新という権力交代を機にいち早く欧米への同化をめざしたのに対し、中国、朝鮮は極力従来の体制を守ろうとした。その差が国力の差を生み、19世紀末からの半世紀、日本は武力で中国を攻めて領土の一部(台湾、東北部)を奪い、朝鮮半島を併合した。
これは歴史的な三者共存体制を覆す行動であった。いうなれば掟破りであった。そこがヨーロッパとの相違点、そればかりでなく欧米各国と世界に広がるかつてのその植民地との関係とも相違する点であると私は考える。
戦争なれしたヨーロッパでは強いものが勝てば、負けたほうはそれに従うのはやむを得ない。いつの日か自らが強くなって勝つ日を期す。そういう戦いのルールが広く承認されているのではないか。
欧米に植民地にされた国の場合は、大航海時代以後、突如出現した「白い顔」の人間たちに圧倒的な力の差でねじ伏せられたのは痛憤の極みではあったろうが、一方ではある種「天災」にも似たものと受けとめるしかなかった部分もあったろう。
しかし、19世紀後半以降の日本の行為は武力行使にしろ、力を背景にした併合にしろ、まったく性格がちがった。戦いのルールのない歴史を突如踏みにじって戦いを挑むのも、時に反目することはあっても、一方が他方を吸収するなどということがありえないはずのところで併合を持ち出すのも、相手側からすれば、裏切り、掟破りの極致であったはずだ。
1945年に終わった第2次世界大戦はヨーロッパでは、古来数ある大戦争の1つであったろうが、極東アジアでは比類のない掟破りであった。そこでは戦争の後遺症はヨーロッパとは同日に談ぜられない。執拗な「謝罪要求」はその現れであるし、それも一度「謝罪」すればそれで終わりとはならない。心の底からの謝罪であるか否かと何度でも話がむし返されるのは、あの半世紀の歴史がたんなる戦いでなく、許しがたい裏切りと受け取られているからであろう。それでは被害国のその思いは戦後の国際政治の中でどのように扱われて来たか、それが次の問題である。(続く)
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