紙芝居屋さんのプレゼント
- 2015年 8月 10日
- カルチャー
- 熊王信之
多くの人は、幼児の折の経験で、成人後もなお記憶が薄れることの無い程に楽しいことがあることでしょう。 母との思い出。 父との思い出。 祖父に祖母との思い出。 犬や猫との触れ合い。 四季の移り変わりに自然の変転。 生活の様々な移ろいに人々の暮らし様の変化。 等々。
昭和20年代始めに、大阪は河内の片田舎に生を受けた私にもそれはあります。 いかにも断片的で、その間の事情は押し測る他に無いものですが、今思い出しても笑みが浮かぶ。 そんな些細な話に暫し時間を割いて頂ければ幸いです。
私の生家は、嘗て同じ町内に在って、眼にすることが出来ましたが、周辺一帯の開発に伴い解体され、今は建売住宅に変わりました。 大正年間に建てられた木造瓦葺二階建て。 小さいながらも一揃いの庭木がある和風の庭が供えられた、古風ながらも整った建築でした。 ただ、田舎のことで、下水道は言うに及ばず、水道もガスも無く、炊事は竈でする他にはありませんでした。 勿論、風呂も槇を焚くしか沸かす術はありませんでした。
そんな家に生まれた私は、物心がついた頃には、近隣の住家を訪れる祖父母にお供をするか、庭に在った樹木の葉や草花を摘み、蜻蛉や蝶々を追う以外には、週に一度の紙芝居屋さんの村への訪問が唯一の楽しみでした。
生家の北側前の水路に渡した小橋を渡り、土道を西に行くと村の中に空き地があり、週に一度、其処が紙芝居屋さんの青空劇場になるのでした。 小さい村ながら、当時は子供が多くて紙芝居を観に来る子が沢山居ました。 曜日は覚えてはいませんが、その日は、粗末な服を着て、今か今か、と紙芝居屋さんの登場を待ち、空き地の東を睨む子供が沢山いました。 その中には、ズボンのポケットに母から貰った何がしかの小銭を入れて、日々に寒さが強まる空模様を訝しげに見上げる私もいました。
やがて、子供たちの歓声とともに登場した紙芝居屋さんは、自転車の荷台に小さい舞台を設えて、巧みな声色に載せて物語を始めるのでしたが、何時も興味津々の展開が最高潮に達すると次回をお楽しみ、となるのでした。 紙芝居の最後には、駄菓子の販売が始まり子供たちの内で小銭を持参した子は、飴玉を手にしました。
ところが、日々の寒さが堪えたのか、私は高熱を出して伏せってしまい見上げる天井が揺らぎ、母にお医者さんは未だ来ないの、と尋ねるようになってしまいました。 朝、出勤前の父も私を覗き込み、何事かを母と話していました。 帰宅した際にも、私を覗き込み、母と囁くように話していました。 母がリンゴを搾り飲ませてくれたのを覚えていますし、自宅に迎えた医師が注射を腕に打ってくれたのを覚えています。
やがて、母が寝床に来て言うには、紙芝居屋さんがお見舞いに来てくれた、とのことでした。 母に促されて東を頭にした寝床から北の窓辺を見ると、私が伏していた一階の小部屋を覗く紙芝居屋さんの顔と近所の子供たちの顔が見えました。 みんなは、我が家に沿って走る水路に邪魔されて近づくことは出来ませんでしたが、水路とは言っても小幅なので、充分に顔が見えるのでした。 今となっては、何を叫んでいたのかは忘れてしまいましたが、皆が一斉に叫んだのを覚えています。 そして、紙芝居屋さんがくれた飴玉の甘かったことも。
これで元気が出たのか、病に勝ち、お正月に祖父と父がついた御餅を食べて歳を越したある朝。 朝食の前か後かは忘れたものの、汲み上げた井戸水をコップに入れて戸外に出た父と私は、歯磨きを競い合い、笑い転げて後、一家揃い東の生駒山を観上げながら散歩に出かけました。
村中を走る土道を東に歩き、国道を超えて当時は国鉄の線路にある踏切を渡り、当り一円が畑の中を歩き山地を目指すと、空にはピーピピピと鳥が鳴き、「あれは雲雀やよ」、と母が教えてくれました。 今のように伊丹や泉南を目指す旅客機や自衛隊のヘリコプターの騒がしい音もなく、自動車のエンジン音も、パトカーや救急車のサイレンも聞こえずに静寂そのものでした。
何処までも土の道を誰にも出会わずに歩き、やがて右手を父に、左手を母に取られて、両脚を中に浮かせた私は、父母に我が身を預けて空に浮きました。 私が笑うと父母も共に笑い、その笑いを受けて観た空が何処までも青かったことを今でも思い出します。
数十年後に同じ道を辿ると、その様相は様変わりをしていて、辺りは街中と同じ喧噪に包まれています。 当時は周囲が田圃と畑の大阪の郊外も、今や市街地になり、ただ、残った田圃と畑が当時の面影の一部を彷彿とさせるだけです。 当時は縦横に走っていた水路もその多くは地下に潜り、或は、下水道に取って代わられました。
空き地で紙芝居屋さんを待っていた多くの子供はいなくなり、公園にも子供たちの嬌声が響きません。 親子で散歩する姿も無く、多くは自動車で通り過ぎるだけです。
あの時に飴玉を病床にあった私にくれた紙芝居屋さんは、どうなったのか。 お見舞いに来てくれた近所の子たちは何処へ行ったのか。 この間の時間の経過が全てを消し去るのか。 そうでは無い、と内なる自分が言い聞かせます。 私を元気づけてくれただけでは無く、両親も元気にしてくれた紙芝居屋さんのプレゼント。 私も誰かにしてあげれば良いのだから。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0147:150810〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。