どこにいるのか?―はみ出し駐在記(41)
- 2015年 8月 22日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
毎週のように知らないところに出張していれば、必ずどこかで道に迷う。慣れはしないが、しょっちゅう迷っていると、多少のことでは驚かなくなる。事故でも起こさなければ、人に聞きながらでも目的地にはたどり着ける。
ちょっと分からなくなった程度なら「道に迷った」という言い方でいいのだが、どこにいるのか皆目見当もつかなくなってしまったとき「道に迷った」では言葉が足りない。もっといい言い方もあるのだろうが見つからない。ネイティブでもないのに、英語の「lose my way」とか「got lost」あたりの「lose」か「lost」の方がまだしっくりくるような気がする。
久しぶりのオーランド(フロリダ州)出張だった。空港から客先に向かって走っていたら、グレープフルーツ畑があった。遠目にはグレープフルーツの実が葉の緑に混じっていくつもの黄色い点にしか見えない。遠すぎて大きさの感覚がつかめない。畑の大きさも、実の大きさも絵のように見えるだけで実感がない。
いつものように軽くトラぶって、一晩余計に泊って翌日ニューヨークに帰ることになった。慌てて帰ったところで事務所に出れる時間には着かない。朝ゆっくり起きて一日かけて帰ればいい。事務所には申し訳ないが、一日移動日になってしまった。
グレープフルーツ、名前は聞いていたが見たことがなかった。赴任するまで、ぶどうの一種だと思っていた。先輩駐在員から聞いていた、どこまで行ってもグレープフルーツしかないグレープフルーツ畑を一度は見てみたかった。フロリダの客は何軒もない。出張する機会も限られている。こんな機会はめったにない。この機会を逃せば一生グレープフルーツ畑など見ることもないかもしれない。
ゆっくり朝食を食べて、空港に行く途中でグレープフルーツ畑に寄り道した。遠目にも大きく見えた畑だが、その場に着いて、端が見えない大きさにちょっとした感動すらあった。目の前にはグレープフルーツがたわわになった林しかない。手入れがゆき届いている。ほぼ同じ大きさで同じように実がなったグレープフルーツの木が整然と並んでいた。
畑の中に真っ直ぐな一本道があった。思い切って一本道を真っ直ぐ入っていった。どっちを見てもグレープフルーツしかない。畑の中を舗装されたきれいな道が碁盤の目のように走っている。道の名前もなければ信号もない。制限速度もないしひと気もない。いくら走っても車にも人にも出会わない。ただただグレープフルーツの林が続いていた。気の向くままに右に曲がったり、左に折れたりしてグループフルーツ畑の変わらない景色のドライブを楽しんだ。
そろそろ空港に向かうかと思ったとき、とんでもないことに気が付いた。広大なグレープフルーツ畑の中にいるのは間違いないのだが、自分がどこにいるのか分からない。富士山麓の樹海に迷い込んだのと似たような状態なのだろう。どっちに行けばいいのか分からない。分からないといって、そこに止まっていてもしょうがない。あちこち走ってみたが、どっちに出口があるのか見当がつかない。
どこをいくら走っても見える景色はグレープフルーツの林で何も変わらない。かなり焦った。何度か止まって、どうしたらいいのか考えた。そこまでいってしまうと、フツーなら思い浮かぶ考えすら出てこなくなる。焦って走っては止まって、違う方向に走っては止まって、どうするかと考えようとするが、考えが浮かばない。
幸いフライトの時間まではかなりの余裕があったし、ガソリンも十分あった。考えた挙句、ええーい、ここまできたら一つの方向に決めて走り抜くしかないかと思いだした。ほぼ真上にあった太陽が多少傾きかけてきて、東西の想像がつく時間になったので助かった。入ってきた方向の想像をつけて真っ直ぐ走って行ってグレープフルーツ畑の端に出た。畑から抜け出たとき、それまで緊張が解けた。一時はどうなるのかと思ったが、抜け出てしまえば、それまでの焦りがウソのようになくなってしまう。前後の気持ちの違いに気が付いて、人の気もちなんてのはその程度のものかと自分であきれた。そのまま真っ直ぐ走ってガススタンドを見つけたときは正直ほっとした。まるで砂漠でオアシスを見つけたような感じだった。
ピッツバーグ(ペンシルベニア州)で夜遅くまで作業してニューヨークに戻ろうとしていた。ニューヨークまではいくら飛ばしても八時間以上かかる。ペンシルバニア・ターンパイクはアメリカを東西に結ぶ幹線の高速道路だが、まばらな町を結んでいて、出入り口から次の出入り口まで数十マイル以上あるところもある。幹線道路のくせに町を抜けると街路灯もない。
見えるのはハイビームで照らされた範囲だけで、それ以外は真っ暗闇で何も見えない。制限速度を遥かに超えた速度で走っているのだが、ヘッドライトで照らされた高速道路の景色には何の変化もない。視野狭窄の上に動かない同じ地面を見ている錯覚に陥って走っている感覚がなくなる。どこにいるのか分からない。走っていて怖くなる。
そこに前を走っている車を見つけた。制限速度をちょっと超えた速度でゆったり走っていた。フツーだったら、さっさと追い越してしまうのだが、後ろに付けて、その車のテールランプを見ながら走っていった。暗闇に提灯を見つけた気になった。提灯との距離を一定に保って何も考えずにゆったりと付いて行った。
かなりの距離を走って、前の車の前に信号を見つけたときは何が起きたのか一瞬分からなかった。高速道路に交通信号?ありっこない。テールランプを見ているだけで、ぼんやりしていたのだろう、前の車が高速を下りたのに気が付かないで、そのまま付いて来てしまった。回りは真っ暗で何も見えない。地図を見ようにも、自分が今どこにいるのか分からない。
カーナビなどない時代、どこに行くにも地図しか頼るものがない。ただし、地図は自分がどこにいるかが分かっていて、ビルやストリート名など何らかの目印で方向を知る手立てがあって初めて頼れるもので、現在地と方向が分からなければ役に立たない。
グレープフルーツ畑の時はまだグレープフルーツが見えたし、太陽があった。今度は真っ暗闇では何も見えない。あるのは自分の車のヘッドライトのあかりだけだった。どうやって高速に戻るか?前の車に付いて走ってきたときの、あやふやな記憶をたぐりだした。大きく曲がった記憶はない。道なりに真っ直ぐ来たはず。信号でUターンして道なりに真っ直ぐ戻っていった。真っ暗闇の中ただ付いて走ってきただけで、何の記憶があるようなないような。ありもしない記憶をたぐりよせるているような気がして落ち着かない。いざとなればどこかに止めて寝て、朝になってから走ればいい。そう思ってしまえば気が楽になる。パニックに陥らないよう慎重に走って行った。
周りは真っ暗、ヘッドライトで照らされただけの景色は変わらない。そのなかをゆっくり走っているからか、たいした距離でもないのにかなりの距離を走っているような気になる。もしかしたら、このまま走っていっても、高速の入り口にはたどり着けないかもしれないという不安が頭をよぎる。真っ暗闇で怖い。
不安を打ち消そうと、この道を走ってきたはずなんだから、このまま走ってゆけば高速に出れるはずなんだからと、自分でも信じきれないことを自分に言い聞かせて、だらだら走っていった。
遠くに明かりが見えたときは、ほっとした。グレープフルーツ畑のときと同じで、過ぎてしまえば大変だったことをケロッと忘れてしまう。街路灯なしの高速を、それこそ口笛吹き吹き一人ドライブで東にひた走って、だんだん明かりのあるところに出来てきた。早朝にはニューヨークに着ける。帰ったところで誰が待っている訳でもない下宿。帰巣本能なのか、ただ帰りたかった。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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