『数理と実践2015』(1)8月の時事史観の粗描から(2)基点としての「政党」立て直し
- 2015年 8月 23日
- 交流の広場
- 武田明
(1)8月の時事史観の粗描から
ちきゅう座だけを取ってもひとつの小宇宙を形成しているのだろう。
それぞれの読解と整合性を問うだけでもかなり面白いものがあるのですが、それをやっている時間の猶予がある人は羨ましい限りであるのだけれども誰にもその様な余裕はないのではないだろうか?
自身の文章を書きだすだけで精一杯の状況である。
しかし、沈黙する大衆や労働者、国民の大部分は、「知的遊戯」としてのちきゅう座にさえ辿り着けない事の問題点を置き去りにしている事の盲点をいかに埋められるべきか必死に問いあがいている状況でもあるその「蟻地獄」が、長らく続いている、否、生きていることそのものが、そして、「ちきゅう史」そのものが、そのような本質的「蟻地獄」として形成されているのではないかと勘ぐりたくなるやも知れない。
「ちきゅう座」も実は、「たんぽぽ舎」「テント日誌」などなどの複合体として、「場」を形成しているのであるが、もはや、単体として、日本の政治改革、教育改革等の「数理と実践」としての広報としての拠点としての限界もあり、先鋭であり、知的良心としての結集として、小粒でも一貫性を持って広報する限界と矛盾も指摘されないわけではないだろう。
サザンオールスターズのかつての言い分ではないが、どんな良い歌詞、曲であろうとも聴かれ読まれることがない世に出られない「不遇」の中では、「無」に等しく「独善」としての限界を持たざる負えない。
ベルトルッチが、ゴダールを評して、月面を回っている衛星の様に、光を内側から放っているそれのようだと言っていたようにである。
ちきゅう座的知性の不遇を脱し、大衆の広場へと再び、直接民主制のソクラテスの広場へと引っ張り出すにはどうしたらよいのか?
内宇宙から外宇宙へ、正当なる対話と助産術的学的基盤を確保する事であるのだが、シールズが、それの一部を担っているであろうし、また、インターネットの横への広がりから、また、跋扈する「対案詐称論理」を繰り返し潰していく説明を以下の様にしていく事かも知れない。
http://www.asyura2.com/15/senkyo191/msg/130.html
ちきゅう座だけでさえ、読解、整合性を考察するのに余りあるのに、「阿修羅掲示板」まで手を伸ばすことは、更に、人間業を越える事であるのかも知れない。
しかし、テーマとしては、共通性もあり、一貫性もあるのは、「安保法制」を問題としていたり、政治的社会的問題を問いているからでもあるのだが、しかし、大部分の大衆、労働者、国民は、その時代の従者であり、多くの時間を労働時間に取られている、せめて、少ない余暇の時間は、スポーツ観戦や肩の凝らないバライティ番組で過ごしたいのだ。
それが、時の独占資本、政治的独占をいつまでも温存してきたる繰り返されて来た悲劇であり、ちきゅう史的本質ともなっていた打開すべき一点であったのだろう。
では、どの様に「転換」すべきであるのか?
論理的必然性と「人間本性論」を合致させていくべきであるのだろうか?
(2)基点としての「政党」立て直し
『資本主義の終焉と歴史の危機』
『20世紀の資本』統計学的格差分析。
そして、弱体化する軍需アメリカと安保法制からの転換としての真アジア外交政治は、如何に開始されるべきであるのかの問いが、「ちきゅう座」そして、「阿修羅掲示板」にも通底している問題意識であるのであるけれども、
前回の「朝まで生テレビ」でも「自民党を抑えていたのは社会党でも共産党勢力でもなく派閥政治であった」
そして、前回のサンデーモーニングで姜尚中氏の指摘としても
「(前者的余暇をスポーツ観戦バライティ番組で過ごしたいとする)生活保守主義が、多数者として自民党を選択してきたのであるが、安倍政権は、ある種、<革新>としての右傾化を選択した。小選挙区制が、それを、(ファシズム=戦前化)を可能にした」
日本の戦後の悲劇は、この様な「派閥政治」としての《模倣民主主義》であり、《詐称》に支配されて来たことに他ならない。
昨日、土曜日(8月22日)、池上彰のニュースそうだったのか!!「丸わかり安保法制」「丸わかり日韓関係史」の大衆的でわかり易い説明の中で、時間的制約もあり、
更に、池上彰、師と生徒としての在り方ではなく、田原総一朗氏や辻本清美、山本太郎氏などなどをゲスト席に座らせてそのまま、「朝まで生テレビ」モードで、展開できるなら理想的でもあるのだけれども、それでは、やはり、大衆、労働者、国民を途中から置き去りにする「混乱」によって、収拾できなくなるだけでしかないので、テレビ朝日系列の二つの看板番組は、二分しながらやっていくしかないのだ。
その説明にて、具体的に「そうだったのか」的にやはり、大衆的に、絶句するのは、二つの独裁体制である、北朝鮮と韓国の明暗であったり、韓国の独裁制から民主制への移行の極最近性と反日の関係論、ワンクッションおいてから議論するしかない歪みがある事であり、冷静なる「テキスト分析」として、体系化が求められているだろうと言う事に他ならない。
池上彰解説は、やはり、入門的不満があるのだとしたなら、それを更に、敷延しつつ補完完成したるテキストを「ちきゅう座」的に体系化すべき時であるその大衆性からテキスト性としての延長体系として提示する「関係」を問わねばならない。
しかし、まずは、疑似詐称民主主義である「派閥政治」もしくは、「何も決められない」「中選挙区政治」としての民主主義の盲点、帝国主義資本主義分析としての国民的素養問題を「教育的配慮としての政党」の確立と独立の問題が、ここでは何にもまして、優先されている問題意識である事に気が付かねばならないはずである。
その具体的な実践的基盤として、植草一秀氏の実践力に期待するものが大きいのだが、
AJPC[オールジャパン:平和と共生]
「緊急集会 『ぶっ壊せ!アベ安保法制』」
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/826-1853.html
8月26日から9月、そして、10月へと集会の予定が詰まっている。
「日本一新の会」「小沢一郎」「山本太郎」「孫崎享」氏、などなど連携が期待されている中で、ちきゅう座としては、リンク連携、または、「対話、討論」的連携の可能性は、ないのだろうか?
一愛読者として、そこが気になっている。
ちきゅう座は、「理論と思想」中心(もしくは、学識中心)であり、「政治と実践」ではないのだろうか?
そもそも、実践とは何かが今、再び問われているように感じている。
自民党は、既に、順位制政治独占体制として、平成28年参議院選挙候補を決定しつつ、インターネット広報をしているのだ。
https://www.jimin.jp/news/activities/128460.html
数理的に、「盲目的な権力への意志」を排して、アンチ独占資本党として、日本共産党も交えたる健全民主主義政党たるオールジャパン「平和と共生」(AJPC)党宣言として、「自民党独占党」解体から真民主主義へと実践的一歩を踏み出さなくてはならない時である事を理解しなくてはならないのではないだろうか?
「ちきゅう座」諸氏の意見を是非、問いたい。
付録、時事史観的失敗草稿(多分に重複部分を含む数日前の今回の前形)(暇のある方だけ見てください)
http://revolutio.exblog.jp/22033362/
疲れたな~もう朝になりました。
続く。
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