『大アジア主義時代における日本の役割~革命の神話』序説(映画『カイロ宣言』面白そう。の巻)
- 2015年 8月 26日
- 交流の広場
- 武田明
前半。
(1)映画『カイロ宣言』は、「日本のいちばん長い日(リメイク版)よりは面白そうだ(2)中国がアメリカを抜くとき(3)ヘーゲル(宗教学)<フォイエルバッハ(人間学)<マルクス(唯物論)の図式と世界の今日的確認
株式支配についての中国指導の世界的暴落共同体性については報道ステーションなどにおいてもそして「ちきゅう座」内においても報告、報道されているところである。
しかし、それが、何であるのか?
その「結語」「結論」「帰結」性については、今だ「評論」にまでさえ到達されていない段階の様に思える。
爆買い=消費者=資本主義需要担い手として中国は、際立って日本においても表層的に話題とされている。
そのあり方を不況下の日本の庶民は、羨望を持って眺めている状況である。
しかし、中国が、偉大なのは、四大文明の一つを担っているからでも、長い間、王朝としての伝統を有しているからでもないと感じているし、儒教と中国文学、『三国志』『水滸伝』その魅力の模倣(コピー文化)としての大河ドラマがあり、SF文学もある文化史的影響がいまだに日本大衆の『心』を魅了し続けている事である。
一体、コピーしているのはどちらなのだろうか?
更に、中国礼賛は、西側知識人さえ魅了し続け、『中国女』から『ラストエンペラー』までの展開については、既に、触れている。
昨日、ニュース23にて紹介された映画『カイロ宣言』のSF手法?は、かなり僕の中では、ヒットする(心躍るもの)があった。
散々やってきているハリウッド的そして、ゴミ屋敷資本主義としての日本のゴミドラマの垂れ流しよりは、「革命の神話」としての戯画にとんでいたものと感じていたからだ。
神話から唯物論へ。
戯画、象徴性、SF性としての自由性と理性性の問題は、次に来るものであり、その旧約聖書から有史、西暦論は、別の意味で、語りなおしたい欲求は、柄谷行人の『世界史』の中にもある。更に、博物学的歴史から思想(=抽出)としてのディフォルメとして、多様性の中で、問い出されているのは、当然の事でもある。「情報がない」故の日本の大衆の遅れ。大本営NHKが、隠蔽している事への抗議。
それは、日常性、わかり易さ、単純化の中へ封じ込めているものを、SF的であったとしても大胆に歴史的問題点を描き出さんとしている『はだしのゲン』『カムイ伝』の方が、数千倍ましであり、それが、大衆文化的継承であり、「共産主義的共有」性でもあるのであり、『三国志』『水滸伝』の世界の継承、『八犬伝』にまで続いて来たものであるだけであるのだろう。
さて、いまだ、『転向異論』も未完のままであるのだけれども、言わんとしているのは、吉本隆明氏のNHK番組での問題意識、天皇主義者から戦後主義者へ。更に、全共闘主義者から会社主義者への盲目的権力への意志としての無節操なる「変態(メタモルフォーゼ)」「現象」「転向」としての「エゴ」か「自然=唯物必然性」かそれに基づく資本主義にまつわる問題意識と人間存在論を体系的に解決したいとする視点に他ならない。
若松孝二監督『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012)とかつてのゴシップ的海外向けの緒方拳『MISIMA』があるわけだけれども、三島由紀夫自身、戦前主義、天皇主義からの「転向」「メタモルフォーゼ」を良しとしない「遅れてきた青年」を最期まで演じて「変態」しない事も「転向」しない事もやはり、「ドン・キホーテ」でしかない事に変わりがなく、映画、前半にて、東大全共闘との論争があるのだけれども、わかっているようで、「観念の遊戯」をしている事から「大衆的羞恥」として、やっぱり日本の知識人=最高学府としての東大は、バカになったのか?
『天皇と東大』(立花隆)の範疇にあるのか?
それ故に、朝まで生テレビによって、リベラルが、衰退したと「アエラ」佐藤優特別編集号にも書きだされている通りでもあるのだ。
戦前主義からの転向問題は、確かに、「断じて許されない安倍談話」において、「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」
解き放たれている。
だが、天皇主義とは、如何なる宗教であるのか?伝統主義であるのか?文化であるのか?その問いは、あるのだ。
それを
(3)ヘーゲル(宗教学)<フォイエルバッハ(人間学)<マルクス(唯物論)の図式と世界の今日的確認として、今は、信者を持たないギリシア神話の魅力も交えて、体系的に語りたいわけであるが、
矢吹晋著『敗戦・沖縄・天皇』を読む-「受動的主権」天皇制という視点
http://chikyuza.net/archives/55770
奇怪な右派団体、「日本会議」
http://chikyuza.net/archives/55787
とにかく、「日本」をかんむりとする団体は、信用ならない。
田中康夫「日本新党」
「月刊日本」の植草一秀、佐藤優
「日本一新の会」などなど。
「日本主義」「天皇主義」としての対立点が、実は、SF性、戯画性、映画『カイロ宣言』性として、付きまとっている。
偏重の思想、経験主義的イドラ。
それを、明確にしていきたいが、今朝も時間切れ。
出来うるなら今晩に続くとして、後半に期待されたい。(植草ブログ風に)
原注(こちらも、今晩、補正していきます。
http://revolutio.exblog.jp/22078898/
取り急ぎ続く。
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