ミサイルにコバンザメ―はみ出し駐在記(44)
- 2015年 9月 1日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
数少ないボストンの客にレイセオンがあった。古いフライス盤の修理で出張するまで、エアラインの予約システムや航空宇宙関係の会社だと思っていた。
レイセオンの受付に着いたら、会社名や氏名に国籍と米国市民かどうかをノートに記載するように言われた。どこにでもあるノートに項目分けの縦線を引いただけのものだが、そんな記載を求められたのは、後にも先にもレイセオンだけだった。えっと思ったが、日本で客先の工場にお伺いしたときに、守衛所で書かされる表のようなもので、特別なものにはみえなかった。
さっさと書いて早く現場に行って作業を始めたい。書き終わって、工場へのドアを開けてくれるかと思ったら、受付の女性に「米国市民か?」と聞かれた。なんで聞くの?「そこに書いた通りJapanese(日本人)だ。」と答えた。どこにでもいるフツーの日本人、国籍は分かるが、市民という意識はない。国籍は日本で日本人。日本の市民かと聞かれれば、日本人だから、そういうことになるんだろうなというくらいの感覚しかない。
また、「米国市民か?」と聞かれた。おいおい一体なんのつもりなんだ。「見りゃ分かるだろうが、どうみたってアメリカ人には見えないだろう。」「日本人」だって言ってるじゃないか。また、「米国市民か?」と聞かれた。三回目だ。いい加減にしてくれ、英語だって日本語なまりの英語だし、胴が長くて脚が短い、誰がどう見たってアメリカ人じゃない。何度言ったら分かるの?日本人だって。頭おかしいんじゃないの。何なんだ、この受付はと思って、声を大きくして、「日本人」だって言った。ここで状況を察して、ウソも方便で「米国市民」だという機転は利かなかった。
そう、それじゃしょうがないねって顔をして、「ちょっとそこで待ってて、オフィサーが来るから」と言われた。しょうがないって顔?オフィサー?なんだそれ?なんでもいいから早く来てくれ、さっさと機械の修理を始めたい。オフィサー、なんだか偉そうな響きがあるが、いったいどんなのが出てくるのかと思って待っていたら、腰に拳銃をさげた小太りのお廻りのようなオヤジさんが出てきた。
「今日は一日セキュリティの関係で一緒にいることになる。」というようなことを言われた。現場で作業を始めるまで、何を言ってるのか分からなかった。オフィサーに連れられて故障した機械の前に着いた。周りを見てドキッとした。機械の数メートル先に綺麗な流線型をしたミサイルの先頭部分(胸の辺りまでの高さ)が数十本並んでいた。修理する機械でミサイルの部品を加工していた。
作業着を持ってトイレはどこだと聞いたら、こっちだといいながら歩きだした。「オフィサーって親切だね、トレイはあっちだと言うのではなく、わざわざ案内してくる。」口には出さないが、そう思った。トイレに着いて、えっ?なに?オフィサーも一緒にトイレに入ってくる。ああ、小便でもつかえていたのかなと思ったら、用を足すでもなく、ただ立っている。なんだこいつと思いながら、着替え始めても、ただ前に立ってこっちを見ている。そっちの趣味はないんだけどなと思いながら、さっさと着替えて機械に戻ろうとしたら、オフィサーが後ろから付いてくる。もう、用はないからさっさと仕事に戻ったらいいのにと思いながら、機械に戻った。
オフィサーが機械の前に立ってこっちを見ている。うっとうしいヤツだ。「機械の修理を始めるから、もうあんたには用はないし、仕事に戻ったら」と言ったら、「今日は一日、お前を見てなきゃならない。」おいおい冗談じゃないぜ、お前みたいにうっとうしいのにうろちょろされたら、しっこないチョンボまでしかねない。せめて、そこらの何かに座って明後日の方でも見ててくんないかなと思っても、しょうがない。うっとうしい監視のもとでの作業になった。
フライス盤の何がおかしいのかチェックしようにも、切粉や切削剤でぐちゃぐちゃで手を付けられない。アメリカ人も歯医者に行く前には、歯を磨くと思うのだが、障害を起こした機械の修理をメーカーに頼んでも、前もって機械を掃除しておくという常識(日本の?)がアメリカにはない。
掃除しようとしたら、作業者に止められた。「掃除には掃除の組合員がいる。」「組合員でもないお前が掃除したら問題になる。」掃除は組合員に任せなきゃだめだという。全く、面倒な会社でというのか、労働組合というのか、ウソだろうと思いながら、じゃあ、掃除の手配をしてくれと作業者に言って、バッグから組立図と電気回路図を出して、作業の準備をして待っていた。時間にして十分、十五分程度なのだが、機械を前にして機械に手をつけられないもどかしさのせいで時間を長く感じる。
機械系の測定は難しいが、電気制御系は測定できる。そのため障害の原因は電気制御系から追いかける。電気制御盤を開けようとしたら、また作業者からストップがかかった。「電気工事組合の人でなければ配電盤を開けられない。」電気屋を呼んでもらって、また待つこと十分、十五分。掃除人は掃除が終わったらいなくなったが、電気屋はこっちが電気制御系から障害の原因を追いかける作業をしている限り、その場にいる。後日知ったが、彼らの本来の仕事の仕方であれば、電気屋にこれこれをしてくれと依頼するまでで、メーカーのサービスマンは実作業をしない。
障害の原因追求の段階では、そんなまどろっこしいことはできない。障害の可能性がここかもしれない、あそこかもしれないと考えながら、可能性を一つひとつ消去してゆく作業で定型業務ではない。電気屋はオフィサーと同じように、こっちがすることを見ている。オフィサーはちょっと距離をあけたところにいるが、電気屋は作業の直ぐ傍にいる。邪魔なだけで何の役にも立たない。ただただ、うっとうしい。
作業を中断して、判ったことを整理するために一休みした。まずトイレに行って、それから何か飲み物でもと思った。さっき歩いてきた途中に自販機があった。オフィサーに一休みと伝えて、トイレに向かって歩き始めたら、案の定付いてくる。おいおい止してくれ、トイレまで付いてくるんか?小便をしている間、後ろにオフィサーが立って見ていた。自販機にも付いてくる。自分だけコーラを飲むわけにも行かない。コインを入れて、「オフィサーに好きなものを押せ。」全くうっとうしい。受付で何度も「米国市民か?」と聞かれた意味が分かった。受付の人もオフィサーもこんな面倒なことをしたくはない。何人でもかまわないから米国市民と言って欲しかったのに気がつかなかった。一度でも経験していれば、涼しい顔して国籍は日本だが、米国市民だと言うが、はなからそんなこと分かりっこない。
自販機の缶詰とサンドイッチで昼飯を済ませたが、買いに行くにも、食べているときもオフィサーが一緒にいる。オフィサーの同僚がオフィサーのランチボックスを持ってきて、機械の横で二人で一緒に昼飯を食べた。美味くない昼飯を不味く食べた。喉が渇くからコーラを何度も買いに行く。何度目かにはオフィサーが遠慮したというより、もう飲みたくなかったのだろう。それでも仕事として自販機まで付いてくる。こっちは作業をして汗をかいているが、オフィサーは立ってるだけで汗などかかない。
午後、遅い時間になって、これだけはちょっと勘弁してくれと思っていたことが起きた。トイレに行きたい。ドアを閉めて座り込んで、ドアの向こうにはオフィサーが立って、ドアの下から見えるこっちの脚を見ている。空いているトイレのドアは開いているが、閉めてもドアの下の方は空いているから、入っている人の脚が見える。ただ見えるのと見られていると思うのでは気持ちが違う。脚のちょっとした動きから、用足しのどのプロセスにいるのかまで想像されるかと思うと、落ち着かない。
一日中オフィサーというコバンザメに監視されてうんざりしたが、そんなつまらない仕事をしているオフィサーとは、いったいどういう人なのか気になった。個人の性格というより職業柄なのだろう、何を言っても、短い返事があるだけだった。それでも、一日中一緒にいれば、親しみというほどのものでもないが、お互い話し易くなる。
修理の目処もたって、気持ちに余裕が出てきた。このまま帰るのはちょっともったいない。夕方ミサイルの誘導部分の組立てを見せろと何度も言って、二人で隠れるようにして見に行った。一日中一緒にいて、見せたところで何が分かるわけでもない一介のサービスマンと思ったのだろう。確かに、それは素人目には何なのか分からない。ちょっと凝った造りの電子基盤の塊だった。
セントルイスのエマソン・エレクトリックでは戦車と機関砲を作っていたが、セキュリティは一般の製造業と同じで何も特別なことはなかった。同じ軍需産業でも、技術的には成熟しきったというのか、枯れた感のある戦車や機関砲と最先端技術の粋とも言えるミサイルではセキュリティのレベルが違うのだろう。
レベルが違うのはいいが、担当者は面倒なことはしたくない。アメリカ市民だと自己申請すれば、エマソン・エレクトリックと同じレベルになってしまう。現場で、個人個人の知識と能力に基づいて、個人の判断で規則を運用する。日本人のように規則を厳密に適用しなければという文化がない。ここまで緩いと一体何が規則なのかとう気がしないでもないが、担当者が自分で判断する能力まで否定した厳密な運用に、どれだけの意味があるのかと考えさせられる。
規則を規則として機械的に運用してゆくと、運用するのが目的になってしまって、何のための規則なのか、何を目的とした規則なのか考えなくなる。そこまでゆくと、人が作った規則が人の上にある状態-大げさに言えば、人の能力と判断、その先にある尊厳までをも否定することになりかねない。
それこそ主客転倒、好きになれない。担当者の判断に任せる余地が残っている方が余程人間的だと思うのだが、自分で考えて判断すれば責任が生じる。それを避けようとする傾向の強い人たち(多くの日本人?、ドイツ人も?)には、規則の機械的な運用の方が責任もないし楽なのだろう。
その先には、兵士(サラリーマン)の多くが規則を規則として、戦争をしてきただけで(仕事をしているだけで)、問題になったとき、責任はないという主張があるような気がしてならない。
規則なんてのは、所詮人間(誰か)がつくったもの、規則を守ってるからいいじゃないかというのも、自分たちでつくった規則に縛られる、縛られたふりをするのも、他人を縛るのも、人としての責任逃れでしかない。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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