小説 「明日の朝」 (その2)
- 2015年 9月 8日
- カルチャー
- 小説川元祥一
2
赤い目を前にして立ち止まると、前方に灰色の巨大な鉄塔が見えた。人の頭上を見下ろすかのような、大きな存在感のある鉄塔ではあったが、昼間の太陽の下ではそれがなぜそこにあるかわからい、不思議な、無意味とも思える存在だった。しかし夜になるとそれが輝く。そして、まさかそこに人が大勢いるとは思えないのに、突然その下から、まるで数万の人がいて、何かに酔っているか、コントロールされているのかのような、大きな歓声が起こることがある。状況を知らない人がいたら、それはとても信じられない現象だろうと思うところだ。が、鉄塔の下には、人を吸い込むのを宿命とした堅牢な建築物が続いている。それだけでなく、その周辺でも、人を喰い続けなくては生きられない大小の建物が立ち並び、一人の人間の可能性では計り知れない領域を、気の利いた樹木で囲む、現代の王国とでも言えそうな施設の、その一角にある塔だった。
信号を渡って、黄昏の薄明かりがただよう施設の広場に入って行くと、右側の低い平らな建物の前でついもと違った空気を漂わす人溜まりが出来ていた。平崎はそんな空気を気にしながら人だまりの横を歩いて建物の通路に入った。通路に置いたフロントボックスに体の大きい長安がいて不安げな顔で人溜まりを見ていた。そんな長安の表情で人溜まりがどんな性質のものか見当が付くというものだ。人溜まりの中にローラスケート場の草色の制服を着た男が混じってもいる。だからこの人溜まりが、この後スケート場にとって不穏な方向に動く可能性もありそうだ。
平崎は手を挙げて長安に挨拶を送りフロントを通った。そのフロントの奥に、リース契約で時々取り換えられる安っぽい棕櫚の植木鉢の茂みがあった。そしてその奥の広いガラスの壁。さらにその向う、変に明るい照明で開かれた空洞にも似た空間があった。そして、その下で群をなし、それ自体何の意思も持たないかのような、分厚くてまだら模様の、沈黙がちな人の群れが、ゆっくりと、絶えることもなく渦巻いている。
いつもの光景を見ながら平崎は右側の事務室のドアを押した。ドアの右側にある放送室のカーテンが半分開いており、指を反り返してマニキュアを塗る山田芳美が手をとめて平崎を見上げた。彼は山田に声を掛け、その先の人気のない事務室に入った。いつもは休憩中の社員が何人か事務室に集まってゴロゴロしているのだったが、彼らはみんな路上の人溜りにいる様子だった。彼は事務室を横切り、奥にある宿直室のカーテンを開ける。薄暗い空気の中にすえた汗の臭いと履き古した靴下の臭いが溜まっている。彼は電燈もつけずに宿直室の座敷に上がり、着て来たジャンバーを脱いで夜警員用の紺色の制服に着替えた。そうしていると、自分の体を包んでいるなまぬるい肌もまた、宿直室のすえた臭いに沈んでゆくのが感じられた。いつものことだった。
制服に着替えて事務室に下りて行くと、自分が今入って来たフロント側のドアがあいて数人の社員が入ってきた。
「何かあったの?」
腹を突き出して、興奮気みな顔で入って来た丸尾に平崎が聞いた。
「チンピラを一人放り出したんだよ。そしたら組の野郎が集まって来てよう、文句言いやがるから、酒飲んで入っちゃだめだって言ってやったんだ。本当は酒じゃないんだ。ヒロポンよ。だけどそれ言ったらかわいそうだからさ、酒だって言ってやったんだ。そう言ったら組みの野郎も俺の気持ちがわかって、いちゃもん付けずに行ったよ。最初は無理矢理放り出したから、奴ら得意の落とし前とろうとしたんだな」
「入場券なかったの?」
「ねえよ。持ってたってあんなにフラフラしてんじゃ放り出すよ。他の客に迷惑だよ」
「目がトロンとしてるからすぐわかるよ」
丸尾の後から入って来た鈴木が言った。
この遊園地には鉄塔を建てた勢力とは別に、それより昔から、影の勢力とでもいえる勢力があって、そうした勢力に所属する者はこの遊園地のどんな施設でも只で入ることが出来た。その理由もよく分からないのだったが、まあ、この国ではよくある事、と多分みんなが思っている事かも知れない。平崎もなぜかそう思うのだったが、一度だけ丸尾にその疑問をぶつけてみた。すると「昔からのしがらみなんだよ」という答えだった。そして「トップの方が弱み握られてるからしょうがねんだよ」とも言った。しかし会社側が配布する従業員規則では暴力団の無料入場を断わるよう指示しているのだった。警察の方からもきつく言われているとも書いている。だからよけいにわけがわからないのだったが、アルバイトとはいえ夜の警備をまかされている夜警員としては無関心ではいられないところだった。
「山田さん、放送でさあ、ヒロポン打ってる人は出て行って下さいってきつく言ってよ」
若い鈴木が放送室で山田芳美をからかっていた。
「嫌よそんなの。後で何されるかわかんないもん。鈴木君が言いなさいよ。マイク貸したげるから」
「やだやだ」鈴木が放送室から出て来る。
平崎は彼らを残して事務室を出た。フロントの箱の後ろを横切って広いガラスの壁の横にある階段を上る。
階段を昇って行くと、中二階の踊り場あたりで地鳴りのような音が耳に入り、だんだんと湧き上がる。フロントのガラス壁に遮られていたローラスケート場内の騒音が、階段の上ではストレートに聞こえてくる。上から見るスケートリンクは、何かに操られながらもなぜか沈黙を続ける意思を持たない従順で我慢強い群衆の渦のように見えるのだっだ。
二階事務所の窓を見上げると、二人の女事務員が見えた。いつもそこにいて、場内を見下ろしているかのような支配人の姿がないのが幸いだった。
ドアを開けるとそこに、四月に入社したばかりの小暮定子が立っていた。彼女は夜警員用の夜のタイムレコーダーと夜警日誌帳を両手で持って、彼に声を掛ける。
「ごくろうさまです」
新人らしいういういしさがあった。
「ありがとうさん。いつも親切に待っててもらって、ここに来るのが楽しみだよ」
「わぁ、そう言ってくれるの平崎さんだけ」
「でも今日はね、奥のお姐さんに特別な用事があってね」
夜警用小道具を受け取りながら言った。
「何よ私に用事って?」
奥の女が振り向きもせずに言う。女の中ではこの職場で最も古株になるらしい野田達子だった。
平崎は野田の横まで行き、彼女が顔を上げるのを待った。
「どうしたのよ、気持ち悪い。何か言いたい…。あっもしかして?」
「多分その通りで…」
「前借?」
「ちょっと…」
「私に声を掛けるのはそんな時だけね」
野田が軽口を言いながら、机の引き出しから金庫のキーを取出した。
「いくら?」
「三千円くらい…」
彼は昨夜から考えておいた金額を言った。
「あら。こっちはかまわないけど、大丈夫?そんなに前借りして」
「ええ。ちょっと必要なもんで」
彼は真面目な言い方を装った。この場を早く切り上げたかった。達子のさぐりを入れる目がうさんくさい。どっちみち彼女の頭には見当違いの女が浮かんでいるにちがいないのだ。
三千円は給料の三分の一だった。達子が心配する通り来月苦しくなるのは目に見えている。しかしまあ、なんとかなるというものだ。千津子とコンサートへ行く約束をした時、金のことは念頭になかったものの、考えても考えなくても、今余計な金を作るのはこれしかなかった。
「聖子ちゃんと遠出でもするの?」
野田らし勘ぐりだ。しかしここで軽口を返してはいけないだろう。
「いや。親戚の奴が泣きこんできて困ってるんです」
野田が勘ぐる渡辺聖子は去年の春までこの事務室にいて、小暮定子と同じように夜警員の小道具を用意してくれていた。配置転換で今は向かいのアイススケート場にいる。
達子から札を受け取ると平崎はそそくさと二階事務所を出た。
「平崎さん、伯母さんて言う方から今電話あったわよ。家の方に電話ちょうだいって」
下の事務室のドアを開けると放送室から山田芳美が声をかける。彼は生返事をして事務室に入った。丸尾が机に足を上げてまんが本を読んでいた。その横に同じ貸靴係の平井がいた。
「おい、今日は誰が宿直なんだよ」
丸尾が本に目を置いたまま聞いた。
「場内の野原さん」
「おお、ちょうどいいや。俺今日夜中に帰ってくるから、頼むよ」
「いいですよ」
アルバイトの夜警員の他に従業員が一人順番に宿直することになっている。しかしそんな宿直員がちゃんと宿直室に寝ることはほとんどない。場内のどこかの部屋で遊んでいるか、そうでなければ女の子をつくって外にでる。それだけなら良いが、夜中に女をつれて戻ってくることさえあった。
「また女の子ひっかけたんでしょう」
横で平井が丸尾をからかった。
「ちがうよ。俺はそんなことしねえよ。野原と違うんだ。ちょっと用事があるんだよ」
平崎はタイムレコーダーと日誌帳を机の上に置いて、丸尾の足の先にある黒い電話器を見た。
昨日伯母の依頼で渋谷の滝沢博子に会った。そのおかげで岡谷千津子と奇跡的に出会うことが出来たし、滝沢博子も喜んで彼を迎えてくれた。しかし伯母が彼を滝沢博子のところに使いに出すその心の奥には、伯母が自分の弱みを隠す、淀んだ魂胆があるのは明らかだった。伯母はその淀んだものを決して口に出さないし、表面的にはもっともらしい理由をつけるのだったが、彼にはその心の奥にあるものが見える気がした。そして、彼自身伯母のそうした心境を理解できないわけではなかったが、伯母と一緒にその中にひたっていたたくはなかった。 もっとも、山田芳美が取った電話は昨日の礼を言うためかも知れなかった。だからこっちから電話をすると「博子さん元気にしてた?」くらいで終わるのかも知れない。しかし、それでも彼は電話をする気がしなかった。伯母に会うといつも淀みのようなものがつきまとう。彼女は若い時から豊かな能力を人に認められ、能力に見合う努力によって創りだした豊かな成果のまっただ中にいるのだったがー。
「おっと、時間が来た。丸さん交代だよ」
平井が読んでいたマンガ本を放りだして事務室を出た。その後から丸尾がおもむろに腰をあげる。一人になって平崎は習慣のように壁の時計を見た。おかしな感じではあったが、この丸い時計が全てを見張っている感じがする。それから彼は放送室に入った。
「電話した?」
「後でいいんです」
「ちゃんとしといてよ。私が受けたんだからね」
「あのさあ、ストランセスキーという男が弾いてるピアノ曲ない?」
「何それ?」
「レコードのことさ」
言いながら平崎は、アンプの下の引出しを勝手に開けてレコードのリストカードを取出した。
「そんな難しい人の曲なんか無いわよ。ここ名曲喫茶と違うのよ」
「だってショパンの曲なんか結構入ってるじゃない」
「なんて言うんだって?」
山田が彼の手からリストカードをひったくる。
「ストランセスキー」
「舌を噛みそうねえ」
「そこには無いみたいだね。ここのレコードはどこで買うの?」
「いやよ。そんな変な人のレコード買うの。ここはウンチャッチャ、ウンチャッチャっていう軽いのでないとだめなんだから。平崎さんが聴くような難しいのはいらないの」
「難しいかどうかわかんないじゃない」
「難しそうじゃない、名前を聞いただけで」
「わかんないさ」
「平崎さん聞いたことあるの?」
「いいや。だから聞いてみたくて」
「だめよ。そんな難しいの買ったら叱られちゃうよ」
「難しいとはかぎらないって」
「わかるの。名前聞いただけで難しいなって思うもん」
山田がプンプンしながらリストカードを引出しにしまった。
夜警員は午後六時三十分に会社に来ることになっていた。その後会社の営業が終わる九時まで、あまりすることがなかった。そんな時間の隙間を使って、放送室に入り、こうしてじゃれあっているのが彼の一つの楽しみではあった。
「あらいけない。レコードが終っちゃう。ほら早くどいて。そこ」
山田に追われるように立ち上がって平崎は事務室に戻った。入れ替りに場内係の冲田がスケート靴を履いたまま放送室に入って行った。と、その後すぐ、ちょっときどった山田芳美の声が場内に響き、腕時計の落とし物を案内した。
平崎がショパンやモーツアルトの曲を落ち着いて聞くようになったのはこのローラスケート場に来てからだった。レコードケースに混じっているクラッシック音楽を見つけ出し、人がいない深夜や早朝に、放送室のプレイャーを使ってスケートリンクに流す。それは爽快な時間で、最高の思いつきだ、と彼は自分で鋭に入っている。それまでクラッシックのレコードを扱ったことがなかったし、東京に来てから名曲喫茶に入ることがあっても、そこで落ち着いて音楽を聞く気にはならなかったものだった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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