ユーゴスラヴィア自主管理社会主義の歴史実験:その意味とよみがえり(ルネサンス)の兆し(2)~(1)
- 2011年 1月 18日
- スタディルーム
- 岩田昌征旧ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義
ミーラ・マルコヴィチ「自主管理者の反乱」(1993年1月26日)
ここ数日ベオグラードで、権威ある諸施設のトップが政府決定によって新しく任命されることに関して苦情が増えている。クリニック・センター、博物館、劇場などの責任者が交代させられている。これからも新しく任命される人数が増えていくだろう。どこの施設の従業員も、時にその大部分が、時にその少数者が不満である。かれらはその不満をはっきりと公的に声を高くして表明している。例えば、国民劇場の従業員は劇場の前でピケをはり、その不満が周知のものになった。何人も辞職した。政府の「人事政策」に不満を表明する方法は、他の施設ではこれからより激しくなるかもしれない。あるいはまったく逆になって、従業員はもはや決定に発言権がもてない状態に次第に慣れていくかも知れない…。
選挙のほかに(そこではただ、誰が我々に代わって決定するかを選択するよう求められている)何事にも発言権がない状態に慣れるまで時間がかかりそうである。その結果はどうなるかはっきり分からない。いずれにしろ以前は何事にも意見をもとめられたし、そういった時期はかなり長かったのである。 むろん、直接決定制には様々な障壁があった。主観的または客観的な、政治的、文化的、社会的、個人的な、善意または悪意の、必要または不必要な、官僚的なあるいは自然発生的な障壁である。旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の時代には直接決定に対する障壁については、フランス革命やローマ帝国の滅亡についてよりも数多くの研究論文が書かれている。
しかし、様々な障壁の存在にもかかわらず、これらの研究論文の大多数は、理論的にも実際的にも自主管理と呼ばれるこの決定システムに疑いをさしぱさまなかった。なぜならば、どんな新しい社会システムでもそうだが、始めはたくさんの障壁があり、出来上がってすぐには全ての長所を見い出しかねるからである。私を含めて、我々が知っている限り、ユーゴの自主管理制度に関しては、左派だけでなく、世界の多くの進歩的な政党や知識人も同じような見方であった。
しかし我々は理由を分析もせずに、職場や地域で自分の生活と労働に関係のある事柄に、自分自身で決定を下す「勤労者」の権利、自主管理、直接民主主義を放棄した。一九九〇年九月[注1.]にセルビアはいわば自由意志による全員一致で市民(ブルジョア)社会を導入し、その結果として新たな社会秩序に沿った法律を制定した。
この新しい市民的秩序がもたらした変化は、複数政党制になったために、与党もしくは連立与党が自分たちの仲間を、経済・金融・文化・教育・マスコミ・’政府などの重要な地位に任命するようになったことである。これは、どこの複数政党制度にも働くゲームのルールである。そして、例えば与党が野党に小さな譲歩をしても、それは実際民主主義的であるからでも勝利者側の敗者に対する同情からでもない。政府の安定性を危機にさらさずに、自己の民主主義的傾向も認めてもらえると思ったからである。環境・女性省、民族誌博物館、グアテマラの大使館などのトップーポジションがそういった餌になることもあるし、時には貧血症の野党指導者がリューマチ・クリニックの所長ポストを与えられたりする。
話を元に戻そう。一種の直接民主主義として自主管理制は拒否されてしまった。まず第一に、これが全体主義的傾向のある厳しくて非民主的制度だという暗黙の了解が生まれた。そして、ヒステリックな大騒ぎの中で(黙っていたほうがよかったのに、自主管理制のイデオローグや忠実な信奉者も騒ぎに参加した)、国を経済的・政治的・社会的に崩壊させた原因として自主管理制が非難された。そして自主管理制の代わりに新しい民主的、あるいは市民的システムが導入された。この社会システムにおいて、労働者は職場で何の決定に関しても発言することができなくなった。つまり、その所有者だけ、ということは国家あるいは私的所有者だけに決定権があることになった。より公正で、より現代的で、より効率的であるとして、すなわちより良いものとして、我々は意識的にこのシステムを選んだわけである。しかし、その結果、病院長は厚生大臣によって、学校長は文部大臣によって、そして劇場支配人は文化大臣によって任命されるようになった。そこで働く医者や、教師、俳優たちなどは何にも口を出せない。市民社会では、かれらにはこのような事柄について発言権がないのが当り前とされるからである。
不思議なことに、自主管理制に一番強く反対した者(そして社会主義一般に反対した者)は、自分たちで圧力をかけて市民社会を導入させた今になって、元の自主管理的諸権利[注2.]を失ったために抗議している。自分たちが望んで導入したはずの民主的なゲームのルールを今になって批判しているのである。
院長は医師によって、劇場の支配人は俳優によって、工場の責任者は労働者によって選ばれるべきだと私は思う。しかし、それは、複数政党制議会、つまり市民社会とは(特に未熟な初期には)共存できない。同じような社会、それから同じような状況でも、他ではこれほど激しい抗議はなかっただろうと思う。もちろん、よそではここでのような抗議があるはずがないのである。なぜならば、他では以前から市民の意見表明は求められてなかったからである。しかし、我が国の場合は以前から市民の意見表明が求められていた。そのため、今では元の権利をなくしたという不満がとても強い。自分自身で投げ捨てたのに。これは昔から伝われているユダヤ人の呪いなのだろうか。かれらにかつて投げられた「何もかも手に入れて、何もかも失うように」という呪いが我々にも投げられたのだろうか。
いずれにしても、社会全体にとっても全ての人々にとっても価値がないとされたことを、ひとたぴ自分に直接かかわる問題になると価値のあることとして認めようとするのは非論理的ではないのだろうか。さらにいえば、普段は非現実的で非効率的で空想的だと評価されているものを、個人の特定の利害にかかわったとたんに、逆に合理的で効果的で実行可能で具体的だと言い出すような考え方は、不道徳ではないだろうかと私は思う。
それで、このベオグラードの抗議が与党による、責任者任命に反対する野党の抗議のように一見して見えても、それは私には全体像の一部でしかないと思う。この抗議には市民(ブルジョア)社会に反対する自主管理者の反乱という意味もあると思う。市民(ブルジョア)社会について全くの未経験で、自主管理者達は、その導入で自分たちが何を得て何を失うのか全く知らなかった。
[注1.]1990年9月20日、セルビア社会主義共和国議会はセルビア共和国憲法を採択し、セルビアは「勤労人民の社会主義的・自主管理的・民主的共同体」から「全市民の民主的国家」に生まれ変わった。
[注2.]1950年6月の「労働者自主管理法」制定以来、労働集団・従業員集団が最高経営陣(社長・支配人・工場長など)の選任、企業経営方針、企業予算決算、企業の分割・合併などに関する意思決定権をもっていた。
「民族主義隊列の無頼漢」(1993年7月1日)
以前、本物のセルビア民族主義者を紹介されたことがある。ユーゴスラビアと社会主義はセルビア民族の利益を追求するための障害であると信じて、ユーゴスラビアと社会主義に対してかなりの敵意を抱いていたようである。しかし一般に、そういった民族主義者は攻撃的でも傲慢でも何でもなく、時間がたてばたつほど自分の信念を弁護する動機も弱くなっていった。そのうち、私と民族主義者はいつか同意の瞬間に達した。民族主義の時代が過ぎ去ったという点においてだった。彼らは悲しみを抱きながら、私は喜びながら、その事実に気付いた。
ところが、事態が突然変わった。民族主義は幅広く復活し、セルピアにも戻って来たのである。そして民族主義で解釈された民族理念のための戦いのリーダーとなるのは民族主義者であるのが当然だろうと私たちは思った。しかし、私も民族主義者も驚いたことに、昔からずっと民族主義に反対を表明していた人達が旗頭となった。そして現在では、セルビア民族主義の旗印を掲げている人達の中には、昔マルクス主義センターで行われた討議で反セルビア民族主義闘争についてスピーチをした人や、旧中央委員会の基本方針演説者や、「プロレタリアの独裁」というタイトルの修士論文を書いた人などがいる。
社会現象としてみれば民族主義は決してよいものではない。特に、二十世紀末に、人々の結合が非常に強くなり、世界文明の思想が表われてからはそうである。しかし、他のどの現象とも同様に、よい方向にも悪い方向にも発展する可能性がある。九十年代のセルビアでは民族主義の相当に悪い面が表われている。非常に無礼で原始的で粗野である。それは無礼で原始的で粗野な人が主張するからだけでなく、信念を持っていない民族主義者が主張するからであると思う。従って、民族主義団体の中には無頼漢がいる。定年直前まで公然と弁護して来た思想に従って「民族より階級を」優先していた元共産主義者が民族主義者になっていれば、民族主義者隊列の中の無頼漢ではなかろうか。民族的利益が経済的・文化的発展から独立し、自律しているなんて言う誤りを犯そうにも犯しえないような教育を受けて来た知識人が民族主義者になっていれば、民族主義者隊列の中のごろつきではなかろうか。ほとんどのセルビア人より「セルビアの大義をより深く心に抱く」という非セルビア出自のセルビア市民は、民族主義隊列の中のならず者ではないだろうか。
民族主義が盛んになってから、信念を持った民族主義者でいない人々が多く本物の民族主義者達に合流した。民族主義が経済と文化にひどい影響を与えたことの責任者は、その民族主義隊列の中の無頼漢である。本当の民族主義者は必ず進歩をもたらすとは言えないが、これほど大きな損害をもたらさなかっただろう。
自分の党の思想を信んじていなかったユーゴスラビア共産主義者同盟のメンバーがどれほど「社会主義」に損害を与えたかが最近明らかになった。たくさんの失敗が共産主義者の罪であるが、その共産主義者とは実際共産主義隊列の中へ闖入した無頼漢であったことを覚えていて欲しい。
新たな信者が教会に押し掛けているため、教会に入ることができない年来の信者の姿を見て悲しくなるのと、これは同じことである。旧体制の有力な代表たちにとり行われる宗教的祭日のお祝いがグロテスクに見えることは言うまでもない。昔からずっと信心を自分のものとして、祭日を真剣に控えめにお祝いして来た信者は、彼らのけばけばしさにはとても驚いたと思う。それが同じ祭日や宗教的習慣であるかどうかと、そのまじめで控えめな人たちはきっと不思議に思っているだろう。この新たな信者たちの祭日のお祝いは、レポーターや、テレビ局のカメラや、虚飾、世評などがなくては行うことができないらしい。
物質的や地位的な利益を求めて信心を表わす人々と、実際に本物の信念を持っている人とが、一緒になる時、信念を持っている者はいつも敗者となり、信念そのものが疑われるようになるのである。
「これは意気揚々とした勝利ではない」(1993年11月10日)
計画をする時、何かの目的がある時、そしてその目的に達した時、誰でも勝利感とまではいかなくても、喜びぐらいは感じるものである。もちろん、感情の特質、教育のレベル、社会と個人の習慣によって、それぞれの人が成功の気持ちを表現する方法は違っている。ある人は控えめに喜びを心に抱くだろうが、一方喜びをすぐ外に出す人もいると思う。しかし、目的に達したことに対する満足感を表現することは大体誰も控えることができない。これは社会学で研究されていない主題で、小説や倫理学の永遠のテーマ、アメリカ映画の安易な素材で、ドイツ哲学の複雑な主題であるが、この目的達成と勝利感の現象について私をもう三年間も当惑している。
諸勢力の協力でユーゴスラビアと社会主義を完全に破壊する明瞭な努力が「ヴァルダル河[注1]からトリグラフ山[注2]まで」の国土で始まってから、三年がたってしまった。その傾向が始まったのは私たちが気付くずっと前からだったろうと思うから、「明瞭な」と書いた。
そしてその目的は達成された。同じ大火災の中でユーゴスラビアも社会主義も燃えてしまった。国家も社会システムもである。火炎はまだ消えていなく、空まで高く上っている。しかし、燃えるべく計画されたものはその炎で燃えてしまい、灰になってしまった。ユーゴスラビアも社会主義もなくなってしまった。それが目的だったのであれば、大成功である。大喜びしてもいいはずだ。しかし、誰も喜んではいない。勝利者が喜び勇んでいないこと、それについて書きたかった。
この勝利者の反応は珍しくて、どうにも不思議である。普通、人間というものは大きなものも小さなものも成功や勝利を喜ぶものである。博士号を取った時、子供が生まれた時、同様にチェス・ゲームで勝った時も、ぶどうが豊作だった時も喜んでいる。更に、力をあわせて苦労をしながら一緒に勝利を得た時こそ大喜びをする。トロイの勝利の昔から赤軍がベルリンに入った時までそうであった。十字軍から第二次世界大戦のノルマンディー上陸までそうであった。火の発見からコンピューターの発明まで、いつもそうであった。目的を達すること、勝利を得ることには大きな喜びが伴っていた。
しかし、今回はその大喜びがない。これは意気揚々とした勝利ではない。ユーゴスラビアの焼け跡で幸いに解放された部分は主権を失い、あるいは制限された主権しか持っていない。マケドニアには既に三ヶ月にわたってアメリ力軍が配置されていて、既に三年間にわたって諸隣国が公然と要求を表明している。ユーゴスラビア成立以前と同じように、回りの諸国にとってスロヴェニアは再び非常に手にいれたい地方になった。熱烈な「愛」によって、もう少しで自由が脅かされてしまうことになるほど、クロアチアは若干の西欧諸国から強い支援を受けている。世界全体が注視する戦争がボスニア・ヘルツェゴヴィナで行われている。どこか戦場から離れたところからくる命令によって、その戦争は落ち着いたり、再び始まったりする。セルビアとモンテネグロが一緒になった新ユーゴは、もう二年間も国際社会による厳しい経済制裁を受けている。ユーゴスラピアなしで、ユーゴスラビアの外でその諸民族が以前よりも幸せな暮らしができるようにユーゴスラビアを破壊することが目的であったとすれば(その通りであったと思うが)、諸民族の幸せの現状は上述のような有様である。
他方、もう一つの焼け跡、社会主義の焼け跡では、失業者、貧乏人、無権利の人々の群が増えている。ルンペン・プロレタリアは増えつつある。その群の者は失業者だったり、あるいは安い給料で不安定な職場で働いていたりするが、それだけでなく、医療や教育を受けることが全く不可能になっている。旅行、新聞、チョコレート、新しい冬コートは彼らの生活とは全く関係がなくなった。その一方、戦争で暴利をむさぼること、違法な外貨取引、社会所有資産の不法取得、密貿易、強要、諸列強政府に対する自国情報の提供で、突然大金持ちになった人々が増えている。この泥棒、密輸業者、密告屋は、二、三か月以内に、獲得した経済力に加えて、まもなく政治力も得ることだろう。そして事情が変わらない限り、彼等がやがてこの国を支配することになるだろう。いや、むしろこの国の残りかすを支配するといった方がいいかもしれない。市民に、勤労市民にこそ統治力があるようにと、可能な限りのことを今まで一所懸命にやって来た我が国、その国の残りかすが彼らに支配されることになるだろう。経済的・道徳的地下世界から新たな支配階級が目の前で誕生している。「金持ちの少数者」だけが教育や医療を受けることができることが不正なだけでなく、医療、教育、経済から科学まで全てが、密輸業者や密告屋からなる新階級に決められることが不正なのである。より幸せな資本主義社会を確立するために社会主義を破壊することが目的であったとすれば(その通りであったと思うが)、その資本主義的幸福とはこのように見えるものである。
どんなに一所懸命に探そうとしても、ユーゴスラビアと社会主義を破壊した諸結果の中に幸せを見つけがたい。八十年代の終わりに大きなインスピレーションとなった二つの大目的を達したのに、つまりユーゴスラビアと社会主義が破壊されたにもかかわらず、国民は幸せになっていない。少なくとも正直で正気の人々は幸福になっていない。その目的を達した結果として、皆が、すくなくとも多数の人々が苦悩に陥ったのは明らかである。
大きな社会的プロジェクトの実現には必ず伴っている満足と喜びが、おそらくそのために今回はなかったのだろうと思う。国家と社会システムの破壊は確かに一番大規模で、一番難しい社会的プロジェクトに入る。
ユーゴスラビアと社会主義を破壊する理由として、全ての市民にとっても、全ての諸民族にとっても、社会主義とユーゴスラビアは悪の源泉であるとされた。そして、ほら、悪はもう除去されてしまった。しかし、善はどこにも見えない。我々の選択が封建的小国家群と強盗男爵的資本主義であれば、将来いいことが起こるとは思わない。逆に、あの奪われてしまった悪が存在していた時代よりも今の生活はあらゆる点で、あらゆる所でひどく悪化している。
人々に幸せをもたらさなかった目的が実現された。実現に参加した人々も幸せになっていない。更に、そんな目的の創始者達も幸せになってないようである。それで、この勝利には歓喜がないままなのである。勝利の後に自然に喜びが現れなければ、本当の標的がまだ倒されていないことが分かる。つまり、間違った標的が狙われたわけである。
この季節非常にのろわれているユーゴスラビアと社会主義を間接的な表現で弁護したと、いつか誰かに責められるかも知れない。そのためにも、ここではっきりと表明しておきたい。ユーゴスラビアと社会主義を間接的に弁護などしていない。逆に、直接的に弁護しているのである。現在の国々や諸制度よりも以前の国や体制の方が良かったと、皆が、すくなくとも大多数がまもなく納得するだろうと確信しながら、心から理性的に弁護した。これは「ヴァルダル川からトリグラフ山」にいたる旧ユーゴスラビア全体についていえることである。これら十個の半端な国家とそれらのあいまいで貧乏な社会・経済体制は、昔の国家よりも昔の体制よりも、決して良くはなっていない。逆に、悪化している。
もちろん、以前の国家と社会システムが最適であったと言うつもりではない。確かに、どの国家も、どの体制もそのように評価できない。国家もシステムもいつも変化を求める。しかし、このような変化ではない。間違った変化が行われたことをその諸結果が証明している。
しかし、国家と社会システムの枠組みの中で、どのような変革が遂行されればよかったかについては、別の機会のテーマにしよう。
[注1]マケドニアとギリシャを流れる河。マケドニアの首都スコピエ市はその両岸に発達している。
[注2]スロヴェニア共和国西部の山。旧ユーゴスラビアにおける最高峰(2862メートル)。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study371:110118〕
ユーゴスラヴィア自主管理社会主義の歴史実験:その意味とよみがえり(ルネサンス)の兆し―(1)
去年の12月、関西の旧「新左翼」諸党派の合同研究会で旧ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義をテーマに講演する機会があった。私の経験では、活発な新左翼運動を展開してきたグループからこのテーマで語るように依頼されたことはこれまでなかった。ソ連共産党や中国共産党がユーゴスラヴィア共産主義者同盟を「裏切り者」とか「帝国主義の手先」とか断罪して、国際共産主義運動から破門した1950年代と1960年代の世界的状況がスターリン主義批判を掲げる日本の新左翼の集団心理をも支配していたのであろう。私の処女作『比較社会主義経済論』(日本評論社、昭和46年)の段階で、かかる機会をくれていたならば!40年遅かった!と嘆息せざるを得なかった。ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、既にない。連邦も自主管理社会主義も解体された。しかしながら、関西の旧「新左翼」の一部人士が現在考えるように、私、岩田はその理念的、制度的、実践的意義は、他の旧社会主義諸国のそれ以上に、勤労者民衆と勤労者民族の将来社会像を構想する上で歴史的忘却に任せるべきではないと考える。
合同研究会におけるかかる私の話を補完する目的も兼ねて、ここで三つの資料を紹介したい。第一は、ヴェーラ・ヴラトゥシヤの短い論文「『移行』の新戦略のために」(2010年12月)である。第二は、クロアチア共和国の故ブランコ・ホルヴァト教授が、自主管理社会主義解体の不法性に対して発した怒りの論文「私有化、すなわち五つのペテン」(2001年)である。岩田著『20世紀崩壊とユーゴスラヴィア戦争』(御茶の水書房、平成22年、pp.132-38)で読めるので、論文の存在に言及するにとどめる。第三は、スターリニストがトロツキーを弾劾したと同じ激しさで、左翼・リベラルの欧米市民社会が弾劾した、あの悪名高い元セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィチ夫人ミーラ・マルコヴィチ(ロシアに亡命中)の三論稿「自主管理者の反乱」、「民族主義隊列の無頼漢」、そして「これは意気揚々とした勝利ではない」(1993年)である。岩田監/ナターシャ・トミッチ訳『ナイトアンドデイ』(光琳社出版発売、1997年)に収められているが、本書を入手するのは、今日殆ど不可能であろうから、かなり長くなっても、三論稿を丸ごと提示しよう。三論稿はミーラ・マルコヴィチが、セルビア市民社会、すなわち大上段の自由主義者によっても、セルビア常民社会、すなわち青眼の伝統主義者によっても憎まれた理由を如実に示す。彼女は旧社会主義体制のエリートでありながら、体制崩壊後も悔いあらためないコムニストであるからである。
ポリティカ紙(2010年12月24日)にベオグラード大学哲学部社会学教授ヴェーラ・ヴラトゥシヤが小論文「『移行』の新戦略のために」を発表している。「社会主義」なる表現を用いていないとはいえ、自主管理社会主義思想再生の兆しであると読めるので、ここに要約紹介する。
ネオ・リベラリズムの移行戦略、すなわち盗奪的私有化、借金漬けの安定化、そして商品・労働・資本市場の一方的脱規制は、全社会の貧困化と産業の解体をもたらしただけである。(1990年代の多民族戦争によって失われた10年に続く)「もう一つの失われた10年」である。かくして2008年以来、国家の見える手による干渉モデルが再登場し、80年代以来の自由市場的見えざる手モデルを押し戻しつつある。しかしながら「両モデルの共通性格は、現行の私的利潤を志向する社会的生産関係システムの諸結果を、その矛盾せる枠組み内部にとどまりつつ、緩和するところにある。経験が確認するところによれば、市場と私有者利潤のために権威的かつ競争的に組織された、交換価値の支配的資本制的生産関係を廃棄することなしに、資本の過剰蓄積なる周期的恐慌から恒久的に脱出することは不可能である。将来における第一級の課題として残るのは、社会的所有の諸手段による万人の人間的能力の発展を目指す使用価値の、自主管理的かつ連帯的に組織された社会的生産である」。さしあたり、市民たちが数多くの抗議行動の中で要求した7項目の諸策が実行されるべきである。(1)現行の正統性なき立法に照らしてさえ非合法である私有化契約の撤廃、(2)国内の買弁的ルンペン・ブルジョアジーによる公共企業体の投げ売りの停止と禁止、(3)国内貯蓄を戦略的プロジェクトと教育・保健・社会的保護へ向ける国内投資銀行の設立と中央銀行の議会的統制、(4)所得格差の縮小と国内工業・農業への大衆的な有効需要の増大、(5)生産と消費の協同組合の設立とコミューン的管理、(6)ネオ・リベラリズムが倍増させた対外債務の支払い猶予、(7)空爆期間中の放射能投射弾による直接的かつ長期的被害への補償要求とNATO諸国の侵略に対する告訴の再開。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study367:110104〕
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