アメリカ映画とアメリカ社会
- 2011年 1月 6日
- 評論・紹介・意見
- アメリカ映画アメリカ社会宇井 宙
私はあまり映画好きではないので、わざわざ映画館に出かけることは少ない。テレビで映画を観るのも、食事時などに他に観たい番組がないから、といった消極的な理由であることが多い。そのため、どうしても相対的にはアメリカ映画を観ることが多くなってしまう。色々なアメリカ映画を観ているうちに、嫌でも気付かざるを得ないことがある。こんなことは誰でも気付いているはずなのだが、不思議なことに、そのことを指摘した発言や文章を見聞した記憶がないので、ここで私の気付いたことを書き留めておく。
具体的な例は挙げないが、これはアメリカ映画においてはあまりにも強く見られる傾向なので、誰でもそのような映画をひとつやふたつ、映画好きならば10や20はたちどころに思い浮かぶのではあるまいか。私が指摘したいアメリカ映画に強く見られる傾向は2つある。ひとつは法の軽視であり、もうひとつは正義と力の一体視である。しかもこの2つの傾向は結び付いて現れることが多い。
「法の軽視」というと、一見、意外に思われるかもしれない。アメリカ社会は訴訟社会であるという言い方はよくなされるし、弁護士の数の多さから言っても、訴訟の多さから言っても、ささいな紛争が裁判で争われることから言っても、「訴訟社会」という性格づけは間違っていないだろう。しかしそのことは必ずしもアメリカ人が法を尊重しているということを意味していないのではないか。「訴訟社会」が意味しているのは、アメリカ人が自分の利益を守るために法律と弁護士を利用することに積極的であり、そのための制度的・心理的障害が相対的に少ない、ということだけなのかもしれない。ともあれ、私がアメリカ映画を観ていてしばしば驚かされるのは、主人公が、自分が道徳的に正しいと考えることを行うためには法律を破ることにいささかのためらいも見られない、ということだ。法律を破るのが悪い、などと言いたいのではない。どんな社会であれ、法律と自分(や家族や恋人など)の利益、法律と自分の良心、法律と道徳、法律と(自分の考える)正義、などが衝突することはしばしば起こる。そのような場合、法律を破ってでも後者を守るという選択を行う人はどんな社会にでもいるし、それがいいか悪いかは状況によるだろう。ただ、そのような場合、普通ならば、そこに葛藤が生じるだろう。義理と人情が対立した場合でも、そこに葛藤が生まれ、葛藤への悩みと苦しみが存在するからこそ、それが浄瑠璃や歌舞伎の題材となるのであろう。ところが、アメリカ映画の特異な点は、法律と主人公の考える正義や道徳(それも客観的に見れば、単なるエゴイズムでしかないことも多い)とが対立した場合、法律を破ることに全く躊躇や葛藤が見られないことである。それがごく少数の映画にだけ見られるのであれば、「こんな映画もあるのか」と思うだけで、私もわざわざ問題にしたりはしない。しかし、アメリカ映画にはそのような映画があまりにも多いので、映画に疎い私でさえ、これはあまりにも異常なのではないかと、つい問題提起したくなったのだ。このような傾向の映画が多い、ということは、そのような映画をごく当然のこととして受け入れる土壌がアメリカ社会にあるからだ、と考えずにはいられないだろう。
私は何も、法律は絶対だ、とか、法律は常に守らなければならない、などと思っているわけではない。それどころが、愚劣で、正義に反する法律が多すぎる、と思っているくらいである。だから、法律と正義が矛盾するような状況は現実においてもいくらでも生じ得るし、映画の中で主人公がこの法律は正義に反する、と思うのも、それはそれとして理解できる。問題は、そのような場合に、どのようにして矛盾を解決しようとするかである。ところが、アメリカ映画においては、多くの場合、主人公が採る手段は、暴力に訴えることである。暴力に訴えてでも、(主人公の考える)正義が実現されれば、それで一件落着、「めでたし、めでたし」となるのである。もちろん、もしかしたら、主人公は法律違反によって裁判で多少の罪には問われるかもしれないが、それは些細な問題であって、映画の本筋においてはどうでもいいことなのである。重要なことは、「正義が実現された」ということなのである。逆に言えば、正義を実現するためには、法を犯し、暴力に訴えることも正当化される、ということなのである。繰り返すが、このような映画が多い、ということは、このような価値観がアメリカ社会においては広く受け入れられていると推測される、ということだ。
もちろん、これが映画の世界だけのことであれば、何も目くじらをたてるようなことではない。問題は、それがどうやらそうではないらしい、というところにある。アメリカが世界の民主主義国では特異な銃社会である、ということも、アメリカ社会の暴力信奉と無関係ではあるまい。とりわけ恐ろしいのは、「正義は暴力によってでも実現すべし」という価値観を抱いているらしい国民が、世界でも突出した暴力(軍事力)を保持する国家である、ということだ。もちろんこれは仮定の懸念ではない。「9.11事件」の直後、ブッシュ政権がアルカイダの犯行であるという証拠も示さず、直ちにアフガニスタンへの「報復」を宣言し、それを実行したことにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、それまでブッシュを馬鹿にしていたアメリカのマスコミが一斉にブッシュ政権のアフガン空爆を支持したことである。そこには、他国への一方的武力行使(つまり侵略)が重大な国際法違反であるということへのためらいや懸念はほとんど全く見られなかった。しかしこれは映画ではないのだ。それによって、9.11とは何の関係もない無辜の市民が大勢殺戮されたのであるが、アメリカ・マスコミはそれを「付随的被害」と呼んで平然としていたのである。そして、ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領は今もなおアフガニスタンでの軍事作戦を続けているのである。
記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0286:110106〕
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