安倍談話はなぜ説得力を欠くのか――中国に敗れたことを認識できないから
- 2015年 10月 8日
- スタディルーム
- 矢吹晋
アジア・太平洋戦争が終わって七〇年を経たが、「ペリーの白旗」に象徴される対米従属の構図は、安倍政権による安保法案の強行採決を経てますます広がり深まりつつあるように見える。日本にとって対米従属の反面は、対中敵視(あるいは対中無視)だ。この三角関係を「開戦の詔勅」と「終戦の詔勅(玉音放送)」で読むと、その構図が鮮やかに浮かび上がる。
Ⅰ.安倍談話に欠如する対中敗戦認識
戦後七〇周年の安倍談話には「侵略、植民地、反省,おわび」という四つのキーワードが含まれたことで、まずまずという評価が日本国内では多かった。私には「できの悪い中学生の作文」程度としか思えない。これは日本国民の「敗戦認識の欠落」を是正するものではなく、ますます混乱させたことで、天下の悪文と評するほかはない。
➊終戦の詔勅によれば、「朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」とあり、ポツダム宣言の受諾を通告した対象国「米英中ソ」四カ国には中国が含まれる。
➋「曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」。ここでは米英に対する宣戦が「他国の主権を排し領土を侵す」志に非ずとしているが、中国に対する「宣戦布告なき戦争」には言及していない。宣戦を布告していない故に、除いたものか。ここで一九三一~四五年日中戦争は行方不明になった。
➌「然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス」。ここでは「交戦四歳」とあるから、一九四一~四五年の戦争を指しており、中国大陸における一五年戦争は含まれない。
この詔勅は、一九四一~四五年の対英米戦争が「終戦」に至ったことを「米英中ソ」四カ国に告げたものにすぎない。この詔勅では、「日中戦争の開戦も敗戦も」言及されていない。「他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キ」とは、まさに日本が満洲や台湾、そして朝鮮半島で典型的に示した行為であり、それゆえカイロ宣言を踏まえたポツダム宣言の領土条項――「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト」を遵守させられたのだ。歴史的事実の経過は周知のことでありながら、「終戦」は「交戦四歳」についてのものと認識されて日中戦争は行方不明になった。この戦争の「終わり方のあいまい性」が大きな禍根を残した。
対中国敗戦における安倍談話もまた、日中戦争における「敗戦認識」はきわめてあいまいだ。中国が戦後六九年を経た昨年に、「抗日戦争勝利記念日」を九月三日と定め、さる九月三日に軍事パレードを挙行したのは、日本流のあいまいな「敗戦認識」への抗議を明言したもの、警告を発したものと解すべきだ。「敗戦を認識できない日本」はふたたび開戦に動く危険性があると彼らは危惧したが、これは無理からぬものと思われる。
私が危惧しているうちに、安倍談話に対する中国流の読み方が現れた。九月三日の軍事パレードの前日だ。それは任仲平[1]の「歴史を見守るのは、平和のため—-中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利七〇周年に際して記す」[2]である。これはよく練られた文章だ。ノーベル賞大江健三郎の受賞記念スピーチ[3]から「あいまいな日本」というキーワードを引き出し、安倍談話は大江のいうあいまいぶりを改めて実証したものと読む。
「安倍談話には、侵略・植民地・反省・お詫びのキーワードが含まれるが、その文脈はあいまいだ。安倍は➊靖国神社を参拝し、➋集団的自衛権を解禁し、➌歴史教科書を修正し、➍戦争犯罪を否認する。『積極的平和主義』なるものの背後には、「歴史に対する挑戦」と「公義を撃つ盲動と狂気」が潜む。
中国の人々は安倍談話をこのように疑いの眼で読んだ。日中戦争における「加害者日本」がヒロシマ・ナガサキという「被害者の側面を強調した」と受け取られるのは、それだけで駄文の証明となり、それを語る話し手側の倫理性の欠如を示す。
Ⅱ. 対米英宣戦布告の詔勅と中華民国の位置――行方不明になった日中戦争
一九四一年一二月八日付の「開戦の詔勅――米英両国ニ対スル宣戦ノ詔」は、開戦に至った事情を次のように説明している。「朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス」、冒頭に掲げられた一句から分かるように宣戦を布告した相手[4]は「米國及英國」である。[5]
では、なぜ米英なのか。
盧溝橋事件で衝突したのは中華民国の軍隊ではなかったのか。
曰く「中華民國政府、曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス、濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ、遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ、茲ニ四年有餘ヲ經タリ」—-中華民国は日本帝国の真意を解せず、東亜の平和を攪乱し、日本帝国をして武器を執らしめ、四年余を経た。これが詔勅の対中認識である。「中華民国が東亜の平和を攪乱した」ので「日本帝国は武器を執ることを余儀なくされた」と認識している。この主題は、「四年有餘ヲ經タリ」とあることから、一九三七年七月七日から一九四一年一二月八日までの四年五カ月、すなわち盧溝橋事件[6]以来、一二月八日までの日中戦争を指すことは明らかだ。
ところで、この日中戦争には局面の変化とこれに対応した米英の政策があった。「幸ニ國民政府更新スルアリ。帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ、重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ、兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス」—-「國民政府」に「更新するあり」とは、汪兆銘政権[7]が日本占領下の南京に成立したことを指す。しかしながら、「重慶ニ殘存スル政權」すなわち蒋介石政権は「兄弟牆ニ相鬩ク」(兄弟間の内戦)を反省せず、内戦を続けた。
このように分裂した中華民国に対して「米英両國ハ殘存政權[蒋介石]ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ、平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス」—-米英は蒋介石政権を支援して、東洋制覇の野望を遂げようとしている。
「開戦の詔勅」の核心はここにある。日本帝国が汪兆銘傀儡政権を成立させたのに対して、米英両国が残存蒋介石政権を支援したことだ。ここから汪兆銘政権と蒋介石政権との内戦は、日本と米英との代理戦争となる。米英の同盟国は、以下のように日本帝国包囲網を形成する。
「與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ、武備ヲ增強シテ我ニ挑戰シ」—-米英は同盟国を誘い(オーストラリア、オランダ等)、「帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ、遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ、帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ」—-通商を妨害し、経済断行を行い、日本帝国の生存に脅威を与えた。これはいわゆるABCD包囲網[8]を指す。
その結果、日本帝国の存立が危殆に瀕し、「自存自衞」のため、蹶起することを余儀なくされた。「斯ノ如クニシテ推移セムカ、東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ、帝國ノ存立、亦正ニ危殆ニ瀕セリ」—-日本帝国の存立が危殆に瀕した。「帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲、蹶然起ツテ、一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」—-日本帝国は「自存自衞」のため、蹶起した。
一九三七年の盧溝橋での両軍衝突事件を「支那事変」と呼称することは、事件の約二カ月後の閣議で決定された。
では一九四一年一二月の対米英戦争と「支那事変」との関わりはどうなるのか。これについて一九四一年一二月一二日の閣議は「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」という閣議決定を行った。その内容は、以下の通りである。
「一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ、支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス。二、給与、刑法ノ適用等ニ関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六[一九四一]年十二月八日午前一時三十分トス。三、帝国領土(南洋群島委任統治区域ヲ除ク)ハ差当リ戦地ト指定スルコトナシ。但シ帝国領土ニ在リテハ第二号ニ関スル個々ノ問題ニ付其他ノ状態ヲ考慮シ戦地並ニ取扱フモノトス」[9]
一項からあきらかなように、「支那事変ヲモ含メ、大東亜戦争ト呼称ス」と決定したものだ。すなわち一九四一年一二月の対米英宣戦の布告後に戦われる戦争は、「大東亜戦争」と命名され、これには「支那事変」(一九三七~)をも含むことが確認されたわけだ。この決定によって、一九三七年以来の支那事変すなわち日中戦争(継続中)と一九四一年以来の(今後展開される)対米英戦争は、「大東亜戦争」の名で括られた。[10]
以後、日本では一九四五年の敗戦に至るまで大東亜戦争の名で統一され、これが広く行われた。ここで「東亜」が東アジア地域を指すことに誤解の余地はない。
ただし、これに「大」が付されたことについては、➊「大東亜共栄圏」を目的とした戦争を指すと解する「イデオロギー的解釈」と、➋単にマレー半島やタイ、ビルマ辺りまでを含む「広義の東アジア」、すなわちGreater East Asiaという地理的境界を意味するにすぎぬと解するもの、➌そして両者を重ねた含意で用いるものなど、さまざまの解釈が行われた。含意、解釈を統一する閣議決定は行われていない。
主戦場がアメリカ側から見て太平洋地域であったことから米英など連合国においてはPacific Theater(太平洋戦域)が使用され、the War in the Pacific Theater,WWⅡ-Pacific Theatre,the Pacific Theatre in the Second World Warなど第二次世界大戦の戦線・戦域名が用いられた。
敗戦後、GHQの占領政策のもとで「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へ強制的に変更させられた。一九四五年一二月一五日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、神道の国家からの分離、神道教義から軍国主義的、超国家主義的思想の抹殺、学校からの神道教育の排除を目的として、「国家神道(神社神道)ニ対スル政府ノ後援、支持、保護、管理、布教ノ廃止ノ件」との覚書[11]を日本政府に対して発した。そこでは、「『大東亜戦争』、『八紘一宇』ノ如キ言葉及日本語ニ於ケル意味カ国家神道、軍国主義、超国家主義ニ緊密ニ関連セル其他一切ノ言葉ヲ公文書ニ使用スル事ヲ禁ス、依テ直チニ之ヲ中止スヘシ」とされた。
この覚書にしたがって、「大東亜戦争調査会」は一九四六年一月一一日「戦争調査会」と改称され、官制条文中の「大東亜戦争」の語句もすべて「戦争」に改められた[12]。GHQはプレス・コードなどで「大東亜戦争」の使用を新聞で避けるように指令し、GHQ民間情報教育局作成の『太平洋戰爭史−−真実なき軍国日本の崩壊』一〇万部は完売し、GHQ指導で学校教育でも奨励され、太平洋戦争の呼称が定着した[13]。これは占領軍によって「強制されたもの」だが、いまや日本国民は「強制を自覚できないほどに」飼い馴らされている。
しかしながら、大東亜戦争を太平洋戦争に置き換えるGHQのやり方は、あまりにも乱暴なアメリカ一辺倒史観であり、これによって中国大陸で戦われた日中戦争は行方不明になった。まことに名は体を表す。『論語』子路篇の一句を想起すべきだ。[14]
戦争の呼称問題をサーベイした庄司潤一郎は、論文の末尾で次のように指摘した。
「結論としては、現時点での使用状況は、太平洋戦争の普及度が高いが、今後の展望
として総合的に考察した場合、[一九四一年]一二月八日以降の中国戦線を含めた戦争の適切な呼称は、戦争の全体像の視点から、いずれもイデオロギー色を否定したうえで、大東亜戦争もしくはアジア・太平洋戦争の使用を検討するのも一法ではないかと思われる」[15]。
穏当な結論というべきだ。GHQがおしつけた太平洋戦争の呼称を無批判に用いている者は、深く反省すべきではないか。
一九三七年盧溝橋事件に始まる「宣戦布告なき戦争」は、一九四一年一二月に対米英の宣戦を布告[16]した後も、続いていた。この冷厳な事実を無視して、一九四一年一二月~一九四五年八月の太平洋戦争をもって代替し、あるいは一九三七年七月~一九四五年九月の日中戦争をあいまいにすることは、到底許されない。
安倍談話のようなあいまいな歴史観を許すか否かは、国際関係や政治に関わるばかりでなく、日本国民の倫理性がいま問われていることを自覚すべきである。
[1]任仲平とは、個人ではなく、「任」は『人民日報』、「仲」は「政治」、「平」は「評論」の当て字だ。つまり、「人民日報政治評論執筆グループ」という筆名・執筆陣の共同論文である。
[2] 『人民日報』2015年9月2日
[3] 大江はノーベル賞受賞記念講演でこう指摘した。「日本最初のノーベル文学賞受賞者である川端康成は、受賞記念講演『美しい日本の私』で日本の、そして東洋の神秘主義を語った。その『美しい日本』は大きな過ちを犯しながら今は経済やテクノロジーの力によって世界に知られている」「自分は『美しい日本』の作家ではなく、『あいまいな日本』の作家である。明治以来日本はひたすら西洋に習いながらも伝統的な文化を守り、アジアにおける侵略者となり、なお西洋に対しては不可解な存在というあいまいな存在であり続けている」。
[4] 1941年12月までは、日中双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、「第三国には戦時国際法上の中立義務」が生じ、「交戦国に対する軍事的支援」は、戦時国際法に反する敵対行動となる。日本は国際的孤立を避けるため、中華民国(蒋介石)は外国の支援なしに戦闘を継続できないため、戦時国際法に抵触しない形態を選択した。特に中国にとっては、アメリカの国内法である中立法の適用を避けたかったことも大きい。中立法は1935年から41年3月の武器貸与法に至るまで続いた法律で、外国の戦争や内乱に米国が関与することを禁じ、武器および軍需物資の輸出を禁止するものであった。対ナチス、対日本に直面して、この局外中立の立場は放棄された。The Neutrality Acts were passed by the United States Congress in the 1930s, in response to the growing turmoil in Europe and Asia that eventually led to World War II. They were spurred by the growth in isolationism and non-interventionism in the US following its costly involvement in World War I, and sought to ensure that the US would not become entangled again in foreign conflicts. The legacy of the Neutrality Acts is widely regarded as having been generally negative: they made no distinction between aggressor and victim, treating both equally as “belligerents”; and they limited the US government’s ability to aid Britain and France against Nazi Germany. The acts were largely repealed in 1941, in the face of German submarine attacks on U.S. vessels and the Japanese attack on Pearl Harbor. https://en.wikipedia.org/wiki/Neutrality_Acts_of_1930s#End_of_neutrality_policy
[5] 日本の宣戦布告の対象国に中華民国は含まれていないが、中華民国は翌一二月九日に次の対日宣戦布告を発表した。中華民国政府対日宣戦布告 一九四一年一二月九日。日本军阀夙以征服亚洲,并独霸太平洋为其国策。数年以来,中国不顾一切牺牲,继续抗战,其目的不仅在保卫中国之独立生存,实欲打破日本之侵略野心,维护国际公法、正义及人类福利与世界和平,此中国政府屡经声明者也。中国为酷爱和平之民族,过去四年余之神圣抗战,原期侵略者之日本于遭受实际之惩创后,终能反省。在此时期,各友邦亦极端忍耐,冀其悔祸,俾全太平洋之和平,得以维持。不料强暴成性之日本,执迷不悟,且更悍然向我英、美诸友邦开衅,扩大其战争侵略行动,甘为破坏全人类和平与正义之戎首,逞其侵略无厌之野心。举凡尊重信义之国家,咸属忍无可忍。兹特正式对日宣战,昭告中外,所有一切条约、协定、合同,有涉及中、日间之关系者,一律废止,特此布告。中华民国三十年十二月九日 主席 林森
[6] 一九三七年九月二日閣議決定、「事変呼称ニ関スル件」において、「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト称ス」ことが決定された。
[7]一九四〇年三月三〇日~一九四五年八月。
[8] Aは米国、Bは英国、Cは中華民国、Dはオランダ。
[9] 国立国会図書館昭和前半期閣議決定等(1518件)https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00362.php
[10] 1941年12月9日、蒋介石の重慶政府が日本に宣戦布告し、日中ともに「戦争」と認定した。中華民国政府は「八年抗戰」「中日戰爭」と呼称し、中華人民共和国政府は「中国人民抗日战争」などと表記する。
[11] いわゆる「神道指令」。
[12]由井正臣「占領期における『太平洋戦争』観の形成」『史観』第130号、1994年3月、5頁。庄司潤一郎「日本における戦争呼称に関する問題の一考察」『防衛研究所紀要』第13巻第3号、2011年3月から再引用。46ページ。なお庄司の現職は、防衛省防衛研究所戦史部上席研究官である。
[13] 庄司、47ページ。
[14]子路曰、衛君待子而為政、子将奚先、子曰、必也正名乎、子路曰、有是哉、子之迂也、奚其正、子曰、野哉由也、君子於其所不知、蓋闕如也、名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則礼楽不興、礼楽不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足、故君子名之必可言也、言之必可行也、君子於其言、無所苟而已矣(子路が問う。『衛の君主が、先生に政治を任されたとすると、先生はまず何を先にされますか』。先生曰く『きっと名を正しく定める』。子路が言った。『先生は全く迂遠なやり方をされる。どうして名を正そうとされるのか』。先生曰く『名が正しくなければ、話の筋道が通らず、話の筋道が通っていなければ政治は成功しない。政治が成功しないと礼楽の文化様式は振興せず、礼楽が振興しなければ刑罰が公正でなくなる。刑罰が公正でなくなれば、人民は手足をゆったりと伸ばすことさえ出来なくなる。だから、君子は必ず言葉でしっかりと名を定義する。名を定義すれば、必ず実行すべきである。その有言実行のため、君子は軽はずみな発言をすることがない』。
[15] 庄司、80ページ。
[16] これに対応する中華民国側の対日宣戦布告。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study659:151008〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。