10/10 現代史研究会レジュメ:『資本論』の文法 ― マルクス研究に召喚されるカント ―(内田弘)
- 2015年 10月 9日
- スタディルーム
- 『資本論』内田弘
『資本論』の文法
― マルクス研究に召喚されるカント ―
現代史研究会 2015年10月10日(土) 午後1時~5時
明治大学駿河台校舎研究棟第1会議室
内田弘(専修大学名誉教授)
[マルクスのコペルニクス=カント問題] 『資本論』のサブタイトルは「経済学(に対する)批判(Kritik)」です。「批判」といえば、すぐにカント(1724-1804)の「三(つの)批判」、『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』を連想します。特に、当時のドイツの知識人はそう連想したでしょう。『純粋理性批判』は、スミス(1723-1790)の『国富論』と合わせ、『資本論』にとって最も重要な文献です。『純粋理性批判』は、コペルニクス(1473-1543)の天文学史上の達成をカントが哲学で遂行した古典です。このことはその「第2版序文」ではっきり示されています。この系譜で、マルクスは『資本論』を書いたと思われます。
ティコ・ブラーエ(1546-1601)というデンマークの天文学者がいました。彼の精密な天体観測データ(経験)は、天動説では首尾一貫した形に配列できません。観測データを統一的に配列できる、新しい天文学理論が求められていました。ケプラー(1571-1630)がコペルニクスの地球の円環運動理論を地球の楕円運動理論に修正して、新しい天文学理論を構築しました。ではなぜ、天動説から地動説へ、円環運動理論から楕円運動理論に旋回できたのでしょうか。その理論は、天体観測という経験を超越した超越論的な次元で構築されました。それを「新しい形而上学」で根拠づける必要がある。これがカントの『純粋理性批判』の課題です。「形而上学(メタ・フィジカ)」とは、カントにとってもアリストテレス以来の位置づけ、即ち、自然学(フィジカ)の後の(メタ)、経験論を超越し自然現象を普遍的に説明する「自然哲学」のことです。新しい自然哲学をカントは「超越論的分析論」といいます。分析論は、哲学概念を「要素=集合」に「一貫性・真理性・総合性」をもって組織しなければなりません。しかも、分析論の対象は「ただ思惟可能な対象(Gegenstände, die man bloß denkt)」(BXIX)です。その分析論を確立し、それでもって経験データを首尾一貫した概念の配列で説明する。このことをカントは「超越論的(先験的)演繹」といいます。
[カントの方法の継承] マルクスは、《同じ対象を二重の観点から分析=媒介し、従来の見方を180度、旋回するというカント(第2版序文)の方法》を継承します[次頁の図「天動説から地動説への対称的旋回」を参照]。超越論的分析論は「ただ思惟することだけが可能な対象」として構築されます。マルクスはカントに依って『要綱』で価値は「ただ思惟可能なものである」と書きます。
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カントとマルクスの関係を対比しますと(詳細は本文末の拙稿参照)、
[1] カントの分析論に対応するのがマルクスの価値論です。
[2] 近代資本主義における感性的経験は使用価値で示されます。カントの感性論の対象に対応するのが、マルクスの使用価値です。
[3] カントの分析論と感性論が媒介しあうように、マルクスにとって価値と使用価値が媒介して、端的に商品として現象します。カントの「超越論的演繹」は、分析的論理学で感性的データを整合的に配列する課題です。マルクスにとって、価値と使用価値に如何に重層的に媒介しあうかを論証することが「経済学批判の課題」です。マルクスはこの課題を『要綱』で(カントの名前を出さないで)書いています。この課題はマルクスのいわば「超越論的演繹」です。
[『純粋理性批判』・『資本論』の基本用語は仮象] カントの超越論的演繹では、分析論が感性論を媒介します。しかし感性的データを欠き、知性(悟性Verstand)の判断と理性の推論だけでは、弁証論=「仮象の論理学」に陥るとみて、超越論的分析論と超越論的弁証論を峻別します。『資本論』冒頭の「集合・要素」を先駆けるように、カントは分析論を《要素的概念を集合する関数》(B93,103)・「真理の論理学」(B87)として規定します。カントの分析論が近代資本主義では弁証論=「仮象の論理学」(B86)に転回することを論証することこそ、マルクスのカント批判の核心です。『資本論』は、価値と使用価値が媒介し合い重層的に現象する事態を論証する「仮象の論理学」です。
『資本論』と『純粋理性批判』に共通の用語は「仮象(Schein)」です。カントは「仮象」語を分析論で23回、弁証論で76回、合計99回使用します。マルクスは『資本論』で「仮象」語を26回、規則的に使用します。カント基軸用語「仮象」は『資本論』第1部全体を貫徹する用語です。ところで、「物象化(Versachlichung)」はたった1回、貨幣論で使用しています(Das Kapital, Dietz Verlag Berlin, S.128)。用語「仮象」の規則的な活用を無視し、「物象化」だけで『資本論』を統一的に読めるのでしょうか。『純粋理性批判』の基本用語「仮象」を『資本論』のように規則的に頻繁に使用している著作は他にあるでしょうか。
[カント・マルクスの物神崇拝批判] カントは『単なる理性の内部の宗教』(1793年)で宗教権力の「物神崇拝(Fetischmachen, Fetischdienst)」を批判しました。マルクスも『資本論』で商品の「物神崇拝(Fetischismus)」を仮象と規定しました。マルクスは若い時、学位論文「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」(1841年)をイエナ大学に提出し学位をとります。その「差異論文」の主題はカント批判です。そこで「天上の問題はすでに解決したけれども、地上の問題は未解決である」と指摘します。天文学上の天動説への批判は解決したけれども、いまなお、その天動説に墨守し、地上に生きる人々の「精神的生活と物質的生活」を支配する宗教権力が跋扈している。宗教権力への批判はなお理論的実践的な課題であると主張します。心と生活を支配するのは「神と貨幣」です。コペルニクスが行ったような批判を神学と経済学に対して行わなければならない。これが「差異論文」を書いたマルクスの生涯の課題です。
「差異論文」を書いたマルクスが1843年秋にパリに来て以来、取り組んだ課題は当然、「経済学の批判=コペルニクス的転回」です。『経済学・哲学草稿』などがその記録です。その到達点が『資本論』(第1部、初版1867年)です。
[『資本論』の文法] 『資本論』第1部は、《商品→貨幣→貨幣の資本への転化→剰余価値→労賃→資本蓄積→本源的蓄積》の順序で書かれています。では、この概念の順序は、どのような基準=文法で決定されているのでしょうか。カントが『純粋理性批判』理性推論でいうように、特殊な使用例から一般的な規則を導き出すことができます。例えば、自然言語の文法は、当該の自然言語の使用例から導きだされます。その文法を基準にその自然言語の使用例が文法学的に正確であるか判断されます。同様に、『資本論』の文法は、『資本論』の記述内容から導きだされ、その文法で『資本論』の諸概念が配列される根拠が解明されます。拙著『《資本論》のシンメトリー』で行った作業がこれです。
[3つの観点の規則的操作] 『資本論』の文法とは、商品の2つの側面である価値(V)と使用価値(U)が相互に媒介しあい基本概念を構成し、その概念が『資本論』全巻を編成する規則です。この課題を『資本論』第1部第Ⅰ章第2節の冒頭で提起し、《商品に含まれる労働の二面的性質は経済学の理解が旋回する(sich drehen)飛躍点である》(S.56)と指摘します。[1]「同一対象の二面からの分析」と[2]「視座の旋回」は『純粋理性批判』第2版序文からの援用です。
『資本論』の文法とは、①価値形態論[V(U)]、②商品物神性論[U(V)]、③交換過程論[V(U):U(V)]の3つの基本視座を、或る規則(反転対称φと回転対称Ψの3回反復)で操作すること(下記Ⅰ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅳ→Ⅴ→Ⅵ)で、「資本主義的生産様式が自己組織化する過程」を解明するものです。つまり、『資本論』の文法とは、要素=元①・②・③を反転対称φ・回転対称Ψを3回反復して操作する群論です。G(v,u)=Ψi[φi(①②③)] ; i=1,2,3.
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その規則的操作の結果は、つぎのようになります[{ }は各々の主要観点]。
Ⅰ{①}価値形態→②商品物神性→③交換過程
Ⅱ{①}貨幣の価値尺度→③貨幣の流通手段→②貨幣の蓄蔵手段
Ⅲ{②}世界貨幣→③資本の一般的範式→①労働力商品の売買
Ⅳ{②}労働過程→①価値増殖過程→③労働過程と価値増殖過程の統一
Ⅴ{③}不変資本・可変資本→①剰余価値率→②絶対的剰余価値
Ⅵ{③}相対的剰余価値→②労賃→①資本蓄積(②原蓄)
その規則を図解したものが上の図「①価値形態論②商品物神性論③交換過程論の三重の鏡映過程」です。その図の解説文も読んでください。拙著『《資本論》のシンメトリー』では、『資本論』の文法は「2階建て」で解明されています。これが『資本論』第1部の文法の精密な理解です。しかし、ここでは基本的な仕組みを理解することが先決ですので「1階建て」で説明しています。
[『《資本論》のシンメトリー』] 『資本論』の文法とは、上のⅠ~Ⅵのように、①価値形態論→②商品物神性論→③交換過程論の観点を操作することです。その操作は「シンメトリー(対称性)」を描きます。下の図の右側の「再帰する不変の対称的構造」で説明します。
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『資本論』のシンメトリーは、2つの操作「反転対称(inverse symmetry)」と「回転対称(rotational symmetry)」を交互に3回行うことで描かれます。「反転対称」操作は、①をそのまま固定し、②→③の順序を③→②の順序に入れ替える操作です。Ⅰ①→②→③はⅡ①→③→②に変換されます。「回転対称」操作は、中央の③を固定し、左右の①と②を交替します。Ⅱの①→③→②はⅢの②→③→①に替わります。3回目の操作で最初のⅠ①→②→③に再帰します。Ⅰ~Ⅵは「要素(①・②・③)変換に関して不変の構造」を構成します。この構造に数学的に対応するのは、微分しても変わらないネイピア数e (自然対数log e xの底e)でしょう。2つの操作「反転対称」・「回転対称」を交互に操作すること(並進対称)には、経済学批判上の根拠があります。それが『資本論』の文法です。以下この根拠を『資本論』第1部の順序で説明します。
最初の商品論の順序Ⅰ①→②→③は、『資本論』の文法の基本を「価値(V)と使用価値(U)の相互媒介関係」として提示します。使用価値が異なる財を商品として等置する相互関係行為の結果が「使用価値の捨象」=裏面の「価値の抽象」です(『資本論』第1章第1節)。こうして生成した価値は使用価値とつぎのように媒介し合います。まず、①価値形態とは、或る商品の価値(V)が他の商品の使用価値(U)で表現される理論的な事態です[V(U)]。価値は、超感覚的な「思惟のみ可能な存在」です。つまり、価値は使用価値に現象します(第3節)。
②商品物神性(同第4節)とは、価値の表現媒態になった使用価値があたかも価値そのものであるかのように反転し仮象する理論的な事態です[U(V)]。価値形態と商品物神性では、価値(V)と使用価値(U)とが逆転します。これは「反転対称」の操作と同じです。『資本論』第1章第3・4節は共に理論的な考察です。
続く③交換過程(第2章)とは、価値の実践的な実現と使用価値の実践的な実現が対等に抗争する具体的な事態です[V(U):U(V)]。交換過程では価値形態と商品物神性が現実的な実践過程である交換過程に統一されます(ここでは詳論しませんが、理論的表現と実践的実現との区別と関連はカントの『純粋理性批判』に依るものです)。商品物神性[U(V)]の事態を180度回転して鏡に映す操作「回転対称」を行った結果が交換過程[V(U):U(V)]です。
つぎの貨幣論Ⅱの順序①→③→②の最初の①価値尺度機能は、価値の観念的表現(値付け)ですから①価値形態と同じく「抽象的」なので、①です。つぎに③流通手段機能が来るのは、場面が値付けした商品を実際に販売する場面に移るからです。その場面変換は、③交換過程の商品が主体の「商品と商品の関係」(商品→商品)から、貨幣が主体の「貨幣と商品の関係」(貨幣→商品)に変換する「反転対称」が対応します。最後に、貨幣の①③の売買機能以外の「蓄蔵機能(・支払手段・世界貨幣)」は、価値自体が使用価値(金)で体現される姿態ですから、②商品物神性の展開形態です。
貨幣論の順序①→③→②は、「回転対称」操作でつぎの「貨幣の資本への転化」のⅢ②→③→①の順序に変換されます。「商品=貨幣の次元」と「資本の次元」とは根本的に異なることが、その変換の文法上の理由です。資本は具体的な姿態では認知できません。資本は商品・貨幣・生産諸条件の形態で運動し増殖する超感覚的な存在=価値です。貨幣の資本への「転化(Verwandlung)」には、「異次元への変換」の意味があります。『資本論』は「諸転化」の重層体系です。
カントは『純粋理性批判』で、関係する諸主体から「関係自体」が自立し、それが諸主体の「属性」に転化することを「仮象」と規定します。マルクスは「ミル評注」でこの転化の機構をカントから学んでいます。ヘーゲルもそうです(『法哲学』)。商品は財の仮象形態です。財の所有者が財を互いに等置しあう関係行為(Verhalten)・取引関係(relation)が、財の使用価値を捨象し価値を抽象します。その価値が財の属性に転化し、財は商品になります。抽象的な価値は、具体的に自己を表現できる商品の種類を無限に多くもとめます。無限態である価値は本性上、資本です(『経済学批判要綱』)。価値はまず商品と貨幣に現象し、商品と貨幣は自己増殖する価値=資本の運動形態に転化します。
転化論Ⅲの順序②→③→①の、最初の②世界貨幣は貨幣の最後の規定「世界貨幣」を継承するものです。その貨幣が資本に転化しようと登場する場面から、貨幣資本と労働力商品との交換の場面に移り、「資本の一般的範式」を考察します。この場面は商品の現実的実践的な交換が行われる③交換過程が展開した場面です。①最後の労働力商品の購買と販売は、支払う価値と受け取る価値(剰余価値)との差という価値タームでの考察ですから、価値そのものの表現である①価値形態論の観点が展開した場面です[Ⅲ②→③→①]。
つぎのⅣ②→①→③の最初の②労働過程が②商品物神性論の観点から考察されているのはなぜでしょうか。労働過程と見えるものは、資本の生産過程の「仮象」です。資本主義における生産過程は資本が組織したものです。ここには②商品物神性論の観点がすえられています。この視座は、従来の労働過程=「歴史貫通的な活動」という理解(誤解)に反省を迫ります。この誤解はスミスの文明社会を「自然的自由の体系」として永遠の秩序とみな観点と共犯関係にあります。一見「歴史貫通的なもの」のように見えるものは、実は「資本の仮象」であるというマルクスの批判的観点を看過してはなりません。この観点設定は『資本論』の文法によります。文法の操作で「資本の生産過程」規定を捨象し、あくまで理論的抽象として労働過程を考察するのが『資本論』の②労働過程論です。労働過程論のあと、①価値増殖過程という本来の目的に戻って考察し、最後に③労働過程と価値増殖過程の統一を考察するわけです[Ⅳ②→①→③]。
Ⅳの順序②→①→③は、価値増殖過程と使用価値を生産する労働過程が「並行関係」です。資本主義は価値増殖を自己目的とする資本が主体の制度であるから、「価値優位の順序」に変換しなければならないので、順序Ⅳの②→①→③を「回転対称」操作した順序が次のⅤの③→①→②です。この操作も『資本論』の文法の働きです。その最初の③で、生産手段は価値が変わらないから「不変資本」と規定され、労働力という使用価値が価値を増殖する可能態であるから「可変資本」と規定されます(共に数学用語「不変=定数(constant)・可変=変数(variable)」=カントのいう「概念の関数的規定」)。不変資本と可変資本とは対立しかつ補完しあう関係にありますから③の交換過程論の観点が対応します。つぎの可変資本と剰余価値の関係比率を総括するのが「剰余価値率」です。それは価値の増殖率の問題ですから、①価値形態論の観点からの考察です。最後の「絶対的剰余価値」が②の商品物神性論の観点であるのは、労働力商品の使用価値(剰余価値生産可能態)がその価値と混同されて。労働者は生産した価値(V+M)すべてを賃金として取得するかのように現象する「仮象」だからです。
つぎに「反転対称」操作で、Ⅴ③→①→②が最後のⅥ③相対的剰余価値→②労賃→①資本蓄積(②原蓄)の順序に逆転するのは、Ⅴの最後の②絶対的剰余価値の生産=「労働時間の絶対的延長」とⅥの③相対的剰余価値の生産=「労働時間一定」では、剰余価値生産の条件が逆転するからです。Ⅵの最初の相対的剰余価値論は、Ⅴの最初の③「不変資本(生産手段)・可変資本(労働力の価値)」の考察を継承します。労働時間一定のもとで、よりすぐれた機械装置(不変資本)を導入し労働生産性上昇率(a)をあげることで、労働力の価値(V)がV/aに減り、その減少分[V(1-1/a)]が剰余価値(M)に加わり、剰余価値が[M+V(1-1/a)]に増加します。この変化は不可視です。そのため、労働者と資本家の価値生産物の分配関係では、労賃(V)が価値生産物(V+M)に等しいかのように仮象します。これが②労賃です。第1部は価値の運動を第一義としますから、資本蓄積は①価値形態論の観点から考察されます。この資本蓄積は、使用価値(生産手段・生活手段)の再生産を前提する「価値の蓄積=再生産」です。最後の原蓄論は②商品物神性論の仮象の観点から解明されます。マルクス同時代までの通説では、近代資本主義は「勤労と禁欲の結晶によって生まれた」とされて、原蓄過程の暴力性が隠蔽されます。その「仮象」を暴露するためです。ここでも『資本論』の文法が作動します。以上が、『資本論』第1部の文法についての概要です。
最後に、『資本論』の基本視座、②商品物神性論の「仮象」の観点が作動する個所の系列をあげると、こうなります。
《商品物神性論→蓄蔵貨幣→世界貨幣→労働過程→絶対的剰余価値→労賃→原蓄》
「仮象」こそが『資本論』の編成原理です。
「マルクス=カント関係」に関心のある方は、拙著『《資本論》のシンメトリー』や拙稿「『資本論』と『純粋理性批判』」(『社会科学年報』専修大学社会科学研究所発行、2016年3月予定)をご覧下さい。後者の論文は、『資本論』の哲学史的源泉が『純粋理性批判』にあることを詳細に解明するものです。「フィヒテ・シェリング・ヘーゲルはカントの枠内にある」というのが『数学草稿』でのマルクスの指摘です。めったにカントの名前をださないマルクスの貴重な指摘です。『数学草稿』には、数学史と哲学史の対称性を表現するため、用語「対称性(Symmetrie)」が使われています。『資本論』でも商品関係は「対称的」であると規定しています。商品形態という仮象は、《感覚的かつ超感覚的》というように、シンメトリカルです。『資本論』のシンメトリーは、報告者(内田弘)の恣意的な造語ではなく、『資本論』自らが開示する主題です。(終)
第290回現代史研究会
日時:10月10日(土)1:00~5:00
場所:明治大学・研究棟第1会議室(4階)
JR「御茶ノ水」駅から徒歩4分―明治大学リバティタワー裏手
テーマ:「『資本論』の文法― マルクス研究に召喚されるカント ―」
講師: 内田 弘(専修大学名誉教授)
コメンテーター:中村勝己(大学教員)
田中裕之(大学教員)
青山雫(ちきゅう座運営委員・経済学)
参加費・資料代:500円
参考文献:「『資本論』のシンメトリー」(社会評論社2015.9月新刊)
主催:現代史研究会 協賛:ちきゅう座
問い合わせ先/090-4592-2845(松田)
毎月の現代史研のご案内はウェブサイトちきゅう座をご覧ください(閲覧無料)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study660:151009〕
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