沖縄県民に学び、足元から自己決定権・人権を!
- 2015年 10月 15日
- 時代をみる
- 加藤哲郎沖縄
2015.10.15 安保法制が公布されて、第3次安倍内閣が発足しました。自衛隊を海外に派遣できる「一億総活躍社会」が売りなそうですが、なにやらきな臭い陣容です。70歳以上の方なら、「一億総動員」「一億一心」「進め一億火の玉だ」「一億玉砕、本土決戦」を想い出すでしょう。戦後生まれでも、戦争責任を曖昧にする「一億総懺悔」がありました。いやこの一億の7000万人は日本人でしたが、3000万人は朝鮮半島・台湾・南洋諸島の人々で、本当は「敗戦」ではなく、日本の植民地支配から「解放」された民衆でした。政府から「一億」と呼びかけられた時は、要注意です。それを担当する大臣は、安倍首相の側近中の側近ばかり。今度の内閣の公明党議員を除く20人中19人の大臣が、「日本会議国会議員懇談会」「神道政治連盟国会議員懇談会」「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のいずれかに属する、右翼ナショナリズムの色濃い布陣です。新任の加藤勝信・一億総活躍担当相と林幹雄経済産業相は、3つの議員連盟全てにトリプルで所属している、ウルトラ・ナショナリストです。こんな大臣が、「一億総活躍担当相」は女性活躍・再チャレンジ・拉致問題・国土強靱化・少子化対策男女共同参画担当兼務で、「経産相」は原子力経済被害・原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当兼務ですから、原発再稼働も、被災住民への補償の行方も、方向が見えます。ましてや復興大臣の高木毅議員は、原発城下町敦賀出身のゴリゴリの原発推進派です。タレント上がりの環境相、文科相とあわせ、憂鬱な秋です。早くも農林水産大臣に政治献金疑惑です。
中でも見え見えなのは、沖縄県選出島尻安伊子参院議員の沖縄北方相就任。県民の総意を代表する翁長知事による沖縄米軍普天間基地(宜野湾市)の名護市辺野古移設計画への辺野古埋め立て承認取消と、その後の法廷闘争を見越した、補助金バラマキ・懐柔工作の担当です。しかし翁長知事への県民の支持は、盤石です。国は対抗措置として行政不服審査請求を行い、法廷に持ち込まれるでしょう。国会での安保法案強行採決の余韻がさめやらぬ9月21日、翁長知事はジュネーブの国連人権理事会で、「沖縄の人々は自己決定権や人権をないがしろにされている」と世界に訴えました。この「自己決定権」はright to self-determination、つまり国連では「民族自決権」として、1945年の51か国での出発から、今日の194 か国まで、アジア・アフリカ・太平洋諸国の独立をうながし、他方で、ソ連邦やユーゴスラビアの崩壊・分裂を促してきた、20世紀の基本理念の一つです。同じ席で、日本政府は辺野古移転は国内問題であり人権侵害はないと反論しましたが、沖縄県民の決意と声は、「独立をも辞さない」ものとして、国際社会に届いたはずです。もともと民主党系基地反対派から自民党に寝返った島尻を担当大臣に抜擢し、沖縄の民意を、カネと役職で分裂させる魂胆で、また、うまくいかなくても簡単に切り捨てることができる、という算段です。
この沖縄県民分断策、1952年サンフランシスコ講和条約・日米安保条約で独立直後の、第4次吉田自由党内閣時の石川県選出林屋亀次郎国務大臣の役回りと、そっくりです。まだ朝鮮戦争が続く1952年秋、石川県金沢市近郊の内灘に米軍の試射場を設ける話が、米軍・日本政府から持ち込まれました。日本で初めての本格的な米軍基地反対運動、いわゆる内灘闘争の始まりです。Wikipediaには、「アメリカ軍の砲弾の需要が大きくなり日本国内のメーカーから納入される砲弾の性能を検査するための試射場が必要となった。試射場には長い海岸線をもつ場所が適しており、静岡県の御前崎周辺と、この内灘砂丘が候補となり、最終的に内灘に決定された。これに対して村議会は反対決議を行い、北陸鉄道労組は浅野川線で行われる資材搬入に対してストライキを行うなどの支援を実施した。政府は石川県選出の参議院議員林屋亀次郎を接収担当の国務大臣として説得に当たらせた。1953年の参議院選挙で、接収反対を掲げた井村徳二が林屋を破って当選したが、当時井村は金沢市片町で大和百貨店を経営しており、一方林屋も同市武蔵ヶ辻で同業の丸越百貨店を経営していたことから『武蔵大和の日本海決戦』という言葉で白熱した選挙戦となった」とあります。当時金沢の保守系有力財界人「番町会」の中心にあった林屋亀次郎は、もともと吉田自由党より改進党に近かったのですが、大臣の椅子の誘惑にかられて、吉田首相の誘いに乗りました。大臣就任を祝ってもらうはずのお国入りは、「カネは1年、土地は万年」を掲げる内灘村の漁民・女性や、米軍射撃場反対のデモに取り囲まれました。53年4月の衆参両院選挙が、石川県民の「自己決定権」行使の機会となりました。米軍射撃場誘致反対の漁民や労働組合は、もともと林屋の「番町会」の一員で後輩ながら、改進党系で誘致反対の井村徳二を、参院石川地方区の対立候補に立てました。社会党・共産党も立候補を見送りこれを支持、井村が社長の北陸鉄道労組も反吉田・反林屋で井村を支持しました。結果は、井村21万、林屋19万で、大接戦の末に井村が勝利し、林屋は独立後初めての「現職大臣落選」の記録を残しました。内灘闘争は、この参院選反対派勝利で、全国から労組・学生・知識人が支援に訪れる、戦後初めての本格的基地闘争になり、砂川闘争に受け継がれました。社会学者清水幾太郎が平和運動指導者として名声を獲得し、作家五木寛之が「内灘夫人」に描いた、あの内灘闘争です。闘争は、1957年のアメリカ軍撤収で終息しましたが、現地内灘町には歴史民俗資料館「風と砂の館」があり、今日でも「鉄板道路」や着弾地観測場遺跡などに、試射場時代の面影が残されています。
つまり、内灘闘争における林屋亀次郎の現職国務大臣落選から、島尻沖縄担当相の行く末も見えてきますが、それは、沖縄県民の自己決定権がどこまで貫かれ、沖縄の人々の基本的人権を、本土の私たちがどこまで自分の問題として尊重し守り抜くかにかかっています。国会前だけでなく、全国での支援が必要とされています。と、ここまで読んだリピーターの皆さんは、本HPがこの間「情報収集センター(歴史探偵)」で探求してきた「ゾルゲ事件と731部隊」、「731部隊二木秀雄の免責と復権」(2015夏版)の中に、53年内灘選挙の話があったことに、気づかれたでしょう。そうです。上記の林屋亀次郎・井村徳二の内灘参院決戦に、社会党・共産党さえ基地反対票の分散をおそれて予定候補者を下ろし「愛国統一戦線」を作ったのに、東京から郷里に戻って、(731部隊での軍歴はさすがにオモテに出せなかったために)「金沢医大医学博士・東京の出版社社長」として立候補し、1万2千票で惨敗・落選したのが、元731部隊結核・梅毒班長で雑誌『政界ジープ』発行者の二木秀雄だったのです。詳しくは、情報収集センター(歴史探偵)のpdf「731部隊二木秀雄の免責と復権」(2015夏版)の、当該頁をご覧ください。また、内灘の話は中心にはなりませんが、ご関心の向きは、本日10月15日(木)午後神田・如水会館・新三木会「戦争の記憶」、10月18日(日)午後世田谷区経堂・日本ユーラシア協会「ゾルゲ事件と731部隊」の公開講演で私が問題提起しますので、どうぞご出席ください。
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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