小説 「明日の朝」 (その17:最終回)
- 2015年 11月 13日
- カルチャー
- 小説川元祥一
17
次の日彼は学校に寄らずにまっすぐアパートに帰った。学校で受けるべき授業はなかった。気休めに山岡たちとだべっていようかという気持ちがあった。しかしそれよりも何よりも、自分の部屋でゆっくり眠りたかった。そのうえで、今の自分の状況や自分がやるべき事をゆっくり考えたい。頭の中には岡谷千津子のことがあった。何の意味もなく人との約束を破るような人ではないだろう。しかも会社を休んでいる。何かの事情があったのだろう。風邪をひいて熱を出しているかも知れない。どんな状態なのか彼女が置かれている状況を知りたくてしかたなかった。そのためにもう一度会社に電話をするかどうかー。しかし少なくとも朝早くから電話をするのはやめた方が良さそうだ。そう思って彼は自分のアパートに戻った。
ひと眠りしていくらか気持ちが落ち着いていた。彼女の家に電話することも考えるのだったが、それはむしろ状況を複雑にしそうだった。千津子にとっても迷惑になる可能性もあるだろう。ここは二人だけのこととして進めよう。そのように思うのだった。そして、<彼女がもし、俺の電話を避けていたり、もしかして俺と逢うのを迷惑がっているとしたら、そんな女を追うのは俺の本意ではない>。そんなようにも思うのだった。
聖子を前にして彼は千津子を脳裡に描き、そのうえで千津子を選んだ。そうした選択を予想していたわけではないが、選択を迫られればそれが自分の正直な気持ちだった。しかし、<その千津子が自分に関心を持たないとしたら、それはそれで仕方ない。それが成り行きというものだろう。無理をしてまでそんな女を追いたくはない。それだけが俺の人生ではないだろう…。そんな恋愛観を俺は持っているのだろうか…>。
午後になって彼はアパートを出た。井之頭公園を抜けて住宅地の路地にいつも寄る定食屋があった。しかし彼は今日親しい者に会いたくなかった。一人でいたかった。独りで考えて居たかった。彼は住宅地を抜けて駅前に出た。そして昼飯代りに立食うどんを食べた。<腹が減っては戦にならぬ>頭の隅でそんなことを考えた。やはり逡巡があった。思い上がった自分がいるのかも知れないという羞恥もあった。しかしただ一つ、事実だけが知りたかった。
立食うどんを喰った後、彼は駅前大通りに戻って映画館の方に歩いた。映画館の前にガラス張りの電話ボックスがあった。取残されたような虚しい空気が漂う大看板の前だった。電話ボックスの中はタバコの脂の臭いがした。彼はメモ帳を取出して昨日大学の食堂で書き込んだ数字のダイヤルを回した。昨日と同じように胸が締めつけられた。
「はい。日日経済です」
「もしもし。総務部に繋いでください」
彼はここに来る間に思い付いた通り馴れ馴れしさを装った。思い付きはうまくいったようだ。千津子が総務部にいるなら、その現場に直接話し掛けた方が、より真実に近づくだろう。そのように思った。
「はい、総務部です」
ふいに男の声が入った。無愛想な声だった。
「日日経済新聞の総務部ですか?」
「そうです」
「岡谷千津子さんおられましたらお願いします」
平崎もまた無愛想を装った。
「岡谷君?」
男が独り言のようにつぶやいた。そして
「岡谷くんは?」と周りの者に聞く様子の声が受話器に入った。それからプツリと電話が途切れた。どこかのテーブルに回したのかも知れない。つづいて出たのは女の声だった。
「はい。岡谷は今日休んでおりますが」
部屋の空気を反映しているのか明るいはずんだ声だった。
「昨日も休んでいたようですが、病気で休んでいるんでしょうか?」
女の明るい声に悪乗りした口調で平崎は聞いた。千津子を追い回している感じは避けたかった。が、それはもう見え見えかも知れない。それでも一歩踏み込んで聞きたかった。
「ええと…。はい。岡谷は風邪をひいて休んでいるようですが」
「そうですか。わかりました」
中途半端な感じではあったが、実務的な話し方をしたまま電話を切った。その方が疑念が生れにくいだろう。が、しかし電話の向こうの空気からして彼の胸はいらいらしていた。<千津子は本当に休んでいるのか…>
煮え切らない気持ちのまま電話ボックスを出た。日差しで目がチカチカした。そんな日差しの中を歩きながら彼は自分が行き場を失っているのを知った。足が習慣のようにアパートに向かうのだったが、なぜか、このままアパートに帰るのが屈辱に思えるのだった。<死んだような時だ>彼は思う。<すべての目的と時間の経過を失っている男>。
<彼女の家まで行くしかないのだろうか…>何回か頭に浮かんだ思いだった。しかしやはり逡巡が強かった。家族と会うことになるからだった。今の二人の間に家族が入る必要はまったくないだろう。何かの偶然で出逢っただけの二人の関係を大袈裟なものにしたくなかった。第一、彼女の母親の世間馴れした風体が疎ましい。しかし、歩いていて再び思い付くものがあった。<彼女は、何かの事情があってもそれを俺に知らせる手段を持っていないのだ。もしかの時を考えて、それを知らせるのが俺の誠意というものではないか。もしそれがうるさく思われるとしても、あるいは結果として無視されることがあるとしても、それはそれで、それは最早俺と関係のない世界のことではないか…>
彼は足を止めて前の信号を見上げた。そして再び駅前大通りを駅に向かって渡った。もう何も考える必要はない。自分に向かって言った。何も考えずに行くしかない。行けば何かが分かるだろう。千津子が考えていることと、俺が考えていることー。それらが何かを知ればよい。それから何かを考えればよい。
彼は俊巡を押し切るように駅の階段を駆け昇った。田野まで切符を買って改札を入った。下り電車は空いていた。彼は座席に座りジャケットのポケットに両手を突っ込んだ。体に寒気がした。
埃っぽい駅前の商店をぬけると田圃が残っていた。おそらく十年ほど前まで静かな農村だっただろう。だが今は田圃と田圃の間の道端に家がつづいた。埃っぽくて閑散とした住宅地。そんな道筋の左側に、三年前雨の中で千津子と出合った雑貨店があった。あの時彼女との間に何かが生れたと思ったのは幻想だっただろうか。
雑貨店の屋根越し前方に、巨大な欅の群れが見える。この地域の古い農家が数軒残る屋敷林だ。千津子の家がその入口にある。大きな屋根を持つ母屋の裏に白壁の土蔵が二つ。その東側の畑の隅に小さな貸家が四戸。その道端の家に修平夫婦が住んでいる。この春多摩川の土手で花見をして以来久しぶりに見る小さな青瓦の屋根だった。<修平に出合いたくはない>彼はふと思った。それでなくても重い足取りに一層の重しがかかった感じだった。<これを想定しておくべきだった>千津子との関係は修平に何も知らせていなかった。知らせる気もないし、必要もないだろう。そんな修平に、おかしな形で知られることになりそうだった。それを知ったら、何を言い出すかわからない男ー。どんな状況下でも自分を美化し正当化する材料を探し出す奴―。
道筋のブロック塀を曲がると屋敷林だった。その下に続く道は森閑な屋敷街そのものだ。その右手、千津子の家の野菜畑の東端にある小さな家の窓が閉まっていた。花枝は勤めに出ているだろう。しかし修平がいる可能性は高い。
屋敷林が始まってすぐ、右側に石の門柱があった。まばらな芝生の中に踏石が続き、奥にガラス戸。全ては静かに乾いていた。彼は一度門柱の前を通り過ぎた。しかし思い直して引き返す。どんな事情があるにせよ、一度は通ることになりそうな門ではないかー。五箇並んだ踏石を踏んで、彼は玄関に立った。中に人の気配がなかった。彼は玄関の戸を引いた。戸は意外と軽かった。開かなければよいのにと思った。
「ごめん下さい」
声が喉で詰まった。
「はい」
あっけらかんとした女の声が奥から聞こえた。聞き覚えのある声だ。つづいて奥の廊下に中年の女が顔を出す。小太りした千津子の母親だった。
「平崎ですけど」
彼は言った。広中と言わなければ通じないかも知れなかった。しかし広中というと修平のことが思い出され、自分の心が揺れる感じがした。
「あら、広中さんの…」
千津子の母親がエプロンで手を揉みながら玄関に来た。名前よりも顔がものを言う、といったところだ。くったくのない素振りだった。重苦しい気持ちを抱いて来た自分が馬鹿馬鹿しい感じでもあった。<もしかして千津子は俺のことを親に話していないのかも知れない>
「あの、千津子さんが病気で会社を休まれてるって聞いたもんですから」
「あら、それはどうも。少し風邪ぎみなもんですからね、ここのところ休ませてるんです。ご丁寧にすみません。広中さんの所に来られてるんですか?」
「いえ、千津子さんが病気ならお見舞いにと思いまして」
「それはどうも。わざわざ来られたんですか?」
嘘でもいいからついでだと言えばよかった。そんな思いが脳裏を走った。母親の表情が険しいものになるのが手に取るようにわかったからだった。
「千津子に伝えときます。どうぞお気になさらないで下さい」
そのように言った時、母親が硬い表情で彼を睨みつけた。<千津子が俺の故郷のことを話していたら、この堅い表情はもしかしてあり得ることなのか…>
「そうですか。ただ少しだけ、千津子さんと話したいことがあるんですけど。お知らせしたいこと、と言うか…」
「千津子は寝てるんです。伝えることがありましたら私から言います」
母親の表情はますます硬くて、言葉も断定的になるのだった。
「直接話して、千津子さんに聞きたいこともあるもんですから」
彼は喉で固まる声を振り絞った。。
「それでしたら後にしてもらえませんか。私も手が離せないことがありまして。台所で火も付けてますし」
母親が話しを打ち切ろうとして体を小刻みに動かした。
「そんなに時間とる事ではりません。少しだけ会わせてもらえませんか」
「千津子は寝てると言ったでしょう。それに何ですか?あなた。どうして千津子が会社休んでいるの知ってるんですか?」
「会社で聞いたんです」
「会社で?会社に行ったんですか」
「いえ、電話ですが…」
「どうしてあなたが千津子の会社に電話するんですか?。」
「千津子さんに聞きたいことがあったものですから」
「あなたのような人に直接話し掛けられるようなことは何もありません。すぐ帰ってください。ずうずうしく他人の家にやってきて、何ですかあなたは。警察呼びますよ。このこと広中さん知ってるんですか?」
母親の剣幕につられてか、奥の部屋から若い女が廊下に顔を出していた。千津子の妹の米子という高校生だった。
彼女たちの父親は町の商工会に勤めていて、千津子の弟が日野自動車に入ったという話しを聞いたことがある。だからこの時間は家に男がいないかも知れない。そして、彼女たちも心細い思いをしているのかも知れない。
「僕はこちらに迷惑をかける積りはありません。静かに話してすぐ帰ります」
「米子、広中さんを呼んで来なさい。なんですか人の家に勝手に入ってきて」
米子が勝手口に走るのが見えた。<ややこしい事にならなければいいが…>
と、その時だった。廊下の奥の薄暗い壁の前にワンピース姿の女が立った。千津子だった。彼女は最初壁に体を隠すように立っていたが、ややたって廊下に現れゆっくりと歩き始めた。やたらと落ち着いた大人っぽい表情だった。
母親が振り返った。
「千津子あなた自分の部屋にいなさい。熱もあるんですから」
「いいわお母さん。私がお話しします」
「千津子。あなたは引っ込んでなさい」
母親が千津子の前に手を広げた。
「大丈夫」
千津子が母親の手を払った。
「よしなさい千津子。警察を呼ぶわよ」
母親が態度を乱した。
「よしてお母さん。私お話しして来ますから静かにしてちょうだい」
千津子が玄関に出てきた。少しやつれた顔だった。しかしどうやら外に出る気らしい。
「このこと広中さん知ってるんですか?」
なおも千津子の腕をつかもうとしながら母親が平崎に聞いた。
「伯父さんは関係ないです」
千津子が土間に下りて来た。紺色のワンピースの裾が広がった。
「お隣の近藤の小父さん呼んで来るから、小父さんが来るまで待ちなさい千津子。外に出ちゃいけません」
「お母さん。私もう子供じゃありません。恥ずかしいから黙っててちょうだい」
千津子が言い残して玄関を出た。平崎も彼女の後につづいた。
弱い光りが白々しかった。門先に出て千津子が一度左右を見、左の道をとった。静かだった。勤め人と農民が混じりあった住宅地の昼下がり―。
太い欅の下を歩き、さっき彼が通った道に出た。角で千津子が足を止め、振り返った。この先どう行くか彼に尋ねた感じだった。彼は千津子の横に立ち、道を左に曲がった。修平の家の前を通りたくなかったが、やむお得なかった。白いブロック塀の向こうに乾いた畑が広がり、その向うに長大な多摩川の堤防が見える。二人で話すにはちょうどいいところだろう。
思った通り修平が家の前にいて、平崎を見た。少し離れて米子が立っていた。顎を突出し、頼りなげな顔で修平が一歩二歩と玄関先の道に近づいた。千津子の母親も米子の横に現れた。
「アキちゃんどがいしたんなら?」
修平が平崎に頼りなげな声をかける。千津子がその修平に会釈した。平崎は黙って歩いた。この男に口をきくと、全てがだめになる感じだった。口をきいたとたん緊張の糸が切れ、なにもかも泥沼の中に崩れてゆくー。
二人はゆっくりと畑の間の道を歩いた。千津子のスカートがやわらかく揺れる。彼女は素足に赤い緒のサンダルを突っかけていた。<彼女は本当に寝ていたのだろうか>
白菜やねぎを植えた畑がつづいた。左側の畑の奥に屋敷林に隠れた二軒の農家が見えた。その裏側を多摩川の堤防が曲がっていく。
「日曜日はすみませんでした」
黙って歩いていた千津子がスカートの上に手を会わす仕草をした。
「いえ、いんですけどね。どうしたのかと心配しちゃって」
「すみません。連絡の方法がなくて…」
やはりそうだったのか。
「僕もちゃんと知らせてなくてすみみません。それがあるので、ちょっとでも早くあなたに逢った方がよいかと思って来たんです。少し唐突かも知れませんが」
「……」
二人は堤防にかかり、人の踏んだ小道を上がった。多摩川の堤防に出て草の上にでも座りたかった。
「月曜日に僕があなたの会社に電話したのは知ってます?」
「ええ。心配おかけしちゃって」
「実は今日も電話しちゃって。迷惑かと思ったんですけど、何か急なことが起こってたら大変かと思って。僕との連絡方法知らせてないからね。だから僕の連絡方法名刺のように書いてきたんです」
平崎は言って、ジヤケットの内ポケットから紙切れを取り出した。部屋を出る前に名刺形に切った紙に住所と会社の電話番号を書いたものだった。
「これ受け取っといてもらえますか?」
彼が紙切れを渡そうとすると、千津子が手を伸ばした。が、その手の動きに彼はハッとした。<力が抜けている>病気で力が入らないといった感じではなかった。顔は少しやつれていた。しかしその他に体のやつれは感じていなかった。それは明らかに<気のない動き>そのようにしか言えない動きだった。<もしかしてそれは彼女の心の動きか…>彼女は紙切れを受け取り、書かれた文字を見ることもなく、スカートのポケットに入れた。
「風邪ひいて休まれてたんですか?」
「ええ」
「じゃあ、あまり歩かない方がいいかな。この辺座りますか?」
「いいえ。大丈夫です。歩いてる方が楽な感じ…」
「この後また僕の方から電話してもいいかなぁ。家にはし難いんだけど。会社など、あなたの都合の良い方で…」
平崎は最も聞きたいことを聞いた。あまり長く歩いているのも悪いと思ったからだった。
「有難うございます。でも…私、短大卒業して就職したばかりなんですね。だから何もわからないんです。本当に。これからたくさん勉強して平崎さんや広中さんのお話し聞けるようになりたいんですけど、会社の方でもたくさん勉強しなくちゃならないことあって…。ですから、お誘いいただくのとても嬉しいんですけど、まだ一人前じゃないと思っていただいて…」
俯いたまま千津子が言った。消え入るかのような声だった。しかし彼女はこれが言いたくて母親の静止を振り切った、そうした意思がはっきり伝わるようだった。彼の紙切れの受け取り方、座って落ち着こうとしない態度も含めて、すべてがそこに集中されているように思えた。平崎には予想外な感じであった。しかしもちろん、まったく予想出来ないことではない。ただ、もっとギクシャクするかと思っていた。<こんなにきれいに外されるとは思わなかった>これが彼の本音だろうか―。
その時突然後ろで男の声がした。修平だった。修平が後を追っていたのか?
「アキちゃん、もう帰りなさい。警察が来とるで…」
その言葉に驚いて後に目をやると、制服姿の警官が二人、堤防の上をこちらに向かっていた。その後ろに千津子の母親が立っていた。
<何んのことだ!彼女がわめいていた通り本当に呼んだのか…>。
千津子も気づいたようだ。
「お母さんたらもう…」
二人の警官が近づいてきた。
「百十番が入ったものですから」
年上らしい警官が言った。そして平崎に近づいた。
「何をしてたんですか?」
「別に…。二人で打ち合わせというか、彼女に知らせたいことがあったし、彼女が会社休んでいたので心配もして…」
「名前は?」
いきなり尋問調で不愉快だったが、千津子の母親が電話したかと思うと仕方なかった。ここで変に突っ張ったら、ますますおかしくなるだろう。そしてそれは、悪意をもつように見える千津子の母親の思う坪ではないか。三年前の学生運動の中では名前を言わなかった者がより自由を勝ち取ったがー。
「平崎と言いますが…」
「男が突然家に入って来て娘を連れ出した、と百十番あったんですけどねえ…」
「そんな事しませんよ。挨拶して入りました。彼女も自分で外に出てくれたんですよ」
気が付くと千津子が若い警官に腕を取られ、母親の方に歩いていた。この場面で二人は切り離されるのか?平崎は思った。別々に職務質問され、永遠に二人の言葉が交わることのない世界に変わるのだろうかー。
「ただ、彼女のお母さんが私と彼女が会うのを嫌ってるようで、そんな事言ったかもしれきません。彼女、風邪ひいて会社休んでたので見舞いも込めて知らせることあったんです」
「念のために住所、職業教えてもらえますか。車の中でちょっと書いてもらいたいんですが」
そう言って警官が平崎の腕を掴んだ。修平がすぐ近くに立っていた。
「この人は知り合い?」
警官が修平を見て聞いた。
「親戚の者です。伯父です」
「君の身内の人ですか。そうですか。少しだけ話し聞かせてもらっていいですか。一応形式だけでも…。一応お名前を…」
「広中です。広中修平です」
「広中さんも平崎さんと一緒に来られたんですか?」
「いえ違います。私は岡谷さんの屋敷の中で家を借りている者なんです。あそこにある家ですけど…」修平が青瓦の家を指差した。その手前にパトカーが留まっていた。「岡谷さんの奥さんに声を掛けられて出てみたんです。これが私の甥にあたる者ですから。ただこの章行は私のところによく遊びに来てる者ですから、さっきの千津子さんとは知りあいなんです。だからどっかで二人がデートしたりしてたんでしょう。その事をお母さんが知らなくてビックリしたんだと思いますよ」
修平にしてはうまいことを言う。修平の思い付きに平崎はめずらしく感心した。しかし調子に乗って余計な事をしゃべらなければいいがー。気を揉みながら平崎は歩いた。
パトカーの前では千津子と母親を聴取していた若い警官が待っていた。千津子と母屋の姿は見えなかった。家に入ったのだろう。母親が碌でもないことを話しているかも知れない。しかし、千津子が本当のことを話してくれさえしたら特別な事件にならないのではないか。
パトカーの前で二人の警官が立ち話をしていた。
「千津子ちゃんとデートでもしょったんか?」修平が尋ねた。
「ちよっとだけな」
「それであの事を話したんか?」
「何を?」
「部落こと」修平が声を落した。
「うん。隠すようなことじゃないけんなぁ」
「そうだったのか。それであのお母んが嫌みを言うた意味がはっきりした…」
「何か言うたん?」
「つい四五日前じゃけど、わしが庭の花に水をやりょったらお母んが寄って来てなあ、広中さんは江戸時代のことを書いとるんですか?言うけん、何のことかわからなんだけど、まあ間違いじゃないけん、そうです言うたら、江戸時代はそんな人はこの屋敷に入れなかったんですよ、言うんじゃ。その時すぐには何のことか思い付かなんだけど、後で村のことかも知れん思うたんじゃ。これもわりと最近知ったんじゃけど途中の駄菓子屋がそうらしいで。昔はあそこが番小屋だったらしい。地元の者がお母んと同なじことを言うのを聞いたことがある。そいじゃけど、お前がその事を千津子ちゃんに話したとは思わんけん、このお母ん何が言いたいんじゃろう思よった。ほいじゃけど、千津子ちゃんがそれをお母んに話したんじゃろう。あの子は特別悪気はなかったかも知れんけど、あのお母んにお前とつきあうのをやめとけ、言われたんじゃ思う。田野にも鉄道の向こうにその村があるらしい。駄菓子屋の親戚もそこにいっぱいあるらしい」
「千津子の親が部落の者とつきあうな、言うた言んか?」
「そう思う。そうでないとこがい大袈裟になるわけないだろう。嫌がらせじゃ。娘に近付くないう嫌がらせじゃ」
若い警官が近づいて来て修平が口を閉ざした。
「平崎さんは何をされに岡谷さんのお宅に来られたんですか?」
唐突な質問ではあったが、警察としては気北区なるものかも知れなかった。
「特別ではないですけど、会う約束してた時風邪で来られなかったんで、見舞いがてらに…」
「千津子さん今日はお会いする予定はなかったと言ってますがね」
「今日は私が勝手に来ました。この伯父の家にはよく来てますし、彼女に知らせたいこともあったもんで」
「そうですか。お母さんが随分怒ってましてね、娘さんが一生懸命なだめていましたよ。娘さんの話しではこの件は事件にはならないと思いますが、お母さんの方は“強盗みたいに入って来た”とか“あの人たちを屋敷に住ませたのが間違いだった”など言ってますが、これまでに何かあったんですか?」
若い警察官が修平を見た。
「いえ何もないですよ。ちゃんと家賃払って何年もここにいますから」修平が答えた。
「お母さん少し感情的になってるかも知れませんけどねぇ。この場合お母さんに一言謝っておいた方がいいんじゃないですか」今度は平崎を見て言った。
「病気見舞いに来てこんなになるんじゃたまんないねぇ」平崎が言った。すると修平が慌てて取り繕った。
「いえ。後で謝っときますよ。今は何を言っても言い争いになってもいけないので。奥さんが少し冷静になった時にね。普通はおとなしい人なんですけどねえ」
「お願いします」若い警官が律儀に答えた。パトカーの無線で何か話していた年配の警官が近づいた。
「広中さん、ちょっとお家お借りしていいですか。平崎さんに住所と職業だけ書いてもらいたいんですが、パトカーの中より、お家の方が大袈裟でなくていいかと思いまして…」これもまた警察官の常套手段ではあろう。より現場に近付くのが彼らの目的に違いない。しかしこの場面で事を荒立てないのが得策と考えて平崎は、警官が差し出すノートに自分の住所とアルバト先の後成園スタジアムの名を書き込んだ。
こうして平崎は、目の前の喧噪を抜け出していた。最初自分で作り出した喧噪だった。しかし事は思わぬ方向へ向かい、自分の意思とは別の世界、いわば人々の日常、そしてあの巨大な渦巻の世界とも言える世界に巻き込まれていたようにも思う。しかも気づくと、自分が思ってもいなかった場面に立っていた。千津子の家の屋敷の中ー。しかも、決別しようとした伯父と一緒にそこにいる。そしてそれは、これまでとはまったく別の世界。考えたこともなく、予想したこともない世界ー。千津子と同じ空間に居ながら、二人はもはや出逢うことがないかも知れない世界ー。<こんなおかしな世界があるなんて信じられないで…>
母親や千津子に謝罪しながら再び彼女に接近することも考えられないわけではなかった。修平の家にはいくらでも来れるのだった。そのような思いが脳裏を走る。しかし一方で、千津子の心の内が気になった。彼女は多分気持ちが引いている。<俺との関係を積極的には考えていないようだ>。今日の彼女の態度からするとそのように思われた。しかしどうしてそのように引いているのか、そこのところが気掛かりだった。
堤防で彼女が言った言葉は、無理のない感じだった。あり得ることだろうと思った。しかし彼女が言う通り、平崎が話した村のことや修平の仕事のテーマについて本当に勉強したいなら、そこから離れる発想は生まれないかも知れない。そうだとすると、勉強したいと言うのは、言い逃れの手段かも知れなかった。そのうえ、母親の言葉として修平が語った“江戸時代はこの屋敷に入れなった人”それが何を意味するか明らかだろう。江戸時代に番小屋だったというあの駄菓子店の話から修平が洞察するものが当たっていそうだった。しかも母親はその言葉を修平にむき出しにした。
そこまで考えて平崎は胸に冷たいものを感じた。<千津子は母親の言葉によって、俺との関係を断とうとしているのだろうか…?>
あの駄菓子店から始まった二人のかすかな心の触れあいだった。<その触れあいが、この地域に根差した駄菓子店の歴史で終わろうとしているのか…?>
「もうすぐ花枝が戻って来るけん、晩飯でも食うて行けぇ」
修平が言った。二人の警官が立ち去り、修平が座敷に立っていた。
「いや、ちょっと用事もあるし…」
玄関先の板敷に座っていた平崎は思わず言った。独りで考えてみたかった。<おかしな世の中なんじゃないか。いったいどうなっているんだ。俺の周りでいったい何が起っているというのか、その事実を知りたい…>と。
―終―
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