11・16「ソウル宣言の会」学習会のレジメ
- 2015年 11月 12日
- スタディルーム
- 伊藤 誠若森資朗
「ソウル宣言の会」学習会
ポスト資本主義に向けての社会的経済の役割と可能性
―社会的経済は新自由主義勢力への対抗軸となるか-
2015.11.16. 伊藤 誠
1 新自由主義に対抗する代替路線の模索
1980年代以降の資本主義は、情報技術(IT)の高度化と普及を基礎として、企業の多国籍化と金融のグローバリゼーションを促進し、競争的で自由な市場原理の効率性を強調する新自由主義の政策基調のもとで、大規模な再編をすすめてきた。
とくにそれに先立つ1970年代初頭にいたる先進諸国での労資協調的な雇用関係の安定的拡大、経済格差の縮小、福祉国家への歩みなどが、その末期にみられた人手不足による実質賃金の高騰と利潤圧縮の危機を介して、大きく反転されてきた。公企業の民営化をも重要な方策として、労働組合の弱体化への攻勢がくりかえされ、安価な女性労働力を非正規のパートなどの形態で大量動員しつつ、雇用関係への社会的規制を緩和して、不安定で低廉な労働雇用を企業の国際競争力強化の手段として増大してきた。その結果、ワーキング・プア、晩婚化、少子高齢化社会化などの社会経済問題が日本でも深刻さを増している。
他方、グローバルな競争圧力を正統化理由にして、富裕者層への所得税の限界税率や相続税、さらには法人税も大幅に引き下げ、ピケティも批判的に告発しているように、経済格差や資産格差が再拡大し続けてきた。そのもとで、景気回復は、内外の投機的なバブルの膨張に依存しがちとなり、その崩壊にさいしては、金融諸機関、大企業、富裕者層に有利な救済融資、公的資金の投入、緊急経済対策が実施される傾向も反復されている。
新自由主義のもとでの資本主義の再編は、労働力を商品化して搾取しつつ、企業中心的に蓄積をすすめる資本主義経済に内在する競争的な格差の拡大、経済生活の不安定化、労働者の疎外、貧困化、自然環境の荒廃をまねく作用を、現代世界に浮上させている。
2013年にソウルで朴元淳(パク・ウォンスン)市長のイニシァアティブにより開催されたグローバル社的経済フォーラム(GSEF)は、こうした現代世界の危機を克服する方途として、労働者協同組合などの非営利的な企業や諸団体に代表される「社会的経済」と、それを助長する地方自治体の役割を協調する「ソウル宣言」を採択した。日本でもこれに呼応し、「ソウル宣言の会」が結成されて、活動を広げてきた。
この会の発足を呼びかけたひとりとして、協同組合的しごと場づくりや、地域社会の地産地消的経済活動の連帯、それをつうずる自然との共生社会再建の多様な試みに、営利企業中心の新自由主義に対抗する有力な可能性がひらかれてゆくよう、強く期待している。その期待はまた、ともに国家主義的な偏向をともない挫折した20世紀型の社会民主主義と社会主義とにたいし、代替的な21世紀型社会民主主義ないし社会主義への戦略理念と社会運動の発展のために、いま「何をなすべきか?誰がなすべきか?」マルクス理論家のD・ハーヴェイがサブプライム世界恐慌を分析しつつ、『資本の〈謎〉』(2012)の最終章で問いかけた、問題提起にもこの宣言が応える可能性が大きいためでもある。
ハーヴェイのいうように、不公平で不安定な現代世界の資本主義の発展は、「世界のいたるところに反資本主義的運動を生み出してきた」。ソ連崩壊後に1990年代にオルタ・グローバリゼーション運動が宣言したように「もう一つの世界は可能だ」という感覚は広く存在している。しかし、「中心的問題は、全体として、資本家階級の再生産とその権力の永続化に世界的規模で的確に挑戦しうるような、堅固で十分統一された反資本主義的運動が存在しないことである」。ここには「二重の閉塞が存在する」。すなわち、人びとを鼓舞するような構想なしには、本格的な反資本主義運動は出現しえないであろうが、逆にまた、そのような運動の不在がオルタナティブの明確化を排除しているのである。
そのような閉塞状況から抜け出してゆくためには、たとえば社会諸運動をつうずる共通の目標に関し、おおまかな同意が必要となる。そこには、たとえば、自然の尊重、ラディカルな平等主義、共同利益の感覚にもとづく社会的諸制度、生産手段の共同所有の発想、民主的行政手続き、直接生産者の組織する労働過程、新しい社会関係と生活様式の自由な探究、などがふくまれるであろう。こうした目標に向けての協力と連帯の共-革命運動にとって、現在生じつつあるマルクス主義と無政府主義との(マルクスとバクーニンとの対立以降の伝統をのり越える)収斂傾向も重視したいところである。また、反資本主義運動の担い手としても、伝統的左派が依拠してきた職場での労働者階級の組織運動にとどまらず、その外での地域社会での階級意識の形成、農民運動との同盟、さらに広く都市開発や信用制度のもとで、住まいや職場や所得を奪われ剥奪された人びとの反抗や生活権の要求などにも可能性が求められてよい。労働組合とともに協同組合、ワーカーズ・コレクティブ、NPO,NGOなどとの協力も必要とされる。
こうして「何をなすべきで、なぜなすべきなのかに関する構想と、それをなすための、特定の場所を越えた政治運動の形成、この両者の関係を一個の螺旋に転化させなければならない。どちらにおいても、なんらかのことが現実に行われるならば、他方が強化されるだろう。」。
アメリカでの民衆の格差拡大反対の街頭占拠運動、ユーロ圏に広がる反緊縮政策のデモや集会の波などにも、民衆の自生的な反資本主義への運動への連帯感が読みとれる。日本での、反原発の社会運動、大震災・原発事故からの協同組合的復興支援の連帯活動、沖縄の辺野古基地建設反対闘争、戦争法案反対運動の拡大などにも、広いグラスルーツの民衆的連帯への新たな可能性が感じ取れる。それらには、アナーキズムの伝統が重視してきた民衆の自由で自発的な参加を広げつつ、ハーヴェイのいう二重の閉塞からの反資本主義運動の螺旋的反転攻勢再生への契機がもたらされてゆく経路への貴重な萌芽が現実に姿をあらわしつつあるといえよう。
こうした民衆的な自生的連帯運動の支えとなりうる労働組合運動の再建と社会的経済の多様な成長がポスト資本主義にむけて、ともに大切な社会的基盤をも用意するものとなると思われる。
2 理論的基礎としてのポラニーとマルクス
GSEFでの協同組合的非営利企業を重視する社会的経済の理念には、カール・ポラニーの学説が、理論的基礎として重視される傾向がみられる。2016年にカナダでその大会が予定されているのは、モントリオールにおけるカール・ポラニー研究所の存在とその役割に期待しているところも大きいといえよう。
ソ連崩壊後の反資本主義の運動の理論的基礎が、マルクスに依拠しがたくなっているところもあって、世界的にも協同組合的社会主義を志向していたポラニーに、これからの社会的経済の理論的基礎を求める機運も広がっている。その主著『大転換』(1944)に示されているように、ポラニーは、労働も土地も貨幣も商品化する近代以降の資本主義は、社会に埋め込まれていた市場(交換)を、互酬や再配分のしくみと分離して、「悪魔の挽き臼」のように社会から離床させて肥大化し、社会的危機を招いていると分析し、社会に経済を埋めもどす必要を説いていた。協同組合的企業を基礎とした社会主義は、市場社会主義のポラニー的理念として、市場を社会的共同性のしくみに再規制する方途とみなされていたのである。
その経済人類学としての人類史的視野にたった資本主義批判と未来社会への理念は、マルクスが、資本主義に先行する共同体的諸社会の市場経済による解体から生じた資本主義の自然と人間への搾取・荒廃作用を批判的にあきらかにしつつ、自由な個人のアソシエーションへの変革を期待し、協同組合企業を資本主義の内部に生ずる未来社会への積極的な過渡形態として位置づけていたマルクスの発想とごく近いともいえる。マルクスは、他面で市場経済は、もともと共同体的諸社会の内部で発生したものではなく、共同体と共同体の間に発生し、共同体に外来性をもって破壊・分解作用を及ぼしているとみていたし、その観点から、未来の協同的社会は、市場経済を排除して組織しうるとみなしていた。その一面からは、ソ連型の集権的計画経済のみが、マルクス主義的社会主義のモデルとみなされる傾向も生じていた。
しかし、ソ連型モデルの失敗から、マルクスによるポスト資本主義のモデルも、多様な市場社会主義論として構想する理論的可能性が探られるようになってきている。そのさい、資本主義市場経済の根本をなす労働力の商品化の廃止をめざすことが、ポスト資本主義の要件となるとみるのが、宇野理論によるマルクス再解釈にもとづく発想となる。協同組合企業は、まさにその理念を資本主義の内部から、未来のポスト資本主義への積極的過渡形態として準備する意義をもつにちがいない。その意味でも、社会的経済は、いまやマルクス派的なポスト資本主義への可能性論においても、重視されてよいはずであろう。逆に、社会的経済の運動の広がりのためにも、その理論的基礎をポラニーやオウエンらの協同組合主義の発想のみにせまくとらえすぎないことが望ましい。
とくに社会的経済の一面に労働組合運動との連帯を求めることを、こうした観点でのその理論的基礎から加えられてゆくことも、期待してゆきたいところである。
3 エコロジーとラディカル・ヒューマニズムのために
ポラニーとマルクスは、社会的連帯経済による21世紀型の社会民主主義と社会主義の構想を、新自由主義的グローバル資本主義への対抗軸として、探求してゆくために、不可欠の理論と思想のよりどころとなるであろう。この両者の思想と理論には、人類史的観点に立った、資本主義市場経済への批判とそれをふまえたポスト資本主義の構想に、近接し重なり合ういくつかの発想がみられることは上にも述べたように、あきらかなところである。しかし、社会的経済の構想をさらに、21世紀の世界に問われている、根源的な課題との関係で、掘り下げてゆくならば、ポラニーとマルクスの差異とそれぞれの思想と理論の現代的発展が、相補的に求められているところも無視できない。
たとえばポラニーは経済理論の基本を労働価値説にはおいていない。そのため、資本主義市場経済の利潤、地代、利子などの剰余価値の源泉として、剰余労働の社会的取得関係が、その歴史性とあわせて考察される、古典派経済学からマルクスにいたる理論経済学の系譜に位置づけることはできない。そのことは、資本主義に対抗する協同組合企業の意義と、資本主義社会内でのその限界を検討する上でも、ある種の認識上の欠落をもたらす可能性もあり、さらに社会的連帯経済をポスト資本主義にむけて構想するうえで、潜在的な障害となる可能性もあるのではなかろうか。
ポラニーが構想していた協同組合企業にもとづく市場社会主義は、市場の動向で産業や企業ごとに有利不利が分かれた場合、利潤にあたる収益は、当該企業の構成員に配分し、企業ごとに所得の不平等を許容するのか、あるいは社会全体で再配分するように処理するのか。その論拠はどう考えるべきか。
資本主義に対抗すべきラディカル・ヒューマニズムないし、経済民主主義の徹底の論拠をどう構想しうるのか。
マルクスの労働価値説にも、その点では、熟練労働や複雑労働の単純労働への還元問題に宿題が残されており、そのことが労働に応じた分配の意味や内容を不明確にし、社会主義経済計算論争を生じ、労働の格付けをソ連型社会での不平等な官僚支配の基礎として存続させていた。協同組合企業による市場社会主義を集権的計画経済に代替的なポスト資本主義のモデルとするさいにも、その問題は、市場をつうずる評価が労働に応じた配分を意味しうるのかどうか、をめぐり、形を変えて浮上するであろう。マルクスの理論にも、経済民主主義の徹底が求められているのではないか。
地球環境や自然との共生を求めるエコロジズムにも、資本主義企業の営利主義をのりこえて、経済民主主義が徹底されてゆくように、社会経済のしくみを切り替えてゆく必要がある。脱原発への賛否を国民投票によって決定する諸国が3.11の過酷原発事故以後、増加しているのは、資本主義の枠内でも、追究可能なエコロジズム、グリーン・リカバリー戦略の有力な事例といえる。こうした試みが、社会的経済の提唱する地方自治体ごとに実現されうるならば、それも望ましい方向となろう。
ベーシックインカムの構想も、実現されるなら、それはラディカル・ヒューマニズムの方向に役立つとともに、非営利的協同組合や、NPO、NGOその他の地域社会の相互扶助活動の支えを経済面から助長し、その一環をなす地域通貨の実践にも寄与しうる。労働者協同組合企業の実践拡大とあわせて、これらの諸構想におけるラディカル・ヒューマニズムとエコロジズムへの志向性を育てることが、21世紀型社会民主主義の新たな可能性を示すところであり、20世紀型の国家主義的社会主義とは異なるポスト資本主義に、社会的経済を向けてゆく大切な道筋となるのではなかろうか。
文献:伊藤誠『経済学からなにを学ぶか』平凡社新書、2015年。「21世紀型の社会主義と社会民主主義を考える」月刊『社会民主』2014年4月号。
ソウル宣言の会編『「社会的経済」って何?』社会評論社、2015年。
『変革のアソシエ』No.18. 2014年10月。
11・16「ソウル宣言の会」学習会
11月16日(月)18時30分~20時30分(18:10開場)
明治大学駿河台校舎リバティータワー 7F 1076教室
講 師:伊藤 誠(経済学者)
参加費:無料
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study675:20151112〕
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