〈非知〉とは〈非僧〉だー川田恒信さん追悼
- 2015年 11月 19日
- 評論・紹介・意見
- 子安宣邦
川田恒信さんが早稲田でやっている私の思想史教室に、毛利健次さんとともにふらりと現れたのは2007年の春のことであった。これは私のあいまいな記憶によっていうことで、確かなことではない。いずれにしろ私はその時はじめて川田さんを知ったのである。いきなり現れた二人を見て、私はすぐに「本物」が来たと思った。より丁寧にいえば、「本物の活動家であった人」が来たと思ったのである。そう思ったのは、その服装と顔つきと目つきからである。ただ私はそう察しただけで、私のこの推定の当否を彼にも人にも、その時もそれ以後も尋ねることを私はしていない。
教室にいきなり現れた二人を見て、他のメンバーとの異質を感じながらも、どうせ一回きりの来訪者だろうと私は思っていた。だが私の予想ははずれた。彼らはそれ以後も欠かすことなく、毎月第二土曜日の私の早稲田の講座に現れた。ことに川田さんは、親友の毛利さんを亡くした後も、孤立感をただよわせながら早稲田の教室にほとんど欠かすことなく出てきた。
川田さんは直ぐに私の思想史講座にとって欠かすことのできない存在になった。彼の低い声での、耳の遠い私にはことに聞きとりにくい発言は、しかし厳しさと重さとをいつももっていた。それは川田さんが蓄えてきた思想体験の重さであり、きびしさであろう。彼の存在は私の講義を引き締め、教室を緊張させた。ことに私が戦後史を語りながら吉本隆明に批判的にふれるとき、私は川田さんとあたかも真剣勝負をするかのような緊張感をもった。吉本の『最後の親鸞』をめぐる私の講義の原稿は、重い聞き手としての川田さんを意識しながら書かれたものである。
「最後の親鸞」を「非知」にまで読み進めたとき、吉本はこれで彼自身も死ぬことができると思ったはずだと、私は『歎異抄と近代』の講義で語った。その数日後、川田さんからメールが届いた。そこにはこう書かれていた。「マルクス的に言えば、「現実を変革する、現実の思考運動」でしょうか、ぼくはそれも一種の「非知」だと思っています。」これは吉本のいう「非知」について私に考え直させる言葉であった。
「非知」を最後の親鸞の到達した境地として見れば、「非知」とはそれで死ぬことのできる言葉になってしまう。だが「非知」とは親鸞において「非僧」である。「非僧」とは寺院的知識の体系を負った僧における自己否定の運動である。知識人が己れの知識の自己否定を続ける知識人の運動を「非知」と見れば、最後にいたる親鸞をこの「非知」の運動を貫き通したものとみなされなくもない。(私の『歎異抄の近代』第14章「僧に非ず、俗にあらず」から)
川田さんは「最後の親鸞」について、「最後の吉本」について、そして「最後の私たち」について大事なことを教えてくれた。川田さんは11月10日の早朝に急逝された。
初出:初出:「子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ‐」2015.11.13より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/47711686.html
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