張一兵『レーニンへ帰れ』のご紹介
- 2015年 12月 17日
- 評論・紹介・意見
- 中野@貴州
来年3月情況出版社より、『マルクスへ帰れ』に続いて、張一兵氏の「帰れシリーズ」の第2弾、『レーニンへ帰れ』が拙訳で出版の予定です。それで、その一部をこのちきゅう座という開かれた場でご紹介したいと思います。
第一の特徴は、以下のようにポストモダンのテキスト解釈手法をふんだんに使っていることです。ポスモの論者によるマルクス解釈はかなり見受けられますが、マルクス主義者によるポスモのテキスト解釈手法の利用は稀有のことと思います。
「・・・・私は、上の二種の状況を除いたテキスト解読方法の第3次元こそが本書が打ち出した生産的なテキスト閲読という思想環境構造論である。事実上、思想構造環境論の最重要な関節点は次のような認識である。すなわち、閲読は復元ではなく創造性を志向する生産であるという認識である。私から見れば、テキスト学の真の基礎は「関係実体論」であり、憚ることなく言えば、読者から離れたテキストというものは根本的に存在しないのである。もちろん、誤解を防ぐためには、私は、この意味は「実体論」上の意味での指摘ではなく、「どんな読者も存在しないテキストはすでに死んだものである」ということをもっぱら指しているということを言明しなければならないだろう。ゆえに、テキスト学中のテキストと読者の二項対立なるものは常に虚構のもので、閲読中に真に存在する情景は常に読者の視野中のテキストが読者によって新たに活性化される過程であり、これは一種の関係的存在なのだ。スピバーグはデリダの『グラマトロギー論』を解読した際にこんな興味深いことを言っている。彼女は、テキストには根本的にどんな「堅固な同一性」もなく、「『書物』なるものは以前からずっと、同一性と差異性によって形作られる『テキスト』であった」ゆえに、「本の『同一性』は重複することはありえず、毎回読むたびに『原文』は仮象を生み出す」と見ているのである。私は、彼女は少し言いすぎであるとは感じるが。テキスト解読の途中では、読者は終始主人であり、真に存在するものは、実際には常に読者が自分の論理によって積極的に構築したある種の特定の理解という境界であり、人々は常に自分の解釈を理想のものとして、テキストのオリジナルのコンテキストであると指摘するにすぎないのである。この意味において、デリダは翻訳とテキスト解読の結果を足跡に比喩して、オリジナルの意味の不在性を説明している。私はこの主張もあまりに消極であるとは感じるが。換言すれば、それぞれのテキスト解釈は、実際には読者がテキストの名義で現時点での私的な言説を進めていることなのであり、対象性を持つテキストのコンテキストの真の出現ではないのだ。史料の客観性を追求する文献学の研究においてさえ状況は同じなのである。柄谷行人は、真の閲読とは「『作品』のほかはどんな哲学的前提も設けず、どんな作者の意図も前提とせず直接閲読することである」と言っているが、私は、これは出現不可能な情景であり、この種の「きれいな」閲読は文学者の幻想にすぎないと思う」
第二は、『唯物論と経験批判論』で徹底的にやっつけられたボグダーノフの再評価です。張氏は、ボグダーノフを「西洋マルクス主義」の先駆者と見ているようです。
「ボグダーノフは、物神崇拝の哲学が生まれた基礎は、まさに「現代の人類のすべての生活には交換価値の物神崇拝が浸透しており、この物神崇拝は人々の労働関係を物の属性として理解する」ゆえだと見ているのである。マルクスにあっては、正確に言うならば二つの理論質点があるはずである。一つ目は、古典経済学が資本を一種の社会関係と理解せず物の関係と理解したことへの批判であり、二つ目は、資本主義的市場交換が人と人との労働関係を顛倒させて物と物との関係にしてしまい、かつ、三大物神崇拝(商品の物神性、貨幣の物神性、資本の物神性)の中で、人々がこの顛倒した物相を物的現実(財)と直接してしまっていることへの批判的指摘である。実際には、ボグダーノフのこの言葉自身は間違ってはいない。マルクスの『資本論』中のブルジョアイデオロギー、すなわち物神崇拝批判の概括と言ってよいだろう。これは当時にあっては充分重要な理論的見解であるという意義を失ってはいない。西洋マルクス主義の第一代目の創始者青年ルカーチでさえ、これから20年後やっとこの点に気づいたのである」
いかがでしょうか?
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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