中国の歴史的段階と区分する日本の革命と左翼理論の立て直しと『カムイ伝第三部』の商品性、貧困の実像、どぶ板広報商品としての具体的唯物論的夢想(近未来史)について
- 2015年 12月 21日
- 交流の広場
- 武田明
序
2015年初頭、平井和正氏(76歳)も亡くなり、白土三平氏は、いよいよ最後の巨星となりつつある。
僕は、まずは、80歳代の意志の継承から「創造性」としての場の連帯を以下の様に考察する。
『21世紀の資本』以上の話題性とロングセラーとして重厚なる『カムイ伝』第三部に合流していきたいものだ。
それ以上の展開、テキスト化は、一人の作家の「プライベート牢獄」「独房」を抜け出したる共同主観的連帯の「場」としての展開として、切り開いていく事の夢想を実現したい。
再び、『白土三平研究』赤本の展開と歩調を合わせながら切り開く土壌を2016年に築きたいものだ。
『ヤングブラックジャック』を越え出ていこう!
だが、油断してはならない。マルクスは、第一巻にて潰えている。続巻は、意思を継いだエンゲルス、ベルンシュタインとカウツキーへと引き継がれている。
さあ、手遅れにならない内に、忍者ファン、漫画ファン、白土三平ファンは、声を合わせて連帯していかねばならない時である。
雁屋哲氏も交えて、小学館革命を手始めに狼煙を上げていこう!
(現代史漫画、原発漫画、更に広げていこう。文学もそれに続け。)
(1)
前回の投稿についても色々と手直ししをして、補足を施したいところであるのだが、他にも書き進めねばならないものがあるので、前後しながらゆっくり歩みを進めて行けたならと考えている。
①広報と浸透する思想とは何か?
著作テキスト化されたものと教育広報、政府広報としての独占に抗う「独立性」は何によって得られるのか?
この問いを仕上げなくてはならないのだが、やはり、経済学的意味での独立こそが問題の中心にあり、資本主義分析こそが、前提となっているのであるが、左翼と言うのは、まずは、イデオロギーであり、理念の域を出ていないものを補足しつつ、先細りとなっている理由の一つ一つを明らかにしていきたい欲求があるのだが、既に諦めている?人々もあり、政治的トータルリコール(=政党政治)ではなく、断片的「反発」、原発問題、戦争法、立憲主義の破壊などなどあげつらってデモ、アメリカに更に、日本政府の横暴へ抵抗しつつ辺野古基地反対などなどあるのだけれども、それを言論の府(国会)へ送り込むには、まだまだ必要十分条件に達していない、第二第三の山本太郎氏を送り込み、一議員少数政党の場を本来の「多数派」99%の論理に辿り着けない心理的、または、教育広報上の独占もさることながら資本主義の本質としての官僚支配、既得権益、経済学体系に切り込めていないものを埋められていない不備も展開するする連携も必要であるのだが、「言い当てられていない」故の、左派の「消去」性であり、「リベラル」の影に隠れ、タブー化されているのであるだろうか?
左翼も「商品」の域にとどまって細々と棲息する「自由主義」?
言論、理念だけの自由でしかない現状に、対して、真実を、哲理から経済学体系としての利権構造へと切り込む、真連帯の場は如何に築かれるべきであるのかと問いに他ならない。
(2)
技術と歴史的段階の区分、そして、哲理、経済学的体系としての「現代原理論」としての「理論」を切り離す事は可能であるのか?
それは、池上彰氏が、中国の公害問題は、いつか日本も来た道であり、笑えないと言っている様に、中国、北朝鮮、キューバへの研究、更に、アメリカをどう考えるのか?
これについて、今年の3月の文章であるが、参考になるものが以下にある。
2015年3月
日本の左翼リベラルの米国認識の錯覚と幻想 – 米国の国益と本性
http://critic20.exblog.jp/23774008/
左翼リベラルにおける中国軽侮の態度と傾向 – 子安宣邦と辺見庸
http://critic20.exblog.jp/23704235/
朝鮮分断70周年の回顧と展望:「ヘル朝鮮」の行方
http://chikyuza.net/archives/58833
「ここに来て金正恩は、大胆に資本主義的な手法を導入し、農業セクターでの自由化に踏み切ったのである。」
親ノ血ヲ引ク兄弟ヨリモ: 家族独裁体制の崩壊後、北朝鮮は中国の植民地と化す
http://chikyuza.net/archives/3618
本来、王朝や世襲は、社会主義的ではないが、それぞれの地域性や独自性は、置くとしても北朝鮮が、中国に学び、まずは、「経済的」に豊かになった段階においては、変わってくるものが、あるようにも思え、更に、社会主義イメージとしての「論より証拠」としての逆転を、中国に続き、変えられる要素はある。
しかし、これまで、「地上の楽園」「拉致問題」と裏切られて来た歴史的問題も横たわっているのも確かであり、理想と現実のギャップは、カルト新興宗教の中にも、洗脳としての問題として至る所にあり、藤子不二雄の『モジャ公』「天国よいとこの巻」の世界がそれをよく表している。
経済的依存関係、搾取関係が、植民地化と言う事だろうけれども、「独自性」「国家性?」を失う事が、「植民地」であるのか?
それとも、大国家の下請け工場化する小国の在り方が、植民地化であるのだろうか?
まずは、飢えている国民が、職にありつけずにいる事が先決であろうし、100円ショップの小物などの大量生産など中国的人海戦術イメージは、大衆性としては、小気味いいものも感じるし、池上彰氏的に述べるなら、「左派からするなら日本も十分、アメリカの従属させられており、TPPによって、国民は、家畜以下の貧困へと従属されようとしているではないか」この論理があろう。
上記の引用リンクにおいて中国を悪く言ったり、日本を悪く言ったり、親米菅直人元首相の様に、「左派リベラル」は、混乱をしていると言う展開でもあるが、池上彰氏の述べている様に、公害問題の例の様に、中国の歴史的段階と真社会主義理論(真原理論)的区分をすべきであり、ようやく、後から取り入れたる資本主義の方法によって、抜け出したGDPとアジア・インフラ投資銀行、弱体化するアメリカに対して、ただただ、中国を「中華帝国の再現を目指す習近平」の図式で、みる事も出来ず、「帝国」とか「王朝」支配は、古代史的発想、更に、狂人ヒットラー、大日本帝国の夢、ヘイト政権安倍政治のバカ夢でもあるが、その意味でも、一人一人、社会主義者や近代主義者は、いわゆる「正か反か」「全否定か全肯定か」ではない、「弁証法」へといまだに辿り着けていないと言う事なのだろうか?
その全てを超克する立場こそが、日本的な民主主義革命を経ての二段階革命としての段階であり、中国の歴史的段階とは違うはずである。中国を理想化するのではない。
発展途上国性とは何であり、そして、中国の歴史的段階と社会主義の理論原理論を再分離して、行く必要を感じる。
では、日本の研究として、今、どの様な段階に来ているのか?
その分析を、「創造性」「技術性」「経済性」それぞれの面で、問い出す事をしていかねばならない。
そして、統合的「政策論」「政党的自立」としての展開、思想広報としての明示は如何にして可能であるのかを2016年具体的唯物論的に展開軌道に乗せていかねばならないだろうと言う事である。
まずは、「創造性」に代表される「広報性」は、ジブリであり、サンライズ。宮崎駿監督や「機動戦士ガンダム」に代表されているのではないだろうか?
充分、雁屋哲、白土三平的左派性を含蓄したる「創造性」を国民、未成年、子供たちにもわかり易いテキスト性の中で、展開されているのだが、その国民文化性を大学の先生方は、位置づけられずにいる。
(宮崎駿監督の辺野古との関わりは、ドストエフスキーの「作家の日記」的展開、アニメを抜け出したる作品の延長。)
人生は短い。一つの主題だけで精一杯であり、量産される不毛なるサブカルチャー文化にまで届くものではないまま、置き去りにされている状況もあるのだろう。
(3)
白土三平ウィキペディアから
2009年には『カムイ外伝』の新作を久々に執筆した。現在『カムイ伝 第三部』を構想中である。
続く。
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