書評『日の砦』黒井千次・著 講談社・刊
- 2015年 12月 24日
- カルチャー
- 書評阿部浪子黒井千次
黒井千次氏の連作短編は、サラリーマンだった主人公の、定年退職後の日常が展開する。
近隣を歩いては、彼は街のイメージを発見する。こんな地域をバックに暮らしていたのか、驚きもある。また、家族との団らんが彼を満ち足りた気分にさせる。独りではない。妻子がいるから安心していられる。しかし、不安や恐怖心はどうしようもない。
ああ、切ないなあ。道すがら老いた男とすれちがう一瞬、彼の耳にとどく。男は医院を探していた。一緒に探しましょう。男の歩みに気おされまいと、彼は足に力を入れる。男が医院に入っていくのを見届けたい。ああ、切ないなあ。聞こえよがしにささやいてみる。その気分は彼の身内にひびきあう。本日休診。男はドアの前にずるずるとしゃがみこむ。救急車でも呼びましょうか。彼はわざと深刻な声をかけ、男を揺さぶる。
10作品のなかでは、「日暮れの鍵」とともに、この「雨の道」が傑作だと思う。彼の切迫した心理が不気味なのだ。
彼は帰宅する。交番に届けようかという妻に、仕方がないだろうと答えたものの、じっとしていられず駆けだしていく。男の姿はない。彼はほっとし、がっくりもした、というのである。
他者の姿は、わが身に重なってくる。男を警察の手に渡したくない。わが身に置きかえれば、そう処理されたくないのだ。駆けだし現場を見届けることで、彼は、不安や恐怖心を突破しようとしたのかもしれない。
もしや自分も。不安や恐怖心は、先回りして彼を襲ってくる。日暮れどき、隣家の老女は、鍵をなくし玄関の前に座りこんでいた。娘が帰宅するまで家のなかに入れない。もし、自分が老女のように家族から完全に締めだされたら。もし独りになったら。描くシミュレーションの前に、彼はおびえる。張り合いをなくし気持ちの立てなおしが利かなくなった分、周りの状況に他者に敏感に反応する。日常のひとつレールを歩く妻のゆったりした反応とは対照的なのだ。
連作は、数年間のストーリー展開になっている。反応しつつ動きだす彼の迫真の行為をとおして、その微妙な心理がこまやかだ。余情はしばらく尾をひき、また、他の登場人物の姿が鮮明になってくるのである。
(「信濃毎日新聞」2004年11月14日付より転載)
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