《花崎 皋平氏より返信が来ました》日本教育・政治の没落に対抗するマルクス政治学と人の復興は如何にして可能か?
- 2016年 1月 2日
- 交流の広場
- 武田明
明けました。おめでとうございます。真実の言葉を更に紡いでいきましょう。
私事ですが、花崎 皋平氏からの重要な返信がありましたのでその話題を軽く導入として。
昨年、12月31日11時ちょうど玄関口にいると郵便を配達員から直接、手渡しで受け取った。
封書であったが、中に、一度、戻ったらしい葉書が入っていた。
日付が12月28日となっているが、一度戻されたらしい郵便局のメモが貼ってあるものの連絡票なるものは、確認しておらず
何故、葉書が、戻ってしまったのか郵便局が開いたなら確かめてみるつもりでいる。
(二日から開いているのかな?)
早速、返信をまた、葉書にて。(続きは、ちきゅう座へ書きますとしたので今、ここでこの様に書いています。)
ピープルズ・プラン研究所
http://www.peoples-plan.org/jp/
の話題と「ちきゅう座」の掲示板ともっと密接に連携できないだろうか?
その話題と共に、次なる花崎 皋平氏の講演や運動への期待と80歳代の感慨としての白土三平氏との『同世代性』の問いでもあるのだけれども、一気に、そこまで話を展開できるはずもない。
オールジャパン〔平和と共生〕
何とか連携学習会、対話集会を、少なくとも「ちきゅう座」「ピープルズ・プラン研究所」「オールジャパン〔平和と共生〕」の三つからでも、連携の基盤を作り、更に、「野党共闘」の理論的基盤を与えられる位にならなくては運動も革命も実践的に拡大できないのではないだろうか?
植草ブログは、的を射ていると僕は、感じているが、まだまだ、人格攻撃に晒されており、山本太郎氏同様に、メディアからはじき出されている、また、左派の中からもリベラルからも誤解と内ゲバ的状況に晒されている足踏みを感じている。
知性の共同主観的テキストを連名、共同声明的に鍛えていくのでなくては夏の参議院選挙に間に合わない段階ではないではないだろうか?
知的結集を急がねばならない。
今回の主題は、前回『革命戦略学2016序説』に引き継いで『マルクス政治学は如何にして可能か?』であるのだけれども、
まず、政治学とは、人と人のつながりでもあると考えているので、
哲学者である花崎 皋平氏の「人性哲学」のまとめと後世への伝達について興味を持たないわけにはいかない。
真実の言葉は、それぞれの極限にもあり、「到達点」としての問いでもあろうからだ。
(それに、70代、柄谷行人氏、雁屋哲氏などなどが続いており、そして、『マルクスへ帰れ』『レーニンへ帰れ』の翻訳の仕事で名高い中野@貴州さんも花崎 皋平氏に期待している一人であろうから公開しつつ先に進めていこう。数人であっても暖かい人と人の対話的つながりが今は、ちきゅう座的にも必要な様に思えている。)
問題意識を共にする側の言葉を繋ぐことと何故、それが、世間へ伝わっていかずにあるのかを問わねばならない。
紅林進氏などが、情報を追ってピープルズ・プラン研究所の共同代表、小倉利丸(現代資本主義論、元富山大学教授)氏の集会紹介をしてくれていたが、やはり、熱烈なファンでない限り、「ちきゅう座」の催し物案内に今は、少ない左派リベラル集会情報は一手に集まる状況がある様に感じている。
http://chikyuza.net/archives/58677
http://chikyuza.net/archives/58929
小倉利丸ブログ
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/
野党共闘以前に、アソシエーション連携こそが不可欠であり、「安倍政治打倒」「戦争法撤廃」「反TPP」「反原発再稼働」「反辺野古基地」の政治学的創造と連携としての議論を早急に、結果としての前進は、如何にして求められるのかの問いに他ならない。
ガルブレイス『不確実性の時代』にてかつて述べていた様に、「革命には、腐ったドアをけり倒すようでなくてはならないが、改革者マルクスが、革命家マルクスを上回っていたのだ」の言葉の様に、根本的な意味で、資本主義を超克できずに来た意味を最大限に問い出していかねばならない。
しかし、ながら、元旦の「朝まで生テレビ」を観ると脱力する未熟さが随所に目立つばかりであったのではないだろうか。
小林よしのりが、「既に、成立?してしまった戦争法安保法を一党多弱の現在、覆せないのだから後戻りはできない」と言ったことについては、現実性はあるものの、現状維持派である「そこまで言って委員会」にて性根まで腐り果てた転向者・長谷川幸洋氏が、新自由主義か共同体かの問いについて「表現そのもの」としての言葉狩りを持って、議論を混乱させることに徹して、最後のIS問題に至るまで、口を開かずに、聴くに徹していた高橋和夫氏に「アラブレベルの混乱」と同値化され呆れさせていたり、田原総一朗氏の司会が、全く、体制的であり、戦争法の現代的問題として、孫崎享氏が、アメリカの具体的戦争の在り方をわかり易く説明しようとする中、それを制して安倍晋三的なイデア化陳腐化をする問いにこだわり続けていた。時間に治まらないばかりの印象操作が目立つ。
それを、辻本清美氏、小池晃氏は、論の不当性、印象操作性をここでは、全く覆せ様もないのだ。
このテレビ朝日の変質性は、池上彰の12月29日の番組にも影を落としていた様に感じていた。
その日の池上彰の番組は、ISの目的は、かつての共産主義イデオロギー同様に、「世界征服」であり、故に、「有志連合」の空爆、IS殲滅は、正義であり、民主主義の戦いだ暗に言ってのけて番宣を持って終える。
本来、アラブの春の殺戮、「民主主義と言う植民地化世界征服(邪魔者ガダフィ惨殺公開処刑を含む)」「共産化としての世界的人民解放」「ISに追い込んだ絶望の責任」表現上の問題ではどうとでもなるのだが、視聴者無視、知的広報性無視で時間を浪費させるだけでしかない。
安倍政治の支持率が上がっていると言う事。
対抗する官僚ピラミッド支配に弱小、形ばかりの野党しか認められてない状況であるが故に、必然的に、軍事ケインズ主義に向かわざる負えない事。二度目の帝国主義ファシズム、喜劇の中におかれる、理性と人間知性。
民主党、辻本清美氏が、最後に、女性党へとかつての社民党方式を述べるのが、わかり易さの限界でしかないお粗末なお茶濁しで、問題の深刻さを伝えない。
介護人材不足を産業化するの論だけで、何故、介護問題が、生じているのかの医療的問題の根本へは、言及せず、国民の消費搾取、消耗搾取を伸ばすだけを問題とする。
貧困の根本への言及はない。
池上彰氏の番組の方でも、詰め込み教育問題をも取り上げていたが、それこそが、梶原一騎の『愛と誠』から雁屋哲氏の『男組』の教育上の人格破壊行為の問題意識の背景でもある。
ゆとり教育か詰め込み教育かの問題ではなく、それは、英才教育としての一般化ではなく、人間を人間扱いしない破壊であり、奴隷労働化する教育でしかない。
教条以外何も受け入れられない生きる屍として、真知性から大衆を切り離し、論理から切り離す土台を作る事が、ゴミ商品を売り続ける資本主義には、必要不可欠な過程であるのだ。
それによって、老人は、廃人化され、捨てられている。
ベンチャー企業が育たない事が、朝生の主要論点であったが、まさに、資本主義、反旗の中に、「創造性」「知性」が本来ある事、それが、梶原一騎、雁屋哲、白土三平の流れであり、「創造性」を摘み、「隷属化」こそが、教条教育詰め込み教育である事、いよいよ言葉も通じない社会、「心」も通じない社会を作り出している機械主義がその社会の本質であると言う事であるのだ。
それに対して、「サンデーモーニング」は、抜きんでて、「心理学」的逃避主義快楽主義などの根拠の分析が言い当てられていたわけである。
この分析を更に、具体的に明確化して、誰にでもわかる様に展開したいところである。
「新自由主義政策と新たな財閥再編-日本経済の進路」(仮題)
http://chikyuza.net/archives/59089
財閥の復活と「軍事ケインズ主義」(国税を軍事部門に優先的に投入し、景気対策とする政策)
謹んで新年のご挨拶を申し上げます
http://chikyuza.net/archives/59086
日本社会を「地獄絵図」さながらに遠く離れているので行けないので残念であるのですが、是非、地方の方も、東京に知り合いがいなくとも、興味本位で出かけて欲しい企画です。
明治大学に寄り、テントに寄り、東京知性巡りを是非、満喫する贅沢を身につけながら、地方にも、五大都市連携で、広がれるのが、理想でもあり、「安倍政治を許さない」を夏、参議院選挙まで持続する広がりを確保しなくてはならない。
本来、リベラルでは国語的にも不完全であるのだが、まさに、反知性的教育の中で、「消去」されている『マルクス政治学』の復興は、何によって体系化されるのか?
そういうといつも安部公房の『第四間氷期』の一節が思い起こされる。
「なにかの主義をやるというのが納得がいかない」
「その考えの何が新しいと言うんだ」
人の名前に政治学をつける、経済学として一分野とする、せざる負えない理由とは何か?
時代の貧しさの中で、今だそれを抜け出していない事が、問題でもあるのだ。
付録:慰安婦問題ほか時事資料集
http://revolutio.exblog.jp/22722794/
『マルクス政治学』について2に続く。
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