岩田昌征氏の拙著『啄木と秋瑾』の書評を読んで
- 2011年 1月 19日
- 評論・紹介・意見
- 内田弘
いったい、どのように読んでくれるのだろうか。これが拙著を出したあとの私の思案である。拙著『啄木と秋瑾』(社会評論社、2010年11月20日)を世に出して、ほぼ2ヶ月たった昨日、現代史研究会主催者の合澤清さんからメールが届いて、岩田昌征さんが拙著の書評を書いてくださったことを知った。さっそく「ちきゅう座」にアクセスし、その書評を拝読した。
ていねいに読んでくださった。これが率直な感想である。重要なことを指摘する個所では、それに対応する拙著のページ数が注記してある。岩田さんが取り上げる論点を読んで、最後まできちんと精読していただいたことが分かる。岩田さんが研究会で発言するスタイルは、いつも核心を的確に指摘するものである。そのスタイルがこの書評でも明示されている。拙著で何を著者が主張したか、その基本はこの書評を一読すれば了解することができる。
ここで、まず拙著のなりたちについて、少し説明させていただき、そのあと、岩田さんが出した問題に答えたい。
《啄木と秋瑾》、このテーマは石川啄木研究史上、まったく初めての問題設定である。啄木読者にとって、本書は「驚愕の書」であろう。実際、幾人かの研究者は私にそう書いた手紙を寄せた。岩田さんも「全くの想定の外、意外事」と書いた。拙著は、このテーマを立証して、近代日本文学史を近代東アジア史(特に、近代日中関係史)において再構成するという新しい視座を立てることになった。《啄木と秋瑾》というテーマを追求した結果に見えてきたものが、この視座である。啄木研究もそのような歴史現実の視座に立たなければならないのではなかろうか。啄木の私生活の瑣末な事柄のみをあれこれ詮索する行為は、啄木研究の名を借りた「覗き趣味」である。そのような研究で、啄木を近代日本文学史に残すことができるのだろうか。
秋瑾(しゅうきん1875~1907)は現在の日本では忘却された存在である。啄木研究もその忘却のなかで行われてきた。それとは逆に、現代中国では、現代中国に持続する中国革命を切り開いた革命烈士として記念されている。いま、中国近代史を考える中国人で秋瑾を知らないひとはいないだろう。秋瑾は中国清朝末期の女性革命家である。秋瑾は中国近代革命を準備するために、日本に留学した(1904年~1905年)。啄木の同時代を日本で2年間過ごしたのである。当時、日本、特に東京には中国人留学生が数千人いた。多いときには1万2000人にいた。今日の日本への外国人留学生数の約一割である。神田で出会う学生のほぼ半数は、中国人留学生であった。いまも神田に中国料理店が結構あるのは、そのなごりである。
秋瑾は、 (書聖王義之・魯迅の故郷でもある)浙江省紹興で軍事革命拠点を準備中に発覚し、政府軍に逮捕され、斬首刑に処せられた(1907年7月15日)。この事件は中国全土を震撼した。秋瑾斬首にかかわった人間はその後、奇怪で悲惨な死を迎えた。この事件はすぐさま日本にも報道され、衝撃を与えた。啄木もその衝撃を受けた日本人の一人である。
秋瑾は、当時から1945年の敗戦のころまで、日本でもよく知られた存在であった。「五・四運動」の1919年から本格化する、日本の中国侵略の精算をしないまま、日本人はそれを《忘れたふり》をしてきた。それがいつのまにか《本当の忘却》になってしまっている。秋瑾もそのようにして忘却されたひとりである。秋瑾は啄木の同時代人である。秋瑾をたいていの日本の知識人は知っていた。現代中国の出発点に秋瑾の決起準備=斬首がある。拙著『啄木と秋瑾』は、日本人の忘却癖を治癒する作業の小さな試みである。2年前、南京の或る大学での研究会に参加したとき、中国の研究者から、いまの日本人の受け身の生き方は、自分たちの過去を直視してこなかったからではないですか、といわれた。現代日本の政治の揺れは、その受動的な輸入文化的な日本人の体質に根ざしている。ノーベル賞の「あと」に文化勲章が続く。
本書の研究=執筆過程の出発点の打明け話を書く。「まえがき」にも書いたように、2007年の秋の深夜、《啄木》と《秋瑾》が突如として結びついた。2007年は秋瑾斬首刑死から百年目の年である。それを記念して、秋瑾関係の書物がいくつか出た。それらを読んだ。それ以前に、武田泰淳の『秋風秋雨 人を愁殺す』という秋瑾伝を読んだことがあった。秋瑾関係文献と同時に、啄木の歌集『一握の砂』を読んでいた。そこに頻発する「秋風」という用語が、なぜか気になる。啄木評論集『時代閉塞の現状・食うべき詩』(岩波文庫)を読む。すると、「大いなる白刃の斧を以て頭を撃たれた様な気がする」という文がある。そこで眼が止まった。この文の背後に斬首刑が潜んでいる。この文(1907年9月)は「肺病」で死んだ友人・綱島梁川を追悼する文である。なのに、「斬首」である。啄木はこの文を斬首刑で死んだ者に重ねて書いている。啄木のその追悼文のすこし前(1907年7月15日)に斬首刑で死んだ者、それは秋瑾しかいない。この瞬間、《啄木と秋瑾》という研究主題が浮上したのである。
それ以後、『啄木歌集』(久保田正文編、岩波文庫)を繰り返し読んだ。なぜか、『一握の砂』よりも、それ以前の「石破集」・「新詩社詠草 其四」・「虚白集」・「謎」などの啄木歌集に魅了される。そこに秋瑾を暗示する歌の数々が読める。筑摩書房の『石川啄木全集』の全巻も読んだ。第2巻に収められた啄木詩「黒き箱」(1908年8月)に「唇紅く黒髪長き/ 生首か」という「斬首された女」を表現する件に遭遇したときには、《啄木と秋瑾》という直観は、確信に転化し始めた。
しかし、必ず果たすべき課題は、啄木が秋瑾を知っていたという事実(あるいは、その蓋然性)の立証することである。1907年(明治40年)9月6日刊行の『秋瑾詩詞』(東京市神田区中猿楽町4番地、秀光社)が秋瑾の同志から寄贈され、帝国図書館の蔵書になった。このことを、国立国会図書館で知ったときの嬉しさは、なんとも表現のしようがない。拙著の第2章と第3章で、その蓋然性を立証する詳細な作業を行った。それを踏まえて、啄木が書いたもの(短歌・詩・評論・日記・書簡)を精読して、《啄木=秋瑾関係》を立証に専念してきた。その結果が拙著『啄木と秋瑾』である。
率直にいって、この立証過程で、《啄木が(斬首死後の)秋瑾を知っていただけでなく、啄木は秋瑾を作品で秋瑾を表現した》という私の着想に逆らうような事実には、まったく遭遇しなかった。もしもそれがあれば、教えてほしい。逆に、《啄木における秋瑾の存在》を強く示唆する事実の数々が向こうから、私に近づいてきたのである。
岩田さんは重要な問題を提起している。幸徳事件(大逆(たいぎゃく)事件。1910年)の記録を取った啄木が、なぜ、それ以前(1907年7月下旬)に知ったという秋瑾の名前を記さなかったのか、という疑問である。さすがは岩田さんである、と感服した。或る啄木研究者も、私の研究発表のとき(2010年1月9日)などで、その点を質した。私は拙著の第16章で書いたように、当時の執拗な言論弾圧体制が、啄木が秋瑾の名を書かなかった基本的な動機であると推定した。この問題について、ここで二点(第一点・第二点)、再度説明を行い、一点(第三点)、補足説明する。
第一に、啄木への秋瑾の影響が啄木作品に色濃く読めるのは、1907年10月から1910年12月(『一握の砂』刊行年月)までである。岩田さんも引用しているように、啄木歌集(「歌稿ノート《暇ナ時》」→「石破集」→「新詩社詠草 其四」→「虚白集」→「謎」・・・→『一握の砂』)という推移で次第に秋瑾の影が薄くなってゆく。『一握の砂』でも秋瑾は深部に潜んでいる。冒頭「東海歌」を初めとして、秋瑾は啄木歌の背後に巧みに隠されている。その編集時期は、大逆事件の裁判が始まる(1910年12月)の直前である点に注意したい。日本中が息を殺して、その裁判の成り行きを、じっと見つめていたころである。
第二に、啄木は幸徳事件をめぐって、自分をはっきりと安全地帯においた。「被告の心情は理解できるが、行動形態=暗殺計画は否認する」という、徳富蘆花を始めとする当時の多くの知識人の大逆事件に対する評価にみられる「二分法」の態度を取ったのである(「所謂今度の事」参照)。この評価基準は明治国家の統治秩序の許容範囲に入る。啄木自身、1907~1908年ころは、革命に憧憬しつつ、その危険に戦く「心情革命家」であった。そこから「生活者の立場」に立つように転身し、「(心情での)実践の鉾」を捨て「二分法」で考えるようになった。
第三に、秋瑾の詩詞は、1907年から1910年までの啄木にとって、作品創造の重要な典拠(種本)である。啄木は、秋瑾の生き方と作品に触発されて、多くの歌・詩・評論を書いた。①秋瑾は清朝国家だけでなくその同盟国家である明治国家(武断的原蓄国家)にとっても危険人物であるという表現上の制約と、②秋瑾は啄木の作品創造の典拠(種本)であるということが重なり、啄木が秋瑾の名前を書かなかった重要な動機となっている。例えば、啄木は北海道で、東京から送られてくる新聞を読み再編し、自分固有の記事を創り上げた。啄木は事物連関を文字を連ねて文章で再現する、際だった編集才能をもっていた。その編集手腕を自分の歌集の編集にも、一つの詩(聯の連鎖)を編むように、発揮した。この第三点(①と②の重なり)は拙著では、あえて書かず、留保しておいた。
最後に、岩田さんが指摘した二つの問題について。
第1に、拙著で、日露戦争で日本は露西亜から賠償金をとったと書いたが、岩田さんが指摘するように、それは正確ではない。機会があれば拙著でも訂正したい。
第2に、「fraternité」を私がかつて「博愛(友愛)」とか「友愛(博愛)」と訳したりしてきたのに、この拙著では「友愛」に絞られたのは、岩田さんの見解を私が受け入れたのではないかという点。そう指摘されてみれば、そうかもしれない。いま、思い出したのは、拙著が刊行された直後の或る日の現代史研究会から二次会に向かう路で、岩田さんとfraternitéをめぐって意見が一致したことである。そのときの印象が岩田さんに強く残っているのかもしれない。あるいは、それ以前に、その岩田説を聴き無意識に受容したのかもしれない。
ちなみに、現行フランス憲法「前文」に惑わされて、「友愛」がすでに1789年の「人権宣言」に書かれていると誤解している者が研究者の中にも沢山いる。「自由・平等・友愛」はフランス二月革命の1848年フランス憲法に登場するのである。「人権宣言」では「自由・平等・所有」であった。この誤解は速やかに解かなければならない。財産家中心社会(第1次市民革命)と、財産家と勤労者が歴史的に妥協した社会(第2次市民革命)とは別である。啄木の時代の日本産業革命はフランスの産業革命=「二月革命」に対応するという拙著での指摘が、この「友愛」問題の背後に存在するのである。
こう書いてきて、痛感するのは、博学・緻密な岩田昌征さんを学友にして、幸いであるということである。嬉しい限りである。感謝申し上げる。(以上)
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〔opinion0302:110119〕
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