(1)花崎 皋平「ピープルネス 存在論」と赤穂浪士0円革命の極意2016(2)《マルクス政治学その2》持たざる国の悲劇といじめ問題の根幹についての実践的連携とは
- 2016年 1月 8日
- 交流の広場
- 武田明
誰でもその狭義の歴史的問題、その貧しさを受け取って「低みから人間の視点から」歴史へのアプローチを始める。
弁護士と検察に分かれるとしたなら「デ・ニーロのケープフィア」(臆病者は観るな!だが、傑作を逃す事となるだろう)
今年より日本共産党が、天皇主義、象徴主義の狭義の超越論を認めたように、マルクス経済学研究でしか今だ、資本主義の最有効性の体系を見いだせない程に、社会科学も人文科学も未開発な状態にある貧しさを受け取って開始するしかない。
ブルジョワ性に席巻されていている事に異を唱えなくてはならない。
「人の名前に政治学をつける、経済学として一分野とする、せざる負えない理由とは何か?
時代の貧しさの中で、今だそれを抜け出していない事が、問題でもあるのだ。」(前回、末尾のこころがこれである)
さあ、「現代平安地獄年間」そこへ飛び込んでいこう!
6日と7日で、前後するのだが…。
マルクス政治学2(1月7日)
(今、問われている共産主義とは何か?持たざる国、北朝鮮、ISの貧困を理解し、真の敵の存在を問わない限り日本のいじめ問題も解決されない。)
http://revolutio.exblog.jp/22749781/
1月6日(水)、町はじょじょに目覚め初め、新年早々、国会中継が今日より始まる。
(速報 北朝鮮が核実験か 12時33分聴きながら)
「安倍政治を許さない」手作りグッズを阿佐ヶ谷の鎌倉孝夫講演の時に、僕だけ2つもらい受けたので、その義理と信義は忘れることなく、ここにおいても今更であるが、更に広報しておこう。
マルクス政治学2
かつて、本宮ひろ志の漫画で、『群竜伝』と言うものがあった。(付録:原注参照)
内容は、野球界を不幸に追われた父親の世代から二世代目その息子たちが、再び、結集して、敗者復活を果たすドラマだ。
このモチーフは、『水滸伝』から日本では、『赤穂浪士』に至るまで、そして、本宮ひろ志的には、『赤木忠治』にまで通じる戯曲的定番である。
このわかり易さと《話題性=歌舞伎性=戯画性》が必要であり、それは、
エーゼンシュティンのモンタージュ理論から
元旦の朝まで生テレビ批評と複合論戦としての論破、更に、池上彰氏の変質「TPPについて農業と小泉進次郎(自民党広報性)」しか伝えない情報論的「存在と無」的在り方など巨大メディアにおける資金を背景にした自民党広報がそれである。
慰安婦問題の10億円も老人へのばら撒き3万円も税金であり参議院選挙対策、消費増税隠し、公金でありながらさも、私物化したる混然化した中でばらまき続けている。
(悪党10人衆のひとり、岡田克也代表でさえ今、国会中継にてその点を追及中)
ファシズムとは、その様に、権威、権力、威圧を、資本背景を持って行う方法論であり、それが、20世紀の大戦の中でも背景にあったいつか来た資本主義植民地主義、国民の命さえ、ぼろ屑の様に大量殺戮軍需産業の中に差し出してきた現代の生贄(いけにえ)消費消耗搾取の最終段階としての戦争法の実態となっているのである。
我々も、資本としての結集に対抗する人海戦術としての団結、連帯へと戻らなくてはならない。
前回、マルクス政治学1で語っていた「野党共闘」の理論的基盤を明示するアソシエーション連携共闘が、それであり、1%の特権階級と99%の被抑圧マイノリティの戦いである事(現代平安地獄年間ちきゅう史最終段階としての帝国主義と共産主義の戦い)の啓蒙を持って、けっして、国家、大企業の戦争に巻き込まれてはいけない事を再確認する立憲主義、憲法主義の旗の元で、再認識、改めていかねばならないのである。
《話題性》としてのわかり易さの思想とは何か?
上記、『群竜伝』を踏まえつつ、現代の結集として、原発に首を突っ込み過ぎ、そして、天皇への直訴状にて芸能界を追われ、NHK「日曜討論」にも不当な扱いを受けた山本太郎氏、検察の罠に堕ちて、大学を追われた経済学者、植草一秀氏、べ平連運動から大学と言う階級歴を放棄した花崎 皋平氏、世代を越えたる、《全員体勢の結集》をそれぞれの得意分野、役割を最大限に生かしつつ、学び合える場としての独立宣言であり、今や、『希望の国のエクソダス』ではないが、どこであっても、インターネット上でも電脳的にも「独立」「自立」出来るのであるが、その「独立」「拒絶」とは如何にして可能であるのか?
「今」あるのか?「将来的」であるのか?
具体的唯物論的に明示していかねばならない。
全員体勢で行きましょう!
花崎 皋平氏へ遅れながら今日、先ほど年賀を書いてみました。
特定の信仰を持たない僕としては、『赤穂浪士』田舎藩主、侍、浅野内匠頭の無念を持って、
山本太郎氏の天皇直訴状も当然、許容の範囲であり、政治が、独占資本により原発再稼働問題、軍需産業(軍事的ケインズ主義化)によって、全体主義化、国民の無知化、人格破壊詰め込み教育による絶望支配を推し進めている故に、超越論的直訴状は、その無知のなせる業でもあり状況によって全く、許容されるものであり、むしろ、その戦いに続くべきとさえ思えている。
儀礼や形式主義、慣例や官僚主義との戦いがこの本質にあり、「無知」は、社会的に格差の中で作られたものであり、「教え教わる」連帯、対話的教育独立の中で、団結、連帯する在り方が、社会主義そのものであり、かつて「白痴」組合幹部に、年賀から政治的内容を書いて出したものだが、更に、『三世代革命論(一族・家族・個人)』的展開を、正月から年賀的にも展開する実践へと切り替えようと考えている。
「それは、その人にとって不必要な知識であるのか」
「不必要であるなら政治的でも個人的でもないだろう」
『風の吹きわける道を歩いて』第四章 個人的なものは政治的である
人は、苦労する事、努力する事から逃れたいだけであるのだろうか?
金融資本と言う敵の心理学の分析も必要とされているが、下僕化されたる「サンデーモーニング」で分析された逃避快楽主義心理学から、イエスの受難の側に立つ側の論理の対置は如何にあるのかの問いと言える。
貧しいものがポルシェに乗りたいのに乗れない事が不幸であり、乗れたならそれでよいと主張しているのだろうか?
欲するのは、物質であるのか?知性であるのか?心であるのか?
その質と量の論理学的度合い性とはいかなる調和を持っているのか?
真に自由主義的競争が成立しているのか?
官僚には、高額な奨学金を借り入れてその機械主義的学歴階級の中でしか成就されない要素がある。
司法も同じ狭き門であるだろう。
医学も更に、学費が高く、キューバ的ではない日本資本主義では閉ざされている。
唯一、政治だけが、偽装無知化人格破壊教育であっても民衆の一票としての権利が駆使される場である故に、
何故、人格破壊教育が放置されていてまともな対話が、成立していかないのか?
この問いを仕上げていき、真の人間教育的独立と「金融資本」支配を拒絶していく政治学的体系化。
それは、政権を取るなら可能であり、消費税逆進性に対し、ピケティ税制へと改める事の「知的独立」としての実現であり、ポルシェに乗りたいとする物欲としての資本主義の論理と離反している「知の共同」「連携」如何に築かれるのかその問いに他ならない。
これをまず、1月展開しつつ、更に、夏の参議院選挙まで、「ウォール街を包囲せよ」を日本政治にて実現していく事の実践と具体的唯物論としての共闘の場を広げていく時である。
哲学から経済学へ。そして、政治学・教育論的独立への展開と場の確立。テキスト化の問題がある。
◆「ピープルネス」への批判に応えて◎(花崎皋平)
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/tinyd0/index.php?id=43
◆ピープルネスへ4 (花崎皋平)
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/tinyd0/index.php?id=2
〔「ピープルネス」へ――存在論の文脈で〕3/花崎皋平
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/tinyd0/index.php?id=4
付録:原注
http://revolutio.exblog.jp/22745540/
その後の朝まで生テレビは、「あなたの隣に自民党(ナチス党員)がいる」と言う威圧を示す事で、言論統制の先取りをしてみせたようだ。
それをどの様に考えるのかと竹中平蔵、新自由主義の問題を阿修羅掲示板は、追及していたのでした。
複合論戦の試み
http://revolutio.exblog.jp/22745950/
続く
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