日本滅亡まであと6ヶ月。76議席の攻防。《革命的なあまりに革命的な2016道筋の開陳》
- 2016年 1月 14日
- 交流の広場
- 武田明
無駄な動きをしている暇はない。
滅亡の危機に瀕しているのは、「憲法」か、「理性」「知性」「良心」か。
「人間性」か。
いよいよ、植草ブログの更新の様に、76議席の攻防が、開始されているのである。
(※参照)
悪魔の安倍政治本性が牙をむくのはこれからだ
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-2c79.html
地獄の口が開き始めている。
手をこまねいている暇はない。
既成の研究会の未熟さは、かつて、廣松が行っていたようなシンポジウム、議論形式ではなく、独白的な学習会に留まっている点である様に思える。
主題を決めつつ、異なる意見の人と討論をする事により、「論理学」「理性の行方」としての道筋を明確に、即興の中で、視聴者へと明示せしめていたのだ。
それが、中野@貴州氏の言う廣松氏にわかり易さであったのではないだろうかと僕は想う。
それは、「朝まで生テレビ」の方式でもあり、まさに、「複合論戦として可能な段階に来ている」。
地上波からはじき出されても、BSが今はある。
BSを含む巨大メディアからはじき出されても、インターネット技術、更に、動画としてのツイキャスがあり、植草氏と近い岩上IWJがあり、「ちきゅう座」「阿修羅掲示板」があるのだ。
BSでは、深層NEWSに、養老 孟司氏、プライムニュースに、佐藤優氏などが、今年、ゲスト出演している。
こまごまと語っている暇はないのであるが、柄谷行人氏が、BSにて語る段階にまではまだそれぞれの領域もあり、限界があるのかも知れない。
何故であるのかをいつも考えるのであるが、左派リベラルの中で、日本の中央言論であっては、単に、「リベラル」とされ、「左派」は、「消去」にあっている状況であり、その歴史的過程においても、知的過程においても、アカデミズムさえも、日陰のものとされてしまっているのではないかと言うのが、僕のこれまでの分析であった。
安倍晋三政治以下、ヘイトが横行している危機がこれである。
元旦の朝まで生テレビで追悼野坂昭如氏の下りで、かつては、左翼ばかりに席巻されていたが今は誰もいなくなったと田原氏、その中で、「まだ、います」と森永卓郎氏?。
しかし、昭和の左翼は、蛮勇型でもあり、旧左翼として、置き去りにもされている存在でもある。
では、真性左派性は、今、どこにあるのだろうか?
それ以前に、鎖国的レッドパージ、赤狩り状況(戦後レジューム)としてのアメリカ思想奴隷化の中にある日本にとって、大衆は、この議論に全くついてこれるはずもなく、「ちきゅう座」読者もこの狭義の範囲に留まっている問題点をひきづっている事を開放していかねばならないのだ。
ピープルネス論花崎 皋平氏やネグリ的打破を小倉利丸氏が展開しているのであるけれども、まだまだ、旧左派として市民権として定立されている様には思われない。
中道左派が、大衆性を含めたる実践的であり、具体的な左派性の折衷であるのだろうけれども、それが、植草一秀氏であり、山本太郎氏であるのだが、同じツイキャス、そして、集会としての討論形式、廣松形式の「複合論戦」シンポジウムを復活させながら、「広報性」としての形式を明確な道筋をひかねばならない時でもあるのだ。
中道左派から保守性に至るまで、ぎりぎりの根底を問いかける集会として成功したるものは、鳩山由紀夫元首相を明治大学に招いたこちらの集会であっただろう。
シンポジウム「日中友愛外交の道を探る」(鳩山友紀夫・矢吹晋・孫崎享・荒井利明)
http://chikyuza.net/archives/56631
この形式で、植草一秀氏、山本太郎氏と「ちきゅう座」有志学者との討論形式の集会を持って、経済学論の細部に入らない、まさに、『マルクス政治学』としての具体的、76議席攻防論を問うべきであり、赤穂浪士47士から開始するしかないのだ。
植草一秀氏は、市民連合との合流と動いており、決して、「市民派」「勝手連」の動き、「ちきゅう座」学者の動きを「小さなもの」とはみてはいないだろうと考えている。
山本太郎氏も同様であるだろう。
柄谷行人氏もアソシエ21を離れて、「独白」の域に、残念ながら留まっているのであるとしたなら、左派が回帰すべき場所とは、廣松渉氏の討論形式のシンポジウムの形式であり、
植草一秀氏孫崎享氏山本太郎氏広瀬隆氏などなどと連携である。
「経済学」ではなく、「マルクス政治学」を実践的に具体化する事であり、
鳩山由紀夫氏と日本共産党の対話、その仲立ちとしての「ちきゅう座」などなど参議院選挙、「七人の侍」から、「47騎」そして、「76騎」への攻防へとリピーターからリピーターへ、連続講義の基盤を作っていく事であり、「独白」形式であるなら集客が望めないものの打破、首都圏に具体的に、どの様な人々がいて、団体があるのか?
そして、五大都市ネットワーク拠点、更に、「どぶ板選挙」庶民、人民、大衆へ。
そのわかり易さのテキストへと連盟、共同声明へとこの六カ月どこまで迫れるかの勝負に他ならない。
『帝国の慰安婦』と日韓合意:Lさんのコメントによせて~「従軍慰安婦」問題をめぐる日韓政治「決着」を考える(4)~
http://chikyuza.net/archives/59425
醍醐聡氏は、昨今の書き込みにて、連名を以下の様にあげている。
「抗議声明」の賛同人は、
浅野豊美、蘭信三、石川好、入江昭、岩崎稔、上野千鶴子、大河原昭夫、大沼保昭、大江健三郎、ウイリアム・グライムス、小倉紀蔵、小此木政夫、アンドルー・ゴードン、加藤千香子、加納実紀代、川村湊、木宮正史、栗栖薫子、グレゴリー・クラーク、河野洋平、古城佳子、小針進、小森陽一、酒井直樹、島田雅彦、千田有紀、添谷芳秀、高橋源一郎、竹内栄美子、田中明彦、茅野裕城子、津島佑子、東郷和彦、中川成美、中沢けい、中島岳志、成田龍一、西成彦、西川祐子、トマス・バーガー、波多野澄雄、馬場公彦、平井久志、藤井貞和、藤原帰一、星野智幸、村山富市、マイク・モチズキ、本橋哲也、安尾芳典、山田孝男、四方田犬彦、李相哲、若宮啓文(計54名、五十音順)
しかし、「名前貸し」の段階を抜け出していかねばならない。一人一人が、「三世代革命(一族・家族・個人)」としての10人、100人身近の人への呼びかけから共同テキストとしての再生涯教育テキストとしての具体的眼に見えるものとして結集していかねばならないのだ。
個人を根本から支え勇気を与える「不壊の理念」としての日本国憲法
http://chikyuza.net/archives/59408
澤藤統一郎氏は、「丸山に手本となる感銘を与えたのが、マルクス主義者ではなく、自由主義者・河合栄治郎と、ドイツ社会民主党のオットー・ウェルスであったというのが興味深い。」と述べる。
マルクスもマルクス主義も「独白」であり、実は、廣松渉氏的シンポジウム、共同主観性の邪魔としてもあるのも確かなのである。
故に、柄谷行人氏も自己独白を抜け出すために、「カント」と「マルクス」の対話を求めたりもしているが、しかし、それも、伝わらず、徹底化されていないのは、「アカデミズム」としての「独白」へと引き戻された中で、生涯を終えようとしているからだ。
「アカデミズム」としての「独白」の恨みの中で、旧左翼はあり、実は、「ちきゅう座」もそこで、悪戦苦闘中しており、キルケゴール「実存哲学」的であり、ヘーゲルにも弁証法にも、集団にも、大衆にも、人民、庶民にも辿り着けていない、共同主観性としての廣松渉氏シンポジウム、公開討論にもたどり着けていないと言うわけである。
故に、まず、「野党共闘」以前として、「ピープルズ・プラン研究所」「ちきゅう座」「オールジャパン〔平和と共生〕」としてのアソシエーション連携、公開討論から、更に、鳩山由紀夫VS日本共産党、公開討論としての「共通分母」を導き出すくらいでなくては、ショック療法からでなくては、日本の知的鎖国状況は是正、改革されないだろうと言う論へとまず、「左派改革」をここで提唱せねばならなくなっているのである。
「決別」されない「議論」弁証法の「接着剤」を明確にしていかねばならない。
それが、「野党・共闘」の理論的基礎の具体化でもある。
時間切れ、続く。
では、18日、東京へ一瞬上京出来そうなので、そこで、お会いしましょう!
1・18ルネサンス研究所シンポジウム: 部落問題への言及をめぐる弛緩と逆流とねじれ ――『週刊朝日』「ハシシタ」報道と『歴史評論』「特殊部落」表現の掲載などをめぐって
http://chikyuza.net/archives/59269
『真田丸』から再忍者ブーム、『カムイ伝第三部』小学館革命への道筋をまだまだ捨ててはいませんよ。
複合革命を7人からそして、47騎は、そして、76騎を切り崩していかねばならないのです。
巨大メディアが体制へ抑えられており、沢田研二氏が、山本太郎氏の応援に駆けつけてくれたりしてくれていたが、まだまだ、ポーランド、ワイダー監督「連帯」の映画造りのように不自由な状況が、日本でも続いているのです。
デフレむしろOK!
資本主義的ゴミ商品への不買運動を!
そして、こちらは、良質なる「命がけの飛躍」たる共同声明テキストの良質性をあらゆる段階で、具体的な商品=唯物論的展開を白土三平氏、ピープルネス花崎 皋平氏への回帰から、廣松渉氏討論複合論戦の弁証法の明示を持って、国民を魅了する真世界を開陳して見せていく事なのです。
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