四たび、フランス革命と「友愛」について
- 2011年 1月 22日
- スタディルーム
- 「友愛」fraternitéフランス革命宇井 宙
「海の大人」氏も1月20日の「交流の広場」で述べておられたが、私も1月27日の岩田昌征先生の書評を拝読して内田弘先生の『啄木と秋瑾』を読みたくなったが、その思いは1月19日の内田先生の岩田先生への応答を拝読して決定的となり、早速amazonに注文した。しかし、今日のテーマはその話ではない。内田先生の前記の文章の最終段落にかすかに引っかかるものを感じたのがこの文章を書く動機となった。それは以下の部分である。
<現行フランス憲法「前文」に惑わされて、「友愛」がすでに1789年の「人権宣言」に書かれていると誤解している者が研究者の中にも沢山いる。「自由・平等・友愛」はフランス二月革命の1848年フランス憲法に登場するのである。「人権宣言」では「自由・平等・所有」であった。この誤解は速やかに解かなければならない。>
内田先生はこの文章の直前で、「岩田さんとfraternitéをめぐって意見が一致した」と述べておられるように、この記述は岩田先生が昨年12月9日の「評論・紹介・意見」欄に書かれた「「友愛」か「博愛」か―fraternitéをめぐる考察」の中の次の一節と軌を一にしている。
<周知のように、また内田氏も説いたように、1789年フランス大革命で謳われた理念は、自由・平等・所有であってfraternitéはない。1848年フランス共和国憲法に自由・平等・fraternitéの三位一体が登場する。>
もちろん、ここに引用した岩田・内田両先生の記述は間違いではないが、完全に正確とは言えず、若干誤解を招きやすいのではないかと思われる。そこで、相馬千春氏が昨年12月10日、「交流の広場」「岩田先生の「友愛」論・「見えざる手」論への疑問」の中で紹介されていた二つの論文、すなわち深瀬忠一「フランス革命における自由・平等・友愛と平和原則の成立と近代憲法的(今日的)意義」と鵜飼哲「「博愛」(Fraternité)について」を読んでみたところ、私の疑問はすっきり解消された。見出しの「四たび」というのは、これら3つの論考に続いて四度目、という意味である。これから述べることは、上の2論文の紹介の域を大きく出るものではなく、相馬氏のご指摘に「屋上屋を架す」の感も否めないが、これらの論文を読んでおられない方、読む時間のない方も多いと思うので、拙文も全く無意味ではないかと思った次第である。
2論文の紹介の前に、私が(失礼ながら)岩田=内田両先生のご指摘を「完全に正確とは言えず」と書いたのは、「「人権宣言」では「自由・平等・所有」であった」、もしくは「1789年フランス大革命で謳われた理念は、自由・平等・所有であって」という部分である。
1789年8月26日の「人および市民の権利宣言」(いわゆる「人権宣言」)は第2条で、すべての政治的結合の目的が自然権の保護にあることを明らかにし、そのような自然権として「自由、所有、安全および圧政に対する抵抗」を挙げている。ただし、その前の第1条で「人は自由かつ権利において平等に生まれ生存する」と規定しているので、1789年の人権宣言では、「平等」は人権そのものというより、人権適用の原則を示すものと考えられていたように思われる。それに対して、革命と対外戦争の危機的状況の中で遂に実施されずに終わった1793年6月24日の憲法(ジャコバン憲法)の冒頭に置かれた人権宣言では、政府の目的が自然権の保障にあることを謳った第1条に続く第2条で、それらの自然権として「平等、自由、安全、所有権」を挙げている。1789年人権宣言と比べると、平等が明確に自然権として位置づけられる一方で、「圧政に対する抵抗」がなくなったように見えるが、(後者については)そうではない。1793年人権宣言は第33条で、「圧政に対する抵抗は、その他の人権の帰結である」と規定し、さらには第35条で、「政府が人民の諸権利を侵害するときには、反乱が、人民と人民の一人ひとりにとっての最も神聖な権利でありかつ最も必要な義務である」と規定しているのである。つまり、圧政への抵抗権は、自由や所有や安全と並ぶひとつの権利なのではなく、それらの人権が政府によって弾圧されるときに発動される権利でありかつ義務でもあることを明確にしたのである。ただ、いずれの人権宣言も所有権の自然権性=不可侵性を承認している点で、ブルジョア革命としてのフランス革命の性格を示している。これらの人権宣言が「安全」を自然権として承認していたことと、抵抗権を明記していたことは、今日では忘れられやすい点である。
次に、私が岩田=内田説が「若干誤解を招きやすい」のではないかと思うのは、両先生の説明では友愛(fraternité)原理が1848年の二月革命で初めて現れたかのような印象を読者に与えてしまうのではないかと思ったからである。確かに、「友愛」がフランス憲法の中に明記されるのは1848年11月4日のフランス共和国憲法が最初であり、その前文Ⅳにおいて、「フランス共和国は、自由、平等、友愛を原則とする」と規定された。(ちなみに、現行の第五共和政憲法は第2条で、「共和国の標語は「自由、平等、友愛」である」と規定している。)しかし、友愛の理念自体は、大革命の時期にすでに重要な政治用語として用いられていたことは、前述の深瀬論文と鵜飼論文によって論証されている。
まず鵜飼論文は、マルセル・ダヴィッドの研究を紹介する形で、フラテルニテの意味の変遷を5つの時期に分けて次のように説明する。1740年代から革命勃発直前までの第1期には、主に百科全書派の人々によって、キリスト教的含意を持つ時代遅れの概念と見られていたのに対して、J.J.ルソーがこの概念の再生に貢献する。(因みにルソーは、友愛理念だけでなく、近代ナショナリズムの元祖とも言いうる思想家であるが、この点については、いずれ機会があれば改めて論じたい。)1789年5月の三部会開催から共和政成立までの第2期においては、フラテルニテははっきりと政治用語としての地位を獲得する。ところが、続く第3期のジャコバン独裁期になると、フラテルニテは反革命派とみなされた人々に対する暴力的排除を示唆する機能を帯びるようになり、テルミドールのクーデタでロベスピエールが失脚した後、総裁政府時代から第1帝政の開始までの第4期になると、フラテルニテという言葉がすでにあまりにもジャコバン的な響きを持っていたため、急速に姿を消していく、とされる。1848年を含むそれ以後の第5期になると(ダヴィッドの直接の研究対象にはなっていないが)、(マルクスによれば)階級対立の現実を隠蔽するイデオロギーとしてフラテルニテ概念が復活し、「自由、平等、友愛」が共和国の標語となるに至る。
そして、ダヴィッドの言う第2期と第3期、すなわち大革命勃発直前からジャコバン派の独裁期に至る時代における「友愛」原則の変遷を詳しく跡付けたのが深瀬論文である。それによれば、大革命期(1789-94年)においては、「友愛」という言葉自体は、「自由と平等」とは異なり、革命の「標語」として明示的に用いられることはなかったが、「旧体制(ancien régime)」を転覆・破壊して新しい国家・秩序を創造する革命派を駆り立て、彼ら相互の連帯と統合を保証する「情熱」の原理として「祖国愛としてのパトリオティスム」という「友愛」原則が実質的に存在していた、という。しかし、革命の現実的進展のなかでは、「友愛」は革命支持派の間での結束を確かめ強めるための合言葉ではあっても、決して「反革命」派や「貴族主義者」との間の友愛はありえず、彼らとは「敵」として生命を賭けて戦うしかないと考えられた。そのような革命の現実こそが、「友愛」という標語が使われなかった理由であると深瀬氏は推測している。
革命派にとって、革命は国内外の敵による脅威に直面していると認識された。国内の敵は当初は「貴族主義者」などの「反革命派」であり、国外の敵は当初は1791年8月にピルニッツ宣言を出したプロイセンとオーストリアだった。しかし、立法議会が92年4月20日、ピルニッツ宣言の挑発に乗ってオーストリアに宣戦布告したことが転機になったと深瀬氏は指摘している。これは、国民議会(憲法制定議会)が1790年5月22日に征服戦争放棄宣言を採択したことからの逸脱であり、革命フランスによる「先制攻撃の開戦」であり、同年11月19日の国民公会による「友愛宣言」決議という名の「革命の輸出=自由の十字軍」宣言を経て、後のナポレオンの征服戦争につながっていく第一歩であったと深瀬論文は位置づけている。「祖国防衛」戦争はフランス人の愛国心の火をつけるのに役立ったが、93年6月のジャコバン独裁体制の確立とともに強化された「反革命取り締まり」の中で、やがて外国人に対する迫害をもたらすことになる。
ジュリア・クリステヴァが『外国人』(法政大学出版局)の中で描いたように、革命初期のコスモポリタン的雰囲気を持った「友愛」精神は1792年8月26日の名誉国民法を生み出し、「人間理性を成熟に導き自由への道を切り開いた」外国人にフランス国民の称号を与え、その精神はフランスに1年以上居住する外国人に市民権を認めた1793年6月24日憲法にも反映していたが、ジャコバン独裁体制による恐怖政治が進展する中で、「友愛」精神は排外的ナショナリズムと外国人嫌悪のイデオロギーに暗転する。多数の外国人が反革命派=「敵」として追放・弾圧・財産没収・処刑の対象となった。「人類の恩人」として名誉国民とされた「世界市民」アナカルシス・クローツは1794年3月14日、エベール派の人々とともに断頭台の露と消え、同じく名誉国民とされ、エドマンド・バークのフランス革命批判に対してフランス革命を熱烈に擁護したトマス・ペインはクローツらとともに逮捕・監禁された(処刑は辛うじて免れた)。
このように、当初のコスモポリタン的な「友愛」精神が外国人嫌悪の排外的ナショナリズムへと劇的に転換したのはなぜか。この問いに対して、ロジャーズ・ブルーベイカーは、フランス革命が国民国家と国民的市民権を発明した革命であったために、それは同時に外部性・異質性という政治心理的負荷を帯びた外国人を発明したからだと説明する。つまり、戦争と派閥闘争という加熱した政治的雰囲気の中で、「外国人の陰謀」理論が繁茂するのを可能にし、外国人に対する苛酷で抑圧的な措置に正当化の外皮を提供したのは、国民国家の論理が内容する外国人の定義上の外部性だった、というのである(Rogers Brubaker, Citizenship and Nationalism in France and Germany)。
このように見てくると、外国人との連帯の原理にもなりうると同時に、外国人を排斥・抑圧する排外的原理にもなりうる「友愛」理念の深い両義性について、簡単な評価を下すことはできない。自由と平等が本質的に普遍主義的理念であるのに対し、「友愛」は本来的に、「兄弟」、「友」、「同胞」、「我々」という境界線の内部における連帯と統合の原理であって、「余所者」、「敵」、「異邦人」、「他者」といった境界線の外部との区別を想定している。しかし、政治というものが自由や平等といった普遍主義的原理だけでは成立せず、何らかの統合の原理を必要としていることも事実である。そして、「自由・平等」とともに「友愛」を「共和国」の理念としているフランスが、批判的精神を身に付けた市民を養成する場としての公教育を極めて重視するとともに、多文化主義を断固として拒否するという、極めてユニークな共和主義理念に立脚していることは、(賛否は別にしても)やはり意義深いことだと思われる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study373:110122〕
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