三つの小沢一郎論 ―判官贔屓的なるもの―
- 2011年 1月 25日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市小沢一郎朝日新聞
11年1月22日の『朝日新聞』に興味ある小沢一郎論が三つ載った。
一つは「天声人語」、あとの二つは「オピニオン」欄の松本健一と保阪正康による小沢論である。これには「日本史に見る小沢流」というタイトルがついている。
《先輩記者に寄り添う「天声人語」》
「天声人語」のテーマは小沢批判である。
知米派の元朝日新聞記者松山幸雄が米学生に「企業ぐるみ選挙」を説明したら「それは政治学というより文化人類学の領域ではないか」と問われて恥ずかしい思いをしたという。また松山は「米国の知日派の会合で『小沢一郎氏の力の源は何か』と聞かれるのが一番困る」と言ったという。天声人語子は「(小沢は)思想的な牽引力があるわけではない。演説は下手。時々雲隠れし、たまに会見してもレベルの高からぬ話―。それでいて政治のリーダーなのが、彼らには何とも不思議らしい」と書く。ここでの「彼ら」は米人知日派のことであろう。さらに、衆院政倫審への出席をめぐり小沢が「駄々をこねている」、「潔白を進んで明らかにする道義的責任を常に負う」、「国政の十字路に転げ落ちて動かぬ巨石」、「岩に足が生えぬなら、動かすしかない」とレトリックを駆使したのちに、吉田茂の「反対党もしっかりしないと与党もまとまらない」という意味の発言を引きながら、国会での「政治学」の領域の熟議が聞きたいと結ぶ。
《西郷隆盛たれという松本健一》
評論家の松本健一は、小沢一郎の特徴をいくつかのキーワードで次のように語る。
「理念のなさ、明確なビジョンの欠落」、つまり「小沢が尊敬する大久保利通の〈西洋に負けない近代日本の形成〉」といったような理念が小沢にはないというのである。小沢の手法は「利益誘導」であり、その実践は「権力基盤確保だけが目的の権力闘争」になっている。小沢は自著『日本改造計画』(93年)で、個人の自立を説いて「自由放任」的政策を主張した。しかし小泉純一郎がそれを実行して失敗したのを見て、「前の方針とはまったく逆のことをやろう」としている。だが「密室における調整者」であることは変わらないし「利益誘導政治への期待」だけがなお小沢が人々に支持される理由だというのである。
結局、小沢一郎は大久保利通になれなかった。だから西郷隆盛になることが最後の期待である。松本は結論として次のようにいう。
▼西郷は、大久保が中央集権国家をつくっていく課程で取り残された人たちの側に立ち、政府の矛盾や腐敗を正そうと西南戦争を起こした。小沢さんも、守旧派、抵抗勢力といわれようと、農村や限界集落の側に立ち、それを守っていくのが俺の役目だと言うべきじゃないか。政治から取り残されて苦しんでいる人の声を代弁し、国民の社会保障政策に生かしていく。それが小沢さんがやるべき最後の仕事ではないのか。
《「昭和という軸で見ると」》
昭和史の専門家でノンフィクション作家の保阪正康は、何事も「昭和という軸」で考えるという。保阪の目には小沢の前に師匠田中角栄が見える。政治家を「理念派」と「生活重視派」に分ける保阪は、「生活重視派」田中角栄の直弟子として小沢一郎をとらえている。生活重視派の考え方は「哲学や思想などの面倒くさい議論はいらない。要は、ポケットいっぱいおカネがあって、うまいものを食べて、いい家に住んで、立派な道路や橋を車で便利に走るのが人間の幸せなんだ」というのである。田中は40年にわたり国民の欲望を追求した「昭和という時代」を具現化した政治家であった。利益の配分に関わる政治技術のうち「おカネの扱い」において田中と小沢は共通する。たたき上げの田中は、官僚出の政治家のように「政治家・官僚・財界」のトライアングルという「メカニズム」を利用できなかった。身内的人脈で形成する独自のトライアングルで政治を進めた。74年に月刊誌『文藝春秋』の金脈追及で墜落した田中に似て、小沢も「政官財のトライアングル」に組み込まれていない。それで政党助成金の活用などの手法でカネを捻出した。検察の捜査を振り切った小沢に、しかし検察審査会の攻撃は計算外だった。保阪はこの強制起訴に意味があるという。裁判によって「不透明なカネの動かし方を明らか」にし更には「理念の乏しい生活重視の昭和の政治をいまこそ、見直すべきです」というのである。
《無機質・無色・透明な平成の政治家》
保阪の批判は小沢一郎だけにとどまらない。発言が「くるくる変わる」菅直人も、「公」のない「私」だけの「昭和の政治家」である。さらに「平成の政治家」たる前原誠司や岡田克也は、無機質・無色・透明すぎて「強い人がでると簡単に染まる危険」があるという。
その意味でも、やみくもな「小沢たたき」は危険だ。小沢問題の本質は「昭和の政治、田中政治の悪しき面を清算すること」であり「その後に新たな政治をどうつくるか」にあるのである。
小沢の今後について保阪正康は意表をついて次のようにいう。
▼私はあえて小沢さんに首相をしてもらいたいと考えます。小沢さんのおカネの問題に私は批判的です。だがそれとは別に、昭和10年代に生まれ、物心がつく頃、素朴な戦後民主主義を生で注入された彼に、昭和を貫いてきた民主主義とは何か自問し、その世代を代表する政治家として歴史に刻印を押してもらいたいのです。/そんな小沢さんを乗り越える政治家が出てはじめて、政治家の劣化は止まり、平成の政治家の時代が来ると思うのです。
この発言には、小沢による政治倫理面での謝罪や、検察審査会での無罪という条件がついている。だが小沢と同世代に生きてきた保阪のこの心情が私にはよくわかる気がする。
《ダメなのは「天声人語」》
三編とも私は面白く読んだ。
ダメなのは「天声人語」である。「企業ぐるみ選挙」が誇らしいとは私も思わない。ただ「大統領が暗殺される民主主義国」や「国民一人一人が銃をもつ社会」や「200年の歴史で初の黒人大統領誕生」もまた「文化人類学」の対象ではないのか。これは恥ずかしいことではないのか。更に陰険なのはこの話題を小沢の「政治とカネ」の問題に結びつける根性である。同じ問題は小沢以外にもゴマンとある。政治献金廃止を掲げていた民主党もカンバンを外したではないか。
一体、市井の人間がナマの総理大臣を見る機会は一生に何回もない。
一方、政治部の「バンキシャ」なる人種は朝から晩まで政治家に「密着取材」している筈だ。それでいて「思想的な牽引力があるわけではない。演説は下手。時々雲隠れし、たまに会見してもレベルの高からぬ話―。それでいて政治のリーダーなのが、彼らには何とも不思議らしい」などと書いている。なぜ「何とも不思議」なのかを誰にもわかるようにちゃんと書くのが記者の仕事ではないのか。
そもそも小沢の「政治とカネ」の問題について何をどう説明すれば疑惑が晴れるのか私には一向不明である。現在の総「小沢たたき」の空気からすれば「みんな私が悪うございました」といって議員辞職までしないとメディアも人々もは納得しないであろう。私はそこまで要求することには反対である。そんなことよりウィキリークスに暴露された日本の官僚機構の愚劣さを書く方がよほど重要である。記者クラブの諸君には決して書けないだろうが。
「演説は下手」という評価にも私は反対である。民主党党首選での小沢の演説が「下手」だと私は思わなかった。それに演説が下手でも立派な政治家はいくらでもいる。
つまり「天声人語」は自分たちの取材能力と表現能力の欠陥を証明しているのである。
相手は小沢だけではない。小泉純一郎の如き格差社会形成の主犯に対して総理退任後の彼にまともなインタビューをした記事を見たことは一度もない。的確な小泉総括記事を読んだという読者がいたら是非教えて欲しい。
《小沢一郎は西郷隆盛たれ》
松本健一と保阪正康に小沢一郎を語らせるのは適時適切な人選である。
その理由は日本の政治論議に総じて長期の歴史的視点が欠けているからである。二人はその欠落点をカバーできる数少ない論者たちである。そして二人の論調には共通するところも多い。私は二人の共通点を次のように読んだ。
共通する点の第一。小沢への「判官贔屓」的心情である。留保をつけつつ最後の出番を期待している。これは世論調査の多数意見や「小沢たたき」に狂奔するメディアの大勢とは異なる視点だ。党首選で200票―菅は206票―が小沢に投ぜられたことを軽視してはならない。そう考えると「判官贔屓」とばかりも言っていられない。
第二。小沢には「理念がなく権力奪取が自己目的化している」とする点である。
この小沢批判は定番化している。私も反対する気持ちはない。ただ私が小沢だったら、戦後の政治家がみんな、そんなに高邁な「理念」や「哲学」をもっていたのですか、と反論するであろう。吉田茂の「日米安保のもとの経済成長」―その延長である池田勇人の「所得倍増政策」―以外に戦後に政治理念といえるものがあったか。中曽根康弘の「理念」だって「対米従属下の日本自立」という矛盾があり、「経済成長」路線に「グローバリゼーション」の彩色を施したにすぎない。唯一の例外は石橋湛山であろうが、首相在任期間が短かすぎた。保阪は「理念派」と「生活重視派」に分類するが、私は「生活重視派」も理念だと思うから田中と小沢に理念がないとする論はとらない。
第三。日本を取り巻く外交への言及が少ないことである。
これは残念なところである。私は人々が小沢に期待するものは「対米従属」政策の転換ではないかと密かに考えている。過去65年、日本の政治は「米国批判」を試みて悉く失敗した。人々は「剛腕・小沢」に意識下で最後の望みを託しているのではないか。
三島由紀夫は自裁(70年11月)の四ケ月前にこう書いた。
「このまま行ったら『日本』はなくなってしまう」「その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな」経済大国が残ると言った(註)。保阪が前原、岡田を「無機質・無色・透明」というのは、私の意味も含めて、この言語を意識しているのかもしれない。
《小沢一郎は本気で闘うのか》
小沢一郎は日米の「政財界メディア」連合軍と本気で闘う気があるのか。
あったとしてもそれを支える基盤はあるのか。つまり私自身を含む「人々」は本気で小澤一郎を支えようとしているのか。私は小沢の「本気」にも、人々の支持にも、大いに懐疑的である。だが小沢に代わる政治家は誰か。そう問われたとき、私はその存在には更に懐疑的である。争点と主体の双方を喪失した無残な日本が正気を取り戻すには半世紀ほどの時間が必要ではないのか。三つの小澤論への感想を終わる。
(註)鈴木邦男「三島に負け続ける我々 自決から40年「右傾化」の中身問う」、『朝日新聞』夕刊・10年11月25日
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0311:110125〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。