長いだけで無意味な記事、長短にかかわらず考えさせられる記事──先週の新聞から(13)
- 2011年 1月 26日
- 時代をみる
- 先週の新聞から脇野町善造
先週は、胡錦濤(フー・チンタオ)中国国家主席の国賓としての米国訪問が紙面をにぎわした。21日の朝日の「天声人語」で、40年前は資本主義だけが中国を救うとされたが、今は中国だけが資本主義を救うと言われているという趣旨の話が紹介されていた。リーマンショック後の経済の低迷から脱しきれていない、それどころか、新たな危機の不安さえある先進工業諸国にとって、好調な中国経済の持つ重要性がかつてないほど増したということであろう。その一方で根強い中国警戒感は消えていない。そんなに中国が怖いのならば、40年前のように資本主義国・中国が存在しない世界経済を想定すればよさようなものだが、もう世界のどの国民も中国の産品なしには生活できない状態になっている。そうである以上、これまで無数にあった開発独裁(例えば、大昔のヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリア、あるいは朴正煕の韓国)の一変種と割り切って、中国との付き合い方を考えるしかない。
17日の朝日は、胡・国家主席は「18日からの訪米を前に、米ウォールストリート・ジャーナル紙とワシントン・ポスト紙の書面インタビューに応じた」として、その概要を伝えている。ワシントン・ポストは未見であるが、Wall Street Journal (WSJ)はこの質問と返答を巡って詳細な記事を載せている(「質問」と「回答」だけでタブロイド版の2面全部を割いている)。答えたのは事実上中国政府である。勿論、質問全部に応えたわけではない。朝日は「インタビューは両紙が送った質問から7問を選んで書面で答えた。ただ、民主化活動家でノーベル平和賞受賞者の劉暁波(リウ・シアオポー)氏や海軍力の増強、サイバー攻撃についての回答はなかった」というWSJの記事を伝えている。
本当はどんな質問に答えなかったのかのほうが、ずっと興味深いのだが、WSJの記事の中からそれを見つけることは出来なかった。WSJが全文を掲載した「(回答のあった部分だけの)質問と回答」を読めば、中国が自分にとって都合のいい質問だけを選んで答えたことはすぐにわかる。回答のあった7つの質問中、4つまでは経済問題に関するものである。残り三つは、米中関係全般、アメリカやアジアの隣国との平和的発展、それに朝鮮半島の緊張を巡る考えに関するものである。そして経済関係の回答も含めて、大半の回答はまったく当たり障りのないものとなっている。
そうであるが故であろうが、この回答を受けてのWSJの(長文の)記事もあまりインパクトの強いものとはなっていない。日本の新聞はそれでも何紙かはWSJの記事を要約する形で、中国の見解を紹介しているが、欧米の新聞には、この質問と回答についてのまとまった記事を見つけることは出来なかった。中国政府が新聞社からの質問に答える形で表明した考えを報告し、解釈する意味がどれほどあるのか、考えて見れば、大きな疑問である。またそんな回答を大きな紙面を使って伝えたWSJの姿勢にも疑問なしとしない。
WSJや朝日(それに毎日も)が一番注目したのは、ドルを基軸通貨とする現在の国際通貨体制を「過去の産物」としたことである(WSJでは、The current international currency system is the product of the past.と書かれている)。この回答はドルの役割に対する質問のなかでの表現であるが、この質問に対する回答では、「米ドルの流動性は適切かつ安定的水準で維持されるべきだ」(liquidity of the U.S. dollar should be kept at a reasonable and stable level.)ともいっており、基軸通貨としてのドルの役割はもう終わったとしているわけではない。「ドルを基軸通貨とする現在の国際通貨体制は過去の産物だ」という発言は確かにセンセーショナルであるが、政府見解のようなもので、米ドルの意義自体を否定するようなことを言うはずもないのである。発言の一端だけを摘み取ることの危険性を感じざるを得ない。
先週のWSJには、もう一つ、首をかしげるような記事が載った。18日の「21世紀型規制システム構築に向けて」と題するオバマ・米大統領の「寄稿」である。オバマ氏が書いたものは大統領としての、いわば「政府見解」である。「政府見解」を「寄稿」としての掲載するというのは、一体どういうことであろうか。その内容が驚くべきものであれば別だが、規制に関する政府の新たな措置を自賛しただけの平凡な主張である。謎が残る。
16日付のEl País に、¿Tiene salvacion Europa? (ヨーロッパに救いはあるのか)と題するクルークマン教授の論文が掲載された。どこかで見たような論文だなと思ったら、12日のNY Timesに、Can Europe Be Saved? という題名で掲載されたものの翻訳であった。長い論文である。日本語に翻訳したら400字詰め原稿用紙換算で50枚近くになるのではないかと思われる。余りに長いので、NY Timesに掲載されたものは読まなかった。しかし、El País に翻訳が載ったので、スペイン語の勉強だと思い、ザッと眺めてみた。
長いが新聞の論文であるから、実に分かりやすい。労働力の移動の自由が、言葉や文化の壁で、極めて制約されていて、財政も各国が独立している状態で通貨だけを統合したら、一体どうなるか。それが現在のヨーロッパの根本問題だという(そういわれても、それを知っていながら、ヨーロッパ諸国は通貨統合に踏み切ったのである。いまさらこんなことを言われて、もうどうにもならない、と筆者には思えてならない)。そして、クルークマン教授は、もはや後戻り(ユーロの廃貨)は不可能であろうとする。教授の結論は、通貨統合によって、他の通貨に対する為替レートの切り下げという「外的減価」が出来なくなった以上、猛烈な緊縮財政という「内的減価」に耐えるしかないということのようだ。
これを眺めていて、江戸時代の「藩財政立て直し」を思い出した。日本経済史については高校生程度の知識しかないが、あの時代も、「労働力の移動の自由が、…極めて制約されていて、財政も各[藩]が独立している状態で通貨だけが統合されている」状態ではなかったか。そして、各藩の財政が窮乏状態に陥ったとき、とられる手段は「財政の引き締め」しかなかった。こういう状況を封建時代のヨーロッパ諸国は経験しているのであろうか。国民国家とその内部での共通通貨が成立したのは、絶対王政以降ではなかったかという気がする。もしそうだとすれば、日本の封建時代の経済史は現代ヨーロッパに貴重な前例を示すことになる。与太話が長くなった。このクルークマン教授の論文は、いずれ本か何かで読めるのであろうが、こういう長大な論文を新聞で読めるというのは有難い。日本のどこかの新聞がこれを翻訳転載しているのであろうか。
16日のNY Timesには、人民元とドルの為替レートの問題はアメリカにとってはなんら重要性をもつものでないという興味深い、そして実の説得力のある、Wu教授の簡潔な論文が載った。つまり、為替レートの変更によって、米中の貿易の不均衡が是正されることはないこと、第三国市場での米中の競争にそれが有利に作用することはないこと、そのことによって中国の労賃が上がったとしても、発展途上国の労働力の需要が増加するだけで、米の雇用が回復するわけではないこと、がそれである。その通りであろう。どうしてこんな簡単なことが理解されないのであろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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