人々を支えた部落文化 (最終回)
- 2011年 1月 27日
- スタディルーム
江戸時代末期の京の様子を書いた次のような文章がある。「四條の橋から河上へ二町ばかりの間に、色々の飲食店が小屋掛けして…。其の末端に…牛鍋屋三、四軒あった。…牛の本場となっている江州彦根在のえた村で、皮の必要上から屠牛盛んに行われ、えた共其の肉を四條河原に運びて鬻(ひさぐ=商う)のだ」(『日本畜産史』より)。
よく知られる京都祇園神社の前あたりの情景であるが、肉食が禁止されていた江戸時代末期に、当時のキヨメ役(穢多身分)が牛鍋屋を経営しているのがわかる。これだけみると、たまたま見られる情景と思われるかも知れないが、この情景こそ幕末から明治にかけて日本(和人)の肉食文化を一変させ、強いては徳川幕府の価値観を内側から崩し近代社会を建設する大きなきっかけとなったものの一つだ。牛鍋は現代の牛丼、牛皿などに似ている。吉野家は最近かっての「牛鍋」を模して安く売っている。牛丼との違いは牛肉に玉ねぎや豆腐などを入れることだ。
最近の大学生に、現代の肉食文化がどのように始まったか尋ねると、横浜などの開港期に欧米の肉食文化が入ってきてからと答える者が多い。確かにそれは大きなきっかけの一つである。とはいえ、その状況に対応して国内で食肉を生産したのは各地の屠場で働く、主には部落出身者だ。
そしてまた、もう一つ大切なことを忘れてはならない。それは幕末開港期以前から、牛鍋をはじめぼたん(猪)鍋などが京、大阪、江戸で大流行しており、そこで用いる肉の生産は、これまたほとんど当時のキヨメ役だった。冒頭の引用文のように、キヨメ役が自ら牛鍋店などを経営する例も少なくなかったのである。
〔江戸時代末期の厚木の宿場。二つの看板は肉屋。手前上は「精製牛肉漬」下は「薬種」としている。「薬肉のことである〕
江戸幕府は屠牛や肉食を禁止していた。その前の七世紀頃から禁止令が度々発せられれたが、江戸時代に厳しくなったのはキリシタン禁止のためである。しかし陰では将軍や、大名、民衆も肉食をした。本来和人は肉食文化をもっており、健康によいことを誰れでも知っていたからだ。こうした内なる状況に欧米文化が重なり、幕末に大流行。幕府の統制が効かなくなって、明治政府が肉食禁止をやめたのである。こうした動きによって、日本の近代、そのきっかけとしての明治維新の変革が肉食文化・部落文化によって推進されたのがわかってくる。
厳しい差別の中にあった
屠畜・肉食文化への差別は厳しかった。私の姓の川元は江戸時代の屋号で「皮の屋」だったのをお寺の住職に聞いたことがある。皮革産業をしていたのだ。一方母方の家(私はこの家で育った)は「屠牛」を家業としていた。と言っても、私が育った頃はその面影がまったくなかった。私が成長して部落史やその文化に関心を持つようになってからわかったのであるが、そこには厳しい差別があり、私の母方の家は屠畜・肉食への差別で家庭破綻していた。
一八七一(明治四)年に「賤民解放令」が発布される。その前後、明治政府が次々と発布した新制度「学制制定」(一八七二)「徴兵令」(一八七三)「地租改定」{一八七三}などに反対する一揆が各地に起こる。その中に「解放令」反対もあった。「えたは元のままにしておけ」といった要求だ。この部分の要求が特別強かったものを後に「解放令反対一揆」と呼ぶ。当時は「えた狩り」と言われた。
「解放令反対一揆」が最も広く厳しく行われたのは私が育った地域、当時美作国(現・岡山県津山市)だった{一八七三年}。三千人とも六千人ともいわれる農民などが新制度に反対して一揆を起すが官憲に阻止され、そのとき解散を強いられた一揆勢は、各地に点在する旧キヨメ役村・えた村に向かい、「元のえたでようござんす」という念書を書かせてまわった。拒むと打壊しや一部では竹槍などを使った殺戮があった。
私が育った村は念書を書いたが、私の家ともう一軒が屠畜業をやっていたので「醜業」だとして廃業を迫られ、それを拒んだので二軒が打壊しにあった。当時の裁判記録(『近代部落史資料集成 第二巻』三一書房)で次のように証言されている。両家は「屠牛ノ醜業ヲ致スに依リ、是非トモ家屋可及放火(ほうかにおよぶべき)」ということになった。しかし類焼を恐れて打壊しを行う。その結果母の家は屠畜業を廃業するまでに追い込まれた。(拙書『もうひとつの現代』三一書房参照)。
私の家がやっていた「屠牛」は、当時の神戸、大阪、東京などで大流行していた牛鍋など肉食文化に対応した家業だったと思うし、当然全国の部落でもこうした家業があり、日本近代の肉食文化を支えたと思われる。しかし一方で、それを「醜業」として廃業を迫る偏見・差別観が根強く存在したのがわかるのである。
価値観の二重構造と文化
先の事例で、近代初期の日本(和人)社会にみる肉食文化の価値の二重構造がみえるが、これを超えるのは、特別苦心するような話しではない。現に肉を食い、少なくとも栄養的に価値を認める以上、食肉を生産した者の歴史と文化をまるごと無条件に認めることだ。こんな簡単なことがなぜ実現しないのか不思議なくらいだ。しかし考えてみると部落の歴史と文化の中で、その文化が人々の生活の中で不可避なものとして存在するのを部落史・文化の全体像と共に明にすることもこれまでなかったのである。そのような意味で、部落文化の全体像は偏見・差別観を超える大きな手掛かりなのだ。
ここでその歴史を江戸時代に絞って少し見ておきたい。先に言ったとおり、制度的に肉食禁止でありながら、陰の文化として人々は肉を食べたし、生産もされた。その典型が彦根藩にみられる屠畜と食肉産業、その文化だ。
江戸時代の各藩の中で屠畜・食肉生産が公然と行われたのは彦根藩だけだった。なぜそうだったのか明確にはわかっていないが、背景に朝鮮半島の肉食文化の影響があると想定されている(『日本畜産史』法政大学出版局)。このことについては今後も考察をすすめ皮革産業と共に別の機会に論述したいと思っている。
ともあれ彦根藩では江戸時代を通して公然と屠畜・食肉生産が行われた。冒頭の引用文で「牛の本場となっている江州彦根」とはこのことだ。ここから江戸の将軍や家老、あるいは僧侶や医者、あるいは各地の大名に牛肉の味噌漬、粕漬、干肉などが送られた。
〔「御用=将軍につきて干牛肉」とし、幕府老中の牧野氏が彦根藩主井伊に送った感謝状。
この干肉を当藩の部落が作った〕
と言っても簡単ではない。幕府は屠畜・肉食を禁止しているのである。将軍が公然と肉食をしたら、自ら発布した法を自ら破ることになる。そこでひと工夫した。「肉を食べるのではなく薬を食べる」とした。「薬肉」として食べたのである。日本人(和人)の「本音と建前」の使い分けはこうしたところに深淵があると私は思っているが、彦根から江戸に肉を搬送するとき、「反本丸」という薬名をつけた包装紙に包んで早馬で送った。包装紙は柿渋で防菌した。しかも、二つの荷を作り、東海道と中山道を早馬で同時に出発した。どちらか一つ事故があっても、他の一つがたどり着き将軍が肉を食べられるようにしたのだ。
〔「反本丸」の版木と印紙。干肉だけでなく味噌漬け、粕漬けの肉が将軍や各地大名などに送られた。「近江の味噌漬牛肉」は今でも好評でデパートなどで売られる〕
これほどに肉は重宝され食べられた。差別の対象でありながら、人の健康・生命に欠かせないものだった。
【拙書『部落文化・文明』御茶の水書房より】
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「人々を支えた部落文化」のこれまでの掲載は以下をご覧ください。
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〔study377:110127〕
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