「原発や安倍晋三首相や橋下徹氏……を『悪』と断罪」してはならないか
- 2016年 3月 1日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
毎日新聞に、評論家若松栄輔の連続対談企画がある。「理想のかたち」という標題。
その第11回がゲストとして作家吉村萬壱を招いて「先進国でのテロ事件」を論じている。一昨日(2月27日)の朝刊。
リードは、「きれいごとでは済まない人間の姿を描いてきた吉村さん。昨年11月のパリのテロ事件を受けて、時代に抗する言葉はどう生まれるか、単なる反戦ではない「非戦」の意義などを話し合った」というもの。これなら読みたくなる。
吉村は、「『きれいな言葉』ってありますやんか。「愛」とか「平和」とか「祖国」とか。こういう言葉が流布するときは危ない。僕はきれいな言葉が、どうも好きになれない。小説ではそれを骨抜きにする作業をしています。」という。
これに、特に文句を言う筋合いはない。
若松「大事にしたいのは、反戦と非戦の違いです。目の前の戦争に反対して、その戦争を止めるまでが反戦。非戦は、戦うこと自体を徹底してなくそうと考える。反○○で解決はない。こちらが善で、こちらが悪の……。」
吉村「二項対立では解けない。犯罪者がなぜ犯罪を犯すのか。理由をさかのぼれば無限に遡行できる。刑法はそこに線を引いて直接の個人に罪を負わす。」
若松「限りなく不可能でも、敵を悪ではないと見なすところからしか平和は生まれないでしょう。」
ここまでは、結構。若松の『敵を悪ではないと見なすところからしか平和は生まれない』には共感する。ところが、次がおかしい。
吉村「インターネットでは、ISや中国や原発や安倍晋三首相や橋下徹氏……を『悪』と断罪して自分を善だと錯覚したい人ばかり目立ちます。でも、『自分は正しい』と思っている人が、自分は『悪人』だと自覚している人よりも善人だとは必ずしも言えない。」
なんだ。そりゃ。いったい。
吉村萬壱は「原発や安倍晋三首相や橋下徹氏……を『悪』と断罪して自分を善だと錯覚したい人ばかりが目立つ」ことを嘆いているのだ。これが、「敵を悪ではないと見なすところからしか平和は生まれない」の文脈と同義として語られるから混乱せざるを得ない。
これが、「時代に抗する言葉」だというのか。二項対立では解けない問題提起だというのか。これが、時代に切り込む姿勢だというのか。それが文学だともてはやされるなら、私たちの社会の前途は暗い。
もっとも、この手の発言は、昔から掃いて捨てるほどある。リベラルな発言をしておいて、そのあとに「私はけっして反体制ではありません」「危険思想をもってはいませんよ」と毒消しの発言をしておくあの手だ。「だから安心して私を使ってください」というアピールにしか聞こえない。二項対立の一方に立つ姿勢を示すなんぞ、ダサイ。愚か。いや損ではないかという態度。そういう手合いの一群。立派な日和見主義ぶりではないか。保身は、よぼよぼの老人になってからでも遅くない。
原発も安倍晋三も橋下徹をも「悪と決めつけてはならない」とは、この世のすべてを相対化すること。理想を揶揄し、権力に対する批判を嘲笑し、よりよい社会を作ろうと努力する人たちへの、冷ややかな醒めた視線。
毎日新聞も、貴重な紙面を割いてつまらない対談記事を載せたものだ。
もっともっと、熱くなって原発批判をしよう。安倍晋三批判もやろう。橋下徹批判も徹底しよう。そのエネルギーでしか、社会や歴史を変えることができない。
(2016年2月29日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.02.29より許可を得て転載 http://article9.jp/wordpress/?p=6495
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〔eye3313:160301〕
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