徐京植氏の和田春樹氏に対する全面批判の論稿を読んで(上)~「従軍慰安婦」問題をめぐる日韓政治「決着」を考える(9)~
- 2016年 3月 13日
- 時代をみる
- 醍醐聡
2016年3月12日
標題の連載テーマについて1月28日に8回目の記事を書いてから、次は朴裕河『帝国の慰安婦』論やら、上野千鶴子氏の「従軍慰安婦」論について論評したいと思いながら、長らく中断してしまった。
今回、続編を書こうと思い立ったのは今朝の『ハンギョレ』新聞に「日本知識人の覚醒を促す 和田春樹先生への手紙」と題する徐京植(ソギョンシク)氏の長文の寄稿が掲載されたことを知ったのがきっかけである。まずは、3回に分けて掲載された徐氏の論稿のURLと小見出しを書き出しておきたい。
徐氏の論稿の構成
(1)http://japan.hani.co.kr/arti/international/23573.html
・「最終解決」
・暗鬱な風景
・初心
・「第四の好機」
(2)http://japan.hani.co.kr/arti/international/23576.html
・アジア女性基金
・亀裂
・初期設定の誤り
・逆方向のベクトル
・現実主義
・当事者のため?
(3)http://japan.hani.co.kr/arti/international/23577.html
・朴裕河現象
・「邪悪なる路」
理よりも「同志的」心情を立てる日本社会にとっての反面教師
徐氏の論稿に触発された―――言うまでもなく無批判的な「共感」ではない―――のは2つの理由からである。
一つは、徐氏が、「私自身の肉親も含めて、苦難を嘗めた者たちからみれば、恩人ともいえる」和田春樹氏に対し、心情を絡めず、和田氏の「和解の思想」に対し徹底した理性的全面的な批判を展開している点である。
たとえば、徐氏は、和田氏がアジア女性基金を推進する中心的人物に就いたことに「驚愕した」と記し、1953年、日韓会談が「久保田発言」で中断されたとき、当時17歳の高校生であった和田氏が、「昔のことはすまなかったという気持ちを日本側がもつか持たぬかは会談の基礎、この点について歩み寄りの余地はない」という韓国側の主張は「朝鮮民衆の声」であり傾聴されるべきだと思った、そのとき以来、自分は日本国民の考えが改められるように願ってきた、と語ったことを振り返り、「その思いがなぜアジア女性基金推進へと繋がっていくのか、論理がうまくつながりません」と疑問を突きつけている。
さらに、徐氏は、「当事者のため?」という小見出しがついた箇所で、基金の「償い金」支給事業を正当化するときに、よく用いられる「被害当事者は高齢化しており残り時間は少ない。せめて償い金を受け取ってもらって心の安らぎを与えたい」という物言いを「国家責任回避装置であるアジア女性基金に『道徳』」という粉飾をこらす機能を果たしている」と切り込み、こうしたレトリックの普及に小さくない役割を買って出た「〔和田〕先生は徹頭徹尾、国家によって利用されたということになるでしょう」と断罪している。
日本社会では、「世間」と称される空間ばかりでなく、左派とかリベラルとか称される人々の間でも、否、そうした人々の間ではよけいに、過去の親交とか「同志的配慮」とやらを理由(口実?)にして、原理原則に関わる意見の相違を脇に置く傾向が強まっているように見受けられる。それが強権政治や右派イデオロギーと思想的に対峙できない脆弱さの原因にもなっている。
今回の徐氏の寄稿は、このような日本社会の理性よりも心情を立てる陥穽、長い目で見た共同の意思の思想的底上げよりも、当座の協調を重んじる機会主義的言動の危うさに身をもって警鐘を鳴らすかのような論理の切れの良さ、鋭さがちりばめられている。この点に私は魅せられた。
日本のリベラル知識人の思想の真贋に対する問いかけ
私が徐氏の寄稿に注目したもう一つの理由は、「日本知識人の覚醒を促す」という寄稿のメイン・タイトルにもあるように、徐氏が和田春樹氏の「和解の思想」の質を問うだけでなく、「リベラル」という枕詞を付けられる日本の知識人の思想の質の真贋にまで鋭く、仮借なく切り込んでいる点である。
たとえば、寄稿の(3)で徐氏は「朴裕河現象」を取り上げ、同書の歴史認識と「和解の思想」の特徴的な誤りを鋭く指摘すると同時に、「朴教授の著作そのものよりも深刻な問題は、それが日本で持てはやされている現象です」と危惧を提起している。
この点をさらに、踏み込んで徐氏は、「『帝国の慰安婦』には(しばしば互いに矛盾する)いろいろなことが書かれていますが、執拗に繰り返される核心的主張は、慰安婦連行の責任主体は『業者』であり『軍』ではない、『軍』の法的な責任は問えない、というものです」と指摘すると同時に、「この主張は、実際のところ、長年にわたる日本政府の主張と見事に一致しています」、「安倍首相が『人身売買の犠牲者』という言葉を使うのも、『業者』に責任転嫁して国家責任を薄めようとする底意を表しています」と続けている。
ここで徐氏が強調するのは、「嘆かわしいことは、このような朴教授の著書が日本ではいくつかの賞を受賞し、人気を得ている現象」である。徐氏は「なぜ、こういうことが起こるのだろうか?」と自問、かつての自著「和解という名の暴力」で述べた次のような推論を改めて記している。
「朴裕河の言説が日本のリベラル派の秘められた欲求にぴたりと合致するからであろう。/彼らは右派の露骨な国家主義には反対であり、自らを非合理的で狂信的な右派からは区別される理性的な民主主義者であると自任している。しかし、それと同時に、近代史の全過程を通じて北海道、沖縄、台湾、朝鮮、そして満州国と植民地支配を拡大することによって獲得された日本国民の国民的特権を脅かされることに不安を感じているのである。」
徐氏のこの前段の指摘は、以前、この私設のブログにもコメントとして紹介があった。正直な感想として、「日本国民の国民的特権を脅かされることに不安を感じている」という意識が日本のリベラル派にも浸透しているとまで私は考えていない。この点では徐氏と認識を異にしている。
「お詫び」は日本人が自らの「良心」を慰めるためのものではなかったか?
しかし、ありていに言うと、安倍政権批判を繰り広げる日本の市民の間で―――さらに、そのような行動を呼びかけているメンバーや革新政党の間でもーーーアジア女性基金が「被害者救済のためではなく、まして、日本国家の責任を明らかにして新たな連帯の地平を切り開くためでもなく、日本人が自らの『良心』を慰めるためのものだったのではないのか。それは謙虚の衣をまとった自己中心主義ではないのか、その心性を克服することこそが問われている課題ではないのか」(徐氏、今回の寄稿の(2))という洞察をどこまで理解できるのか、この問題にどれほど関心を向け、理性的に考える思想を持ち合せているのかという疑問を私は拭えないでいる。
こうした疑義、批判、思想面のもろさは、昨年12月の日韓「合意」の際に安倍首相が従軍「慰安婦」問題について韓国政府に「お詫び」の言葉を伝え、「日本軍の関与」を認めたことを以てーーー「不可逆的」という条件が付けられたことも、10億円の拠出と交換条件で日本政府が「少女像」の撤去を要求したという加害国と被害国の関係を倒錯したような外交にも一切触れず―――「慰安婦」問題の解決に向けた前進と評価した日本の革新政党にも、当てはまる。
徐氏も指摘するように、この日韓「合意」はアジア女性基金設立の時と同じ「和解の思想」を低意とし、韓国政府がそれに卑屈に同調した結果、成立したものである。そこでも、日本政府の「お詫びの言葉」は、朝鮮半島の「被害者救済のためではなく、まして、日本国家の責任を明らかにして新たな連帯の地平を切り開くためでもなく、日本人が自らの『良心』を慰めるためのものだったのではないのか」という根本的疑義を私は持っているし、なによりも当の被害者や韓国社会にそのような疑義や不信が今も渦巻いている。こうした事実について黙して語らずの態度のまま、立憲主義の基礎には個人の尊厳を重んじる思想があると当の革新政党に言われても心底から信任はできないのである。
替えられし弁当の砂に額伏せて食(は)めばたちまち喚声あがる
喚声にかこまれて食(は)む砂の粒声こらえつつ地を這うわれは
隠滅のはてに還らぬ慰安婦ら朝鮮おみなと知れば悲しく
侵略戦争語らず詫びず恥じるなく戦後を了(お)えて日本は強し
(李正子『鳳仙花のうた』磯貝治良・黒古一夫編『<在日>文学全
集 17巻 詩歌集』2006年、勉誠出版、に収録)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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