文化大革命の実態を語るひと
- 2016年 3月 15日
- 評論・紹介・意見
- 文化大革命阿部治平
――八ヶ岳山麓から(176)――
今年は中国で文化大革命が始まって50年にあたる。
現在中国では文革研究は低調だ。新事実の発見があっても公表は控える。文革だけではなく「大躍進」の研究についても有形無形の圧力がかかる。さいきん習近平中国共産党総書記が毛沢東の「大躍進」は正しかったといったそうだから、同じ毛沢東主導の文革では研究はますますやりにくくなっている。
ところが、昨年12月の中山大学(広州市)の「文化大革命の反省」講座で、具体例をあげて文革の実態をリアルに語った教授がいて、関係者や学生の注目を浴びた。この教授は于幼軍という。
Wikipedia・「百度」などによると、于幼軍は1953年広東省生れ。1985年に河南師範大学政治教育学部卒業。中学教師などを経て、86年広州市委宣伝部長に抜擢され、以後官僚として出世し、05年山西省の党委副書記、省長などを務めた。2007年10月の第17回党大会を目前に、文化部副部長(文部科学省次官)、党組書記に異動したが、第17期三中全会で、中央委員を解任され失脚した。それから中山大学教授になるまでの経歴は詳らかではない。
彼は聴講を大学の教師らと学生に限り、撮影や録音をやめさせたうえでこの講義をおこなった。講義内容は、若者にとっては衝撃的で深刻であろうと思われる。はばかりながら中国の学生らは、大躍進や文革について我々日本人ほどの知識はない。
于幼軍は講義の中で、劉少奇国家主席をはじめ、230万の官僚が迫害され、副部長(省次官)レベルの75%が審査あるいは打撃・迫害を受けた。またその経済的損害は5000億元に及ぶだろうと語った。ここにいう打撃とは言論思想上のことではない。吊し上げやぶん殴ることである。迫害というのは拷問や殺人のことである。
また彼は文化大革命直後の葉剣英(1897~1986)の講話を紹介した。葉将軍は、1978年12月13日に開かれた中共中央工作会議の閉幕式で、「文化大革命によって2000万人死亡、1億人が迫害された。これは全国人口の9分の1である。浪費は8000億元に達した」と語ったという(数値はもちろん推定)。
于幼軍教授は、学生の「文革再発の危険性はあるか」という質問に答えて、「文革の起きるような土壌はやはり存在する。とくに理性の存在しない条件のもとでは再発する可能性がある」と話した。
彼は講義で紅衛兵や「革命的集団」による、主に歴史上の人物の墳墓破壊・盗掘の事実を明らかにした。もちろんこれは文革で破壊した文化遺産のごく一部である。しかも私は于幼軍教授の講義の一部しか得られず、判読できないところもある。しかし文化遺産がどの程度破壊されたかまとまった研究がない現在、判読できた墳墓破壊の例だけでも要約して紹介する意味があると思う。
( )内は阿部。
伝説上の「三皇五帝」・学者などの祠・祭殿の破壊
伝説上の人物、炎帝・倉頡(漢字創設者とされる)・舜帝・禹帝の墓・祠は各地にあるが、これがことごとく暴かれ破壊された。なかでも禹帝の塑像の首は切取って板の上に乗せ、紅衛兵が街頭をねり歩いた。
孔子廟(山東省曲阜?)の石像石碑も同様の運命にあった。孔子76代の孫令胎の墓も暴かれた。全国でどの程度の廟や祠が壊されたかはわからない。
「封建時代」の人物の墳墓・廟の破壊
これぞという歴史上の人物の陵墓・記念の石碑群はことごとく破壊され、平らにされ、跡形もなくなった。于幼軍は20数人の墓や博物館をあげているが実際に調査が全国的に行われれば、この数百倍にはなるだろう。山西省では党書記が博物館内の展示品のすべての破壊を命じた。これを知った博物館長が駆け付けたときは人頭一つしか残っていなかったという。
劉邦との戦いに敗れた項羽の覇王廟・虞姫の陵墓、漢武帝の将軍霍去病(BC140~117)の墓、諸葛亮(181~234)の墓と石碑群、医聖とうたわれた張中景(150?~219、後漢の医師・官僚)の医聖祠、書聖王羲之(308~361、東晋)の陵墓、宋代の隠遁詩人林和請(967~1028)の墓、明朝陽明学の祖王陽明(1472~1499)の墓、包青天(包拯999~1062.北宋の人。歴史上人気のある清官)の墓などがことごとく掘り返され、埋葬品は壊されるか持去られた。
河南省蕩陰県の南宋将軍岳飛(1103~1142、)の墓と、岳飛を殺した秦檜(1090~1155)の「五奸党」の鉄製跪像、歴代の石碑類もことごとく破壊された。杭州西湖畔の岳飛墓では岳飛の骨を燃やして灰にした。岳飛も秦檜も「封建人物」という判断でやったのであろう。
明朱元璋(1328~1398)の巨大な南京明孝陵の石碑はみな引き倒し。石人石馬は爆薬で粉砕した。
さらに明中期の清官とうたわれた海瑞(1514~1587)の海南島天涯海岸の墓をあばき、骨は掘り出して町で見世物にした。作家呉晗が1961 年に発表した京劇戯曲「海瑞官をやめる」は、1965年に突然姚文元(文革「四人組」の1人)の「新編歴史劇『海瑞官をやめる』を評す」によって批判された。これには毛沢東の加筆があったという。海瑞の墓が壊されたのも、作者呉晗が反革命とされ獄死したのも必然といえる。
明の政治家や将軍、たとえば張居正(1525~1582)・袁崇煥(1512~1584)・何滕蛟(1592~1649)などの墓および堂廟の仏像も壊された。
文学方面では『西遊記』の作者とされる呉承恩(1506~1582)の故居、清朝に入っては『聊斎志異』の作者蒲松齢(1640~1715、)の墓がやられ、遺骨はバラバラにされた。蒲松齢は貧乏で死骸の手にはキセルと印鑑4つしかなかったという。1959年に建てた『儒林外史』の作者呉敬梓(1701~1754)の記念館も壊された。
教育者武訓(1838~1896)の場合は、遺骨を掘り出し、これを担いで街頭をデモし、武訓批判をしたのち焼却した。武訓は乞食をして学校設立資金を集め農民子弟を教育し、のち皇帝から顕彰された人物である。武訓の生涯を描いた映画『武訓伝』は、1951年毛沢東の発動した『武訓伝』批判運動に遭い、映画監督と主役は自己批判するところに追込まれた。文革中は攻撃のマトとなったから、遺骨を燃やしたのは先の海瑞同様の論理である。
これという歴史人物はたいていやられたと思うほかない。
清末以降の人物
李鴻章などとならぶ清末の張之洞(1837~1909)の墓からは夫妻の腐乱した死体がとりだされ木に吊るされたという。死後50年以上経っているのに白骨化していなかったのか、ここは于幼軍講義の怪しいところだ。子孫は片づけることができず、野犬に任されたという(「遺体」は2007年6月河北省滄州で発見された――Wikipedia)。
戊戌の政変の立役者康有為(1858~1927)の墓。若い中学教師に引率された初級中学生らが「保皇派(保守勢力)の親玉」を引っ張り出し民衆に示すとして、康有為の墓を掘り、彼の骨を縄で縛って、あたかも康有為の魂が骨に宿っているかのように鞭で打ち、街頭を引きずってデモをした。デモが終わると青島市造反有理展覧会に送った。そこには「中国最大保皇派康有為の狗頭」と書いてあった。「狗頭」はバカヤローのこと。
排満興漢の光復会を結成した章炳麟(1869~ 1936)・徐錫麟(1873~1907)・女性革命家の秋瑾(1875~1907)の墓もことごとく破壊された。徐錫麟は清軍に腹を切られて殺され、肝臓がとりだされて食われた人物である。秋瑾は斬首刑のとき「秋風秋雨、人を愁殺す」の句を残したというのにこの始末である。
浙江省奉化県の中華民国総統蒋介石(1887~1975)の生母の墓は、上海の大学生の指導の下、寧波中学生徒が暴き、遺骸と墓碑を掘り出してぶち壊し林の中に捨てた。抗日戦争の名将(と日本軍も称えた)張自忠(1891~1940)が建造した江蘇省南漳県の張公祠の衣冠塚と三個の記念亭も壊された。
西安で張学良とともに反蒋クーデターを起し、蒋介石に抗日を迫った楊虎城将軍(1893~1949)は幼い娘を含めた一家全員国民党に殺されたが、なお紅衛兵によって辱められた(楊虎城関係、以下判読できず)。
おわりに
文革は毛沢東の呼びかけによって、「我々は搾取階級のあらゆる旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣(四旧)を大いに打ち破り四つの新を打立てる」として始まった。そして壮大な破壊・殺人になった。そして文革をやった連中の歴史認識は以上の程度のものだった。
あの当時中国は荒廃の極に達し、経済は崩壊の危機に瀕していたというのに、日本では文革を生半可に知って礼賛し、さらには「歴史的・哲学的意義」を求めた人々がいた。だが実態を知らずしてなにがわかるというのだろう。どんな悲劇でも事実を忘れてしまえば、いくらでも再現するのだ。
3000万、4000万の餓死者を出した「大躍進」が毛沢東のコミューン幻想だったとすれば、文革は彼の狂気だったというほかない。
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〔opinion5965:160315〕
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