安保法制を無力化するために抵抗の輪を広げよう
- 2016年 3月 30日
- 時代をみる
- 伊藤力司安保
2012年12月に発足した第2次安倍内閣は「積極的平和主義」という美名のもとで、日本を再び戦争のできる国にするための策動を着々と進めてきた。13年12月には国家安全保障会議(日本版NSC)を設立するとともに特定秘密保護法を成立させた。14年4月には防衛装備移転3原則と称する武器輸出を可能にする法令を閣議決定。同年7月集団的自衛権行使容認を閣議決定、15年4月には日米防衛協力指針(ガイドライン)再改定、同年9月安全保障関連法を参議院で強行採決。
そして昨3月29日午前零時をもって安保関連法は施行された。これで戦争放棄を定めた日本国憲法9条に違反して、自衛隊が海外に派遣され米国など他国の戦争に巻き込まれて戦うことが法制化されたことになる。しかし自衛隊の集団的自衛権行使は違憲だと考える元防衛省高官の柳沢恭二氏は、自衛隊の海外出動はどんなに早くても今年の秋以降と予測する。それまでに9条を守るべきだと考える日本国民の多数派が安倍内閣に明確な「NO」を突きつければ、事態は変わり得ると述べている。今夏の参議院選挙はその勝負どころだ。
考えてみれば2006年に登場した安倍第1次内閣は教育基本法の改悪などを強行したものの、首相の胃腸病悪化という理由で1年足らずで瓦解、以後福田内閣、麻生内閣と1年ごとに首相が変わるという自民党の失態が続いた。2009年8月の総選挙で民主党が大勝して政権交代が実現したものの、党内の混乱や実務を仕切る官僚集団の抵抗で年来の公約は実現できぬまま、鳩山、菅、野田と首相がコロコロ変わる不安定政権に終わった。
この3年間の民主党政権が、2011年3・11の大震災プラス東京電力福島第1原発の大事故という大災厄に見舞われるという不運はあったにせよ、見るべき改革はほとんどないままに終わった。あげくの果てに当時の民主党野田首相は12年11月、野党だった自民党の挑発に乗って衆議院を解散、12月の総選挙で今度は自民党が大勝。安倍第2次内閣を発足させることになった。
自民党は結党以来、日本国憲法はアメリカ占領軍に押し付けられたものだから、いずれは不戦をうたった9条をはじめ、公共の利益より個人の権利の尊重をうたった西洋流の原則を「大和流」に改めたいと志向してきた。第2次大戦中の日本帝国で腕を振るった「戦犯」岸信介の孫に生まれた安倍晋三氏は、「おなかの病気」で心ならずも一旦は退場したものの2度目のチャンスに奮い立った。
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